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手塚洋輔『戦後行政の構造とディレンマ─予防接種行政の変遷』

※2020年3月17日にCharlieInTheFogで公開した記事「見た・聴いた・読んだ 2020.3.9-15」(元リンク)から、本書に関する部分を抜粋して転載したものです。


 予防接種行政は、すべき行為をしないことによって不利益を被る「不作為過誤」と、せざるべき行為をしたことによって不利益を被る「作為過誤」の二つのリスクの対立に直面します。推進しなければ感染症の拡大を止められず、推進すれば副作用・副反応による健康被害が生じてしまいます。

 不作為過誤と作為過誤の対立は広い分野の政策実施において生じますが、戦後日本の行政がこのディレンマにどのように向き合ってきたかをたどるうえで、本書は予防接種行政をその象徴例として題材にします。

 予防接種行政はGHQ占領下、主に占領軍の感染症蔓延を防ぐことを主眼に、軍政的・強制色の強い中で始まります。副作用被害への救済に目を向けられるようになるのは1960年代半ば以降で、80年代には学校などでの集団接種から自ら医療機関へ赴く個人接種へ、強制接種から保護者同意を軸とした任意接種へと移行する流れが出始めます。

 占領体制にあっては不作為過誤の回避が目的であり、副作用被害は患者の特異体質によるものだとしてディレンマの存在自体を認めない「不可視化」が行われました。しかし主権を回復し政策に強権を振るう存在がなくなっては、政策に一定の正統性が必要になりますが、それまでの予防接種は不作為過誤に重きを置きすぎて何を接種対象とするのか、どのように安全を確保するのかという面への配慮は不足しています。こうした中で副作用被害が報告されるようになり、救済すべきだという議論が生まれます。これが1960年代以降の無過失責任に基づく救済制度の設立の流れで、著者はこうした取り組みがディレンマを「希釈化」したとします。

 ここまでは作為過誤は避けられないリスクであるということが前提でした。しかし80年代以降になると副作用被害がマスコミにも取り上げられるようになり、被害者間の連絡組織も作られるようになります。そして作為過誤による結果の救済のみならず、作為過誤自体の回避、つまり原因に対する責任追及の流れが生じます。裁判で行政が敗訴する判断が下るともはや決定的となります。インフォームド・コンセントへの注目も相まって、予防接種は強制から任意へとなり、その責任は行政や医療だけでなく保護者など接種を受ける側にも「分散化」されるに至ります。

 つまり行政の責任範囲は「不可視化」から「希釈化」の時代に拡大し、「分散化」の時代へ縮小していくという変遷が見えてきます。こうした動きは大まかに見れば福祉国家の試みが挫折し、小さな国家を再志向するという流れとして捉えることができ、予防接種行政に限らず戦後政治史の流れに沿うような格好になっています。

 事なかれ、役所仕事と揶揄されがちな官僚の責任回避的性質を、不作為過誤と作為過誤のディレンマという構造で分析した納得感の高い内容です。

(藤原書店、2010年)


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