見出し画像

木下衆『家族はなぜ介護してしまうのか―認知症の社会学』

※2020年6月1日にCharlieInTheFogで公開した記事「見た・聴いた・読んだ 2020.5.25-31」(元リンク)から、本書に関する部分を抜粋して転載したものです。


 認知症患者は、かつては医療支援のリソースが小さく、患者家族が丸抱えするか精神病院に入院させるなどして患者は身体拘束されるしかないことも少なくありませんでした。しかしさまざまな運動の進展もあり、2000年代には介護保険制度の開始、厚生労働省による身体拘束減少に向けた政策、「痴呆」から「認知症」への用語変更など、認知症患者を何もわからなくなってしまった人ではなく、一個人として尊重するモデルが普及します。精神科医小澤勲は「患者の人生が透けて見えるようなかかわり」が必要と訴え、介護をめぐる考え方に大きな影響を与えたといいます。つまり、周りの働きかけによって患者の症状は改善されたり、悪化を抑制できたりするという思想が実際の現場にも浸透し、また患者家族もそれを実現させようと奮闘するわけです。

 しかし実際にはこのような関わりは、介護専門職にすべてを委ねられるわけではありません。こうした人たちは介護が必要になってからの患者としか接していないからです。「患者の人生」を見るためにはどうしても家族が、患者が患者になる前からの付き合いをも通じて見出すものが必要になってきます。

 著者はこうした患者家族の知識を「特権的知識」と呼びます。この特権的知識が要請される場面が増え、また家族自身も特権的知識を生かして「患者らしい人生が透けて見えるような」介護のあり方を目指そうとする動きが、患者家族にさまざまな葛藤をもたらし得ます。

 一例を紹介します。認知症と気づかれる過程の分析で、ある患者の家族は、患者が家のバリアフリー改修に強硬に反対したことを挙げます。しかしバリアフリーにすると余計に足腰を鍛える機会が失われ老化が進んでしまうなどと、患者から主張されます。家族と患者との関係では、患者の主張は一応説得的であり、改修への反対は認知症の症状によるものなのか、本人の考えによるものなのかが判別しづらいものでした。つまり家族だからこそ、本人のおかしな行動にも説得的な理屈を付けることができてしまうわけです。

 その後、さらに疑わしい症状が見られたことから患者を受診させることで家族が合意し、正式な診断が下ります。すると家族は、バリアフリー改修反対などの「疑わしいこと」も遡及的に認知症の症状だったのではないかと考えます。こうした捉え直しは、もっと早く手を打てばここまで症状は進まなくて済んだのではないかという後悔、引いては患者のことをちゃんと知ってきたのだろうか、家族として薄情な関係だったのではないかという疑いもまた家族に生じる場合があります。

 またここでは詳しく書きませんが、特権的知識を持つがゆえに、家族にとっては介護者が患者にちゃんと向き合ってくれていないと感じたり、介護者に改善を求めたりして軋轢が生じる例も紹介されています。

 「特権的知識」ゆえ家族は葛藤を迫られる、そうした場面の具体例を抱負に挙げながらメカニズムを解き明かします。ではどうすればいいのか、という答えを出すのはとても難しい。認知症患者でもあっても監禁されることなく、その人らしい生を実現させる取り組み自体は否定されるべきではありません。それでも本書は、葛藤は家族個別の問題というだけでなく、介護を巡る構造の変化が大きく影響していることを可視化したことです。介護に関わる全ての当事者に対するエールたりえる一冊となっています。

(世界思想社、2019年)


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?