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藤野裕子『民衆暴力──一揆・暴動・虐殺の日本近代』

※2020年9月7日にCharlieInTheFogで公開した記事「見た・聴いた・読んだ 2020.8.31-9.6」(元リンク)から、本書に関する内容を抜粋して転載したものです。


 暴力の正当性を国家が独占する近代体制下であっても、ときに民衆は暴動を起こします。法や規範を突き抜けてまで起こる民衆暴力は、単に民衆が未熟であったり貧困であったりするだけでは説明がつきません。民衆暴力が発生した当時の規範や権力関係などが絡み合って、暴力を起こす論理が生じているはずです。

 単純に「暴力はいけない」とか、デモとテロを同一視するような感覚が、民衆暴力の背景にある権力勾配を無視してしまう──そんな傾向に対抗すべく、近代日本で起こった四つの事例を取り上げ、民衆暴力を重層的に見ていくことで現代の暴力観を相対化することを狙う野心的な著作です。

 といっても、著者は民衆暴力を単に、権力に対抗する暴力として美化しているわけではありません。むしろ対権力と対被差別者という二つの性質が明確に区別されて発生するのではなく、渾然一体として存在する現実を浮き彫りにしています。

 明治の近代化政策に対して起こった「新政反対一揆」では、地租改正、徴兵令、学校制度といった農民層の生計に関わる政策に加え、西洋基準で「野蛮」とみなされ、裸で出歩いたり、蓋なしで糞尿を運んだりすることが禁じられるなど、生活の些細な部分にまで規制が入ることに民衆が反発します。つまり経済困窮だけではなく、生活文化の強権的な変更に対する抵抗としての側面も強かったわけです。

 しかしこれだけではなく、反発の対象は賤民廃止令(「解放」令)にも向きます。政府としては穢多・非人の階層を残すのではなく同じ平民として扱うことで、彼らにも納税などを要求できるようにすることが大事でした。しかし被差別部落民は解放政策として捉え、それまで禁じられていた髪結いや銭湯への出入りをするようになり、これを民衆は「増長」「不遜」と捉えます。一揆が起こると襲撃は被差別部落に対しても行われます。

 この一揆を近世からの流れで捉えると興味深い変化が見て取れるのです。近世の百姓一揆は、治者による「仁政」の回復を求めるという論理で行われるため、暴力は抑制的かつ統率的です。幕末の世直し一揆になると、それまで絶対視された支配構造自体からの解放、ユートピア願望が前面に出るようになり、放火や殺害行為が発生し始めます。新政反対一揆はそうした解放願望が、新政府によっては叶えられないことを悟った民衆による暴力であり、ユートピアへの期待が不安・恐怖へ急転した末の苛烈な暴力なのです。

 民衆側の動機から見て画期であった新政反対一揆は、近代国家の歩みにとってもまた画期でした。この一揆が起こった頃、やっと整備された警察や軍といった国家の暴力装置は不完全ながらも暴力行使を始め、その正当性を備えていきます。秩父事件の頃にはすでに首謀者が、国家とまともに戦っても百姓一揆のように益を得ることはないと理解しています。

 しかし時代が下ると、日露戦争後の厭戦ムードが、国家の暴力装置に対する不信感を強めます。政府は、勤勉・倹約などの「通俗道徳」で国民統合を図ろうとしますが、いくら通俗道徳を実践したところで豊かにならない都市生活者は、「飲む・打つ・買う」のような刹那的価値観に基づいて、通俗道徳とは異なる生活文化を打ち立てると同時に、警察権力などへの敵意を生み出し、日比谷焼き打ち事件での打ち壊しなどに参加していきます。

 このとき、国家は独占していたはずの暴力を、青年団や在郷軍人らによる自警団に一部譲り渡してしまいます。通俗道徳の普及活動である地方改良運動の文脈に即したものですが、これが後に、関東大震災下の朝鮮人虐殺へとつながっていくのです。

 2章を割いて詳述される朝鮮人虐殺は、目を覆いたくなるような実態が証言や史料を元に記されます。国家が虐殺にお墨付きを与えて民衆間の権力構造が虐殺に転化される様、国家権力が直接手を下しながら記録を消し去ろうとする様。もはや何でもありの悲惨さです。

 と、長文にわたって内容をご紹介してきましたが、それだけ、一口に近代日本の民衆暴力といっても、その時代ごとに異なる論理によって暴力が再生産されてきたのです。近代国家下の暴力を考える上で、その行為者に即して考えること、同時に何を切り捨ててきたのかを直視することの大切さは、暴力の存在が見えにくくなりつつある現代だからこそ増しているのかもしれません。

(中公新書、2020年)


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