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2020 読書この一年

※2020年12月30日にCharlieInTheFogで公開した記事(元リンク)を転載したものです。


 2020年の年間読了冊数は138冊でした。昨年が139冊でしたので、月平均11冊超のペースを維持して読書を続けられました。今年読んだ本の中から印象的なものをご紹介していこうと思います。


身体・認識の不思議さと厄介さ─『手の倫理』『やってくる』

 今年読んだ本の中で、最も読書体験としてエキサイティングで、鮮烈な印象のある本は何と言っても伊藤亜紗『手の倫理』(講談社選書メチエ、10月発売、10月12日読了)でした。同じ接触にも、一方的・物的な関わりとしての「さわる」と、相互的・人間的な関わりの「ふれる」という2種類が存在するというところから本書は議論を始めます。

 人に「ふれる」と、「ふれた」人の外形や質感だけでなく、その人の感情や意思まで読み取ってしまう。そうした接触という行為自体の、能動・受動という枠組みだけで捉えることの難しさや、信頼を基盤としたコミュニケーションとしての性質について本書は考察を深めます。こうした接触の倫理を考えることには、道徳や時間、空間の存在を相対化する力があるといいます。曖昧で時に自分の意思をも揺るがす「ふれる」「さわる」の不思議さ、厄介さと力強さを明快に論じた傑作です。

 身体論では、頭木弘樹『食べることと出すこと』(医学書院、8月発売、10月3日読了)も好著でした。重い潰瘍性大腸炎を患い、食事と排泄を思いのままにすることが困難になったカフカ研究者の闘病記です。

 食べられない物なのに「せっかくあげたのだから」としつこく勧められた経験は、食物アレルギー患者である私も共感する話です。ただ、本書が面白いのは著者がこの経験から考察を深めるところ。宗教が教義に食事制限を掲げることには、同じものを食べるものを同志としてまとめ、それ以外の者との分断をもたらすという性質を持っているのではないかという考えに至るのです。

 人が当然のようにしている食事と排泄が、人間の感覚、感情、コミュニケーションの基盤に入り込んでいる様に数々のエピソードが気付かせてくれました。切実でありながら、映画やエッセイなどを引き合いにユーモアを交えて展開される文章が魅力的な一冊です。

 郡司ペギオ幸夫『やってくる』(医学書院、8月発売、10月11日読了)はデジャブ、ゲシュタルト崩壊のような、なんとなくハッと感じる分かり方を「天然知能」と呼び、その重要性を前面に押し出す啓蒙書です。「天然知能」と対照的に、問いに対する回答という思考をずっと繰り返していく知性を「人工知能」と本書では表しています。

 例えば「小さい紙屑ならばゴミ」と掃除ロボットに指示すれば、それがとても重要なメモ書きであっても「ゴミ」と判断してしまいます。人間であれば「小さい紙屑ならばゴミ」という問いと答えに従って事に当たりつつも、重要なメモ書きを見つければ、それがたとえ小さい紙屑であっても、ゴミかどうかを考える前において既に、ゴミとしない判断を下しているのです。

 問いに対する回答という思考と、想定外の外部を受け入れる準備とが、同時になされていることが人間において重要であり、こうした懐疑や留保によって外部と接続されている状態を排斥すれば、官僚の「忖度」のような「人工知能」的な知性に堕してしまうと喝破。「やってくる」という受動を待ち構えることを、能動的に選択することに善を見出す思想は、國分功一郎『暇と退屈の倫理学』(増補新版、太田出版、2015年発売、11月14日読了)とも共通性を見出すことができると思いました。

絶えざる暴力の中で言葉を取り戻す─『海をあげる』

 暴力が日常化された社会においては、様々な形をした権力が人から言葉をも奪っていきます。例えば性犯罪被害者に対する差別的な視線。あるいは、米軍基地を巡る沖縄への本土の眼差し。言葉を発すること自体への抑圧の中で、それでも抑圧された人々の言葉を拾い集め、世に問うた本についても紹介したいと思います。

 打越正行『ヤンキーと地元 解体屋、風俗経営者、ヤミ業者になった沖縄の若者たち』(筑摩書房、2019年、12月19日読了)と、上間陽子『裸足で逃げる 沖縄の夜の街の少女たち』(太田出版、2017年、2月6日読了)はともに沖縄の貧困層の若者に取材した社会学者によるフィールドワークです。前者は参与観察の手法で暴走族、解体屋などの若年男性が、後者はインタビューによって若年女性が、苦しみながらどう生き延びようとしているかを明らかにしています。

 『ヤンキーと地元』では中学の先輩後輩関係が絶対視される地域社会の中で、暴力が蔓延していながらも、地元の中で生きることを余儀なくされる男性たちが描かれました。一方『裸足で逃げる』で示されるのは、そうした男性たちや、彼らが中心に位置する社会から抑圧され、虐待や暴力に絶えずさらされる女性たちもまた言葉を失っていく様です。

 痛みの中で生き、言葉を発せない人たちに寄り添う中で、かすかに発せられる言葉を受け止める者たちもまた、傷を負うことになるのは想像に固くありません。上間は今年、『海をあげる』(筑摩書房、10月発売、10月31日読了)で初のエッセイ集を出し、自らの傷も含めて言葉を記しました。そのタイトルの問いかけるものは、本土に住む私たちに向けられています。

 今年、NHK「100分de名著」シリーズで『ブルデュー『ディスタンクシオン』 2020年12月』(NHK出版、11月発売、12月3日読了)の講師を担当した社会学者の岸政彦は「他者の合理性」を理解することの重要性を繰り返し説いています。

 歴史学者の藤野裕子『民衆暴力──一揆・暴動・虐殺の日本近代』(中公新書、8月発売、9月6日読了)が描き出したのは、暴力を国家が独占したはずの近代において、それでも暴力を振るった民衆たちの論理を理解する重要性であり、この点「他者の合理性」と似た問題意識があるのではないでしょうか。一方で、民衆による暴力の向かう先が弱者であったことについて決して免罪せず、民衆暴力の二面性を正面から捉え、どちらかの物語に乗るような歴史修正主義的態度を戒めます。

 その上で藤野は、関東大震災時の朝鮮人大虐殺事件に対し、デマに踊らされた民衆像だけでなく、それを煽動し、あるいは自ら手を下しながら隠蔽した国家権力を敢然と批判しています。歴史学が現在に何を訴えかけられるのかという命題に対する、真摯な応答と感じました。

 濱野ちひろ『聖なるズー』(集英社、2019年発売、9月19日読了)は、動物を性愛の対象とするズーファイル(当事者は略して「ズー」と自称する)に取材したノンフィクションです。彼・彼女らは、自らの性欲を満たすためだけに動物とセックスするのではなく、あくまでも動物を自分と対等な存在として相互に愛し合っているのだと主張します。著者はズーたちと寝食をともにしながら、ズーの言う「対等」や「同意」とは何か、さらに性愛や暴力とは何かといったテーマについて思索を深めていきます。

 ズーにとっての動物性愛とは、(人間と人間との性愛がそうであるように)自らと相手の性欲に向き合うこと。ゆえに、彼・彼女らの価値観に触れた著者は、ペットの去勢が、動物を子どものように可愛がるために性欲を奪う残酷な行いに感じられてしまう、そんな境地に至ります。動物愛護の精神が切り捨てているものに気付かされるのです。

 このノンフィクションを、興味本位の実録モノではなく、私たちの価値観を揺さぶる内容にさせている源泉は、文化人類学者らしい取材の丹念さに加えて、著者の切実な問題意識にもあります。著者は10年にわたるDVから生き延びたサバイバー。言葉を失うような体験をした著者が、性愛を語る言葉を得ていくストーリーでもあるのです。翻って、私も含めてそうした経験のない読者にも、言葉を主体的に獲得していかねばならないという意識が生まれてくる、そんな力のある作品です。

社会保障が行き詰まる現状、丁寧に整理─『日本のセーフティーネット格差』

 今年読んだ経済書は社会保障や財政に関連した本が多くなりました。

 中でも傑作は、酒井正『日本のセーフティーネット格差 労働市場の変容と社会保険』(慶應義塾大学出版会、2月発売、8月2日読了)でした。非正規労働者のほうがセーフティーネットが薄いというパラドックスが、なぜ起きているのかを丁寧に分析した本です。

 社会保険制度の適用範囲を拡大し続けてきた日本の政策の大方針が、なぜ機能しないか。解決策がなぜ簡単でないか。こうした論点の中には、EBPM(エビデンスに基づく政策形成)を社会保障政策に生かすことの難しさについて触れる部分もあるのが本書の面白い点です。抑制的なトーンでありながら、雇用を一つの軸に多彩な制度を対象に入れて議論が進められており、いま社会保障制度を考える上でまず外せない一冊となっています。

 新刊ではありませんが、財政関係で印象的だったのは、佐藤滋、古市将人『租税抵抗の財政学 信頼と合意に基づく社会へ』(岩波書店、2014年発売、3月1日読了)と山森亮『ベーシック・インカム入門 無条件給付の基本所得を考える』(光文社新書、2009年発売、12月9日読了)の2冊です。

 『租税抵抗─』は、日本が国際比較上、国民の税負担は低い部類に入るにもかかわらず、痛税感はとても高い部類に入るというパラドックスについて、その原因と解決策を展望する研究書です。所得捕捉に関する水平的公平性の乏しさや、財源の社会保険依存による受益者負担論理の強化が、痛税感につながっていることを指摘しています。

 本書が解決策の一つとして挙げているのが「給付の選別主義から普遍主義への転換」ですが、普遍的給付の最たるものといえば、昨今聞く機会の増えたベーシック・インカム(BI)論でしょう。特に今年は、新型コロナ関連の困窮対策として1人10万円の定額給付が実施されるなど、BIがぐっと身近になった年でした。

 竹中平蔵もフリードマンの「負の所得税」論に近いスタンスでBI導入を主張し始めて話題を呼びましたが、こうした経済右派の立場からのBI論は、原田泰『ベーシック・インカム 国家は貧困問題を解決できるか』(中公新書、2015年発売、12月16日読了)が(多少荒っぽく)まとめています。

 山森本はこれとは違って、経済左派の立場から主にBI論の思想的基盤をまとめています。私もそうでしたがなんとなくBIが、福祉国家論の延長にあるものという認識でいた人は必読です。

 福祉国家が(1)完全雇用の達成を前提に(2)一時的リスクには各個人が拠出する社会保険が対応し(3)それでも無理な場合は例外的に生活保護などの無拠出ながら審査を受けることで受けられる公的扶助がセーフティーネットを担う──という枠組みであると整理し、BIはむしろ福祉国家体制を批判する文脈で登場していると位置付けます。女性や障害者、黒人といったマイノリティーの視点に立った思想的展開もなされているBI論の奥深さに触れられる本です。

 さて、普遍的な高給付とセットとして想定されるのは多額の財源の確保であり、一時的な景気対策ではない恒久的な制度として整備するのであれば、増税は免れないでしょう。しかし所得税や法人税の累進性はどんどん抑えられ、現在の課税が公平と言えるのか疑問は増しています。

 原因は経済のグローバル化や、知的財産ビジネスが主流化したことによって企業が租税回避行動を容易に取れるようになったことにあります。そうした経緯や、各国がどのように租税回避に対応しようしているかを論じたのが諸富徹の新刊『グローバル・タックス──国境を超える課税権力』(岩波新書、11月発売、11月30日読了)でした。

 課税権は従来、国家主権に関わるものとして理解され、多国籍企業に対する課税は、その子会社が自国に恒久的施設があり、同子会社に利益が発生していれば排他的に課税できる「独立企業原則」のもと、行われてきました。しかし近年のOECDは、むしろ多国籍企業全体の利益を先に確定させて、それを一定の客観的指標に基づいて子会社に配分した子会社利益を計算し、各国は自国に立地する子会社に課税する「定式配分法」を導入しようと議論を進めています。さらに議論にはグローバル最低税率の決定も視野に入れているというのです。

 各国がそれぞれに行使する課税権の姿から、ネットワーク型の国際課税への大きな転換が、少しずつ成果を見せ始めていることに著者は希望を見出しています。逆に言えば、それほど、法人税・所得税引き下げのチキンレースに先進国が耐えられなくなり始めてきたということかもしれません。

 諸富の本では『私たちはなぜ税金を納めるのか 租税の経済思想史』(新潮選書、2013年発売、4月18日読了)も好著です。

 他分野の経済書では、昨年暮れ発売の後藤健太『アジア経済とは何か』(中公新書、1月30日読了)が収穫でした。産業ごとの分業から工程ごとの分業へと変容する中で、最終製品の質向上の手段として国際分業体制は、日本が得意とする工程間の擦り合わせ(インテグラル型)から、汎用部品の組み合わせ(モジュラー型)に移行しました。このことが、中国や台湾などのノートパソコンや液晶テレビ分野での台頭を実現させたと指摘し、いかに日本の製造業が「選ぶ」側から「選ばられる」側にシフトできるかが鍵だと提言しています。

現代日本政治の記念碑的著作─『政治改革再考』

 9月、図らずも首相の体調問題で突然の幕切れとなった安倍政権は、小選挙区比例代表並立制による派閥の求心力低下や、官邸機能の強化といった一連の政治改革の帰結として語られることの多い政権でした。そんな年に発売されるにふさわしい政治学の記念碑的著作が、待鳥聡史『政治改革再考 変貌を遂げた国家の軌跡』(新潮選書、5月発売、6月3日読了)です。

 1990年代以降の約30年間に選挙制度、行政、日銀・大蔵省、司法、地方の各分野で行われた政治改革は、個々人がより自律的かつ合理的に判断し、その集積として社会が意思決定を行うという近代主義を推し進めるという一つのアイデアのもとに一貫性があった──。著者はこのように一連の政治改革を整理し、「実質的な意味での憲法改正」であったのだと評します。

 その上で、理念は共通しているにもかかわらず、各領域の改革は整合的ではなかったことが、現在の行き詰まりに影響しているというのです。不整合の理由は実際に改革を実現させていく中で各領域の「総論賛成各論反対」のような事情に合わせて「土着化」が図られたからだとし、本書では各領域について土着化の過程を丁寧に追う構成となっています。

 各領域の統治機構改革の「不整合」は現在、新型コロナ対応においてもさまざまな形で露見しています。直接コロナ対応について触れているわけではありませんが、本書の知見はこの行き詰まりの背景を考える上でも、役立つでしょう。

 多湖淳『戦争とは何か 国際政治学の挑戦』(中公新書、1月発売、2月1日読了)は国際政治学とか、国際関係論といった分野の入門書として話題になりました。国際政治を、相手の出方を考えながら、自らの行動を決定する戦略的相互作用であると見るとき、「戦争」は交渉の失敗と解釈できます。この観点から、歴史上のあらゆる「戦争」を扱ったデータセットを計量的に分析することで、「戦争」に発展したり長引いたりする原因を探ろうという研究が、著者の言う「国際政治学」です。

 計量的な研究のため、第二次世界大戦のような特異な例を扱えない難点があるなど限界も多くある分野ではあります。ただ、情報の非対称性が鍵になる国際政治において、日本の憲法9条は一種の安全供与として機能してきた可能性があり、相対的に国力が低下する中で日本がいま改憲に踏み切れば、周辺国に対し軍拡のメッセージを発することになるのではないかと示唆している点がとても印象に残っています。

 行政学からは、手塚洋輔『戦後行政の構造とディレンマ 予防接種行政の変遷』(藤原書店、2010年発売、3月9日読了)を挙げたいと思います。すべき行為をしないことによって不利益を被る「不作為過誤」と、せざるべき行為をしたことによって不利益を被る「作為過誤」の二つのリスクがある予防接種関連の政策において、行政が自らの責任範囲をどのように変更し、このジレンマから逃れようとしてきたかをたどっています。いま読むと、コロナ対応をめぐるなすり合いを想起せざるを得ません。

 ジャーナリストの手による著作としては、村山治『安倍・菅政権vs.検察庁 暗闘のクロニクル』(文藝春秋、11月発売、12月29日読了)を面白く読みました。勤務延長(定年延長)問題の当事者で、賭けマージャン疑惑は先日検察審査会が「起訴相当」の議決を下した黒川弘務前東京高検検事長と、その任官同期の林真琴・現検事総長を主人公に、政権と法務・検察の間の人事をめぐる攻防を、黒川・林が法務・検察内で台頭するに至る経緯からさかのぼって追っています。

 『政治改革再考』で整理されたような一連の政治改革の中でも、政官関係の変化は特に代表的な改革だったわけですが、法務・検察という特殊な役所においてそれを適用しようとする政府も、準司法機関として微妙な性格を持つ法務・検察も、対応に戸惑った形跡が本書からうかがえます。

 著者は法務・検察は、大蔵省を筆頭に護送船団を司る官僚機構を、私利のために介入しようとする政治家から守るために存在してきたものとだと位置付けています。護送船団方式が限界を見せる中、検察行政改革を進めた張本人である黒川・林の2人の来歴と、それぞれのやり方の違いが、事ここに至って運命を分けたというドラマを描けるのは、長年検察取材に携わった著者ならではでしょう。

『JR上野駅公園口』『ヤクザときどきピアノ』

 その他、今年読んだ本で印象的だったものを列挙していきます。

 木下衆『家族はなぜ介護してしまうのか 認知症の社会学』(世界思想社、2019年発売、5月25日読了)は、福祉を家族だけに押し付けるのではなく、社会全体で賄うために専門職の育成や財政上の支援などの充実化が図られているにもかかわらず、依然として家族が介護をめぐる場の中心的存在に居続けてしまうのはなぜかを、インタビューを通じて探った社会学の成果です。患者がその人らしい生を営み続けるためには、家族でしか知り得ない知識が、ケアプランの要になってしまい、このことが家族の新たな負担につながっている現状を明らかにしています。

 松山秀明『テレビ越しの東京史 戦後首都の遠視法』(青土社、2019年発売、1月11日読了)はテレビが描く東京像の変遷を追ったメディア研究書。東京という都市が膨張を続けた結果、90年代にはもはやフィクションとしての東京しか描けなくなるテレビに、ある種のテレビらしさを再発見した思いです。『ドキュメント72時間』のようにただ東京でずっとカメラを回すだけで、格差を描けてしまう時代になったという指摘にはハッとさせられました。

 全米図書賞受賞で話題となった柳美里『JR上野駅公園口』(河出文庫、2017年発売、11月19日読了)は、居場所を失い続け、もはや帰るところのない主人公に、それでも手を振ってくれた人が、まさに自分を排除する権力の源泉だということの大きな絶望感が胸に重く響く作品です。中央によるアメとムチに翻弄される地方の、引き裂かれるような自意識を反映したストーリーであり、そこに天皇が登場するのは必然でした。原武史による巻末解説も読む価値大です。

 暴力団取材を専門とするライターによる異色のエッセイ、鈴木智彦『ヤクザときどきピアノ』(CCCメディアハウス、4月発売、4月24日読了)は、ひょんなことからABBA「ダンシング・クイーン」を弾けるようになりたいという強い意志のもと、50代にして初めてピアノを学び始める奮闘記です。音楽への感激や、その初期衝動に突き動かれた努力、それを支えてくれる指導者への尊敬といった話題が、鈴木ならではの心地よいテンポ感とユーモアたっぷりの文体でつづられ、読者の共感・感涙をいざないます。

 以上、2020年の読書活動を振り返りました。今年は世の中もコロナ禍に見舞われ、私自身も就職し、変化に富んだ一年でした。また、本からいろんな発見を得て、考えを巡らせたり、人と意見を交わし合ったりする機会は、コロナ禍にあっても変わらず積極的に持つことのできた一年でした。来年も、面白い本と出会い、読書を楽しんでいければと思っています。

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