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【小説9】麻子、逃げるなら今だ‼︎〜嫉妬〜


全話収録フィクションです⤵️

前日譚•原案ノンフィクション⤵️


9.嫉妬

 パート介護職員の前田麻子は、職場の異動と末息子進の大学進学が重なり疲れていた。
異動したばかりのユニットでは「入学式だから休みたい」とは言い出せなかった。
夫から進の入学金や授業料について「今は払えないけど必ず払うから一時的に立て替えておいて」と言われたのが心配の種。
会社を辞めても生活は変わらないと豪語したくせに。
 夫が約束通りに払ってくれるとはとても思えない。
夫には内緒で予約型の無利子貸与奨学金を申し込んだ。
進には学内の給付奨学金の手続きもするようにと伝えた。
通学定期は高校時代から続けているバイト代で支払うと言ってくれている。
夫より未子の方が頼りになるではないか。

 異動前の4階のユニットでは身体介助が必要な場面はほぼなかった。 
今度の3階のユニットには介護度が高いご入居者が多いのでそういう訳には行かない。
入社して丸1年が経っていたが、また新人に逆戻りしたような気分だ。
 体力が必要な為か若い職員が多く、口調が厳しい。
何かにつけて「3階は忙しいんですっ」「4階とは違うんですっ」と噛みつくように言われるが、麻子が望んだ異動ではない。
リーダーと、娘の由美と同い年の男性職員深田さんが優しく接してくれるのだけが救いだ。

 4階のご入居者は自立度が高いので外出や外泊される機会が多かった。
身体介助が必要な3階のご入居者は外出が難しい分、面会に来られるご家族が多い。
当日の入浴順やアクティビティを考えて段取りを組んでいても、ご家族が来所されると予定が滞ってしまう。
時にはご入居者だけではなくご家族のお相手もしなくてはならなくなり、どうしても手が止まってしまう。
 ご家族には1回お会いしたらお名前と続き柄を覚えた。
2回目には麻子の方から「○○様こんにちは。いつも有難うございます」と挨拶するようにした。
たちまちご家族からも麻子を覚えていただき親しくなった。
今日は入浴予定だ、2時から音楽療法だと気軽にお伝えできるようになると
「ではお部屋で待たせてもらいますね」「時間がないので一目だけ会って失礼しますよ」とご家族がご協力して下さるようになった。
ご家族は来所されると、先輩職員ではなく麻子にご入居者の様子を訊いたり頼みごとをするようになった。

 この頃からか、谷川課長が何かと麻子に絡んでくるようになった。
何が谷川課長の気に障るのか、麻子には全く予想がつかない。
谷川課長に反抗することなどないし、丁寧に一所懸命に働いているつもりなのに。
 「今日の勤務は5時半まででしょう。
遅出と夜勤の職員に任せておけばいいのに、どうして前田さんが出しゃばるの。
それは前田さんの仕事ではありません」
退勤しようとタイムカードをタッチした途端に谷川課長から呼び止められた。
先程ご家族から、ご入居者への差し入れを麻子に託されたのだ。
遅出と夜勤の職員が夕食の配膳で忙しそうにしていたので「母に食べさせてもらいたいんだけれど、前田さんにお預けしてもいいですか」と訊かれたのだ。
麻子が出しゃばった訳ではない。
 それにしてもどうして判ったんだろう。
タイムカードのリーダーも谷川課長の席も1階のオフィスだ。
麻子がご家族に声を掛けられたのは3階のエレベーターホールだ。
狙いをつけられているとしか思えない。

 そう言えば思い当たることがある。
異動前の4階のユニットでのことだ。
麻子が趣味でコーラスをしていることが知れると、オペラ観劇が趣味のご入居者が著名な世界的指揮者のことを嬉しそうに語り出した。
別のご入居者のご自宅と麻子の父の郷里が同じ地域だと判ると、評判のお菓子や地元のお料理屋さんの話題で盛り上がった。
ご入居者との距離が縮まると他の業務も捗るのだが、そういうときに限って谷川課長からどうでもいいような些細なことで注意を受けた。
 まさかとは思うけれど麻子に対する嫉妬なのだろうか。
谷川課長より、ご入居者やご家族と親しくなったからなのだろうか。
気軽に声を掛けてもらえるようになったからなのだろうか。

 一旦意識し出すと疑心暗鬼は止まらない。
管理職なのだから、パート職員を気に入ってもらえるのは谷川課長にとっても良いことなのではないのだろうか。
何処で見られているのか何を聞かれているのか気になり出すと、ご入居者やご家族とも和やかに接することができない。
一体何が目的なのだろう。
谷川課長から声を掛けられるのはいつも休憩時か退勤時の絶妙なタイミングだ。
 これは虐めなのだろうか。
いわゆるハラスメントなのだろうか。
そう考えると麻子にだけは言葉遣いが違うような気がする。
声のトーンが違うような気がする。
表情が違うような気がする。
いや考え過ぎか。
上司なのだから部下に厳しく当たることもあるだろう。
教育的指導の一環なのかも知れない。
異動したばかりだから気になるだけかも知れない。

 「前田さんがやっていることは介護ではありません」
突然、谷川課長から叱責を受けた。
抽象的過ぎて何を注意されているのか解らない。
何を改善すればよいのか見当もつかない。
どうしてご入居者が食事をしているリビングで大きな声を出すのか理解ができない。
 大声にびっくりしているご入居者に申し訳なくて、情けなくて言葉に詰まってしまう。
認知症のご入居者にも不穏な雰囲気は伝わっていることだろう。
谷川課長の大きな怒声の方こそ、介護と言えるのだろうか。
「谷川課長には逆らわないこと」「とにかく謝っておくこと」と深田さんからは教えてもらっていた。
 「申し訳ございませんでした」
 「何が申し訳ないのか判ってるの?」
訊かれても判る訳がない。
けれど、何か言わなければ収まりそうにない。
 「配慮が足りませんでした」
 「足りないんじゃなくて間違っているのよ」
一体何が間違っているのだろう。
ご入居者には穏やかに食事を続けてもらいたい。
 「ご指摘ありがとうございます」
 「前田さんにお礼を言われる筋合いはありません。
有難うなんて言われたくもありません」
そう言い捨てると谷川課長は靴音高くユニットを出て行ってしまった。

 「大きな声でしたね、機嫌が悪かっただけじゃないですか。
前田さんは何も悪くないですから」
深田さんが優しく言ってくれても遅い。
谷川課長にはもう恐怖しか感じられなくなってしまった。
(2541文字)


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