『月と六ペンス』とコロナとわたし
新型コロナウイルスは表面的な生活様式だけでなく、内面的な感情や人生観にまで影響を与えた。
私たちは自由には限りがあると知り、負わなくてもいいほどの責任感にも苛まれた。たぶん世界中の誰もが、人生や社会、未来のことを、前よりずっと深く考えていると思う。
自分が大切にしたいものは何か、不確実な未来に向けてどう生きるのか。「自分らしさとは何か」の問いは100回くらいは聞いた。自然体でいよう。ストレスを減らそう。自分らしくいるために。そしてみんな「ていねい」に暮らし始め、『VERY』ママたちさえも「エシカルに」「ストレスフリーに」なった。
そんななかで私は「つきぬける」をテーマに掲げ、人生の来し方行く末を考えることもなく「何も考えず死ぬほど仕事をする」と決めた。いろいろなことに向き合って考えるのが怖かったからかもしれない。
リモートをいいことに本当に朝から晩まで働いて、土日も本業だけでなく副業にも費やした。なんでもかんでも、やれる玉を拾いまくった。時代や風潮に逆行しまくった。
たまにふと「これからの人生…」と頭に浮かぶことはあった。でも呪文のように「つきぬける」と言い続け、文字通り忙殺に身を任せた。
画家は40歳を過ぎて人生を手に入れた
そんな風に過ごしていたある日の夕方、休憩がてら手にした『月と六ペンス』。
以前に読んだこともあるし、目の前にはピサの斜塔のように積ん読がそびえているのに、一度ページをめくったら止まらなくなった。
証券会社に務める男・ストリックランドが、ある日突然、姿を消す。彼はパリで画家になるために家族も地位名誉も捨てたのだった。
40もすぎた男が何も持たず、周囲に波風を起こしまくりながら、まるでとりつかれたように絵を描くためだけに生きる。息をするのも食事するのも、絵を描くため。
やがてタヒチに移住し、病を患うものの、命題とばかりに最後の大作へと身を投じる。
「情熱が彼の心をかき乱し、彼をさまよわせる。あの男は永遠の巡礼者です」
主人公の画家は、ポール・ゴーギャンがモデルと言われている。文庫のあらすじには「正気と狂気が混在する人間の本質に迫る」とある。
本当にそのとおりで、あなたそれ人としてどうなのよ…と言いたくなる行動ばかり。でも、わかる。わかってしまうのだ。ストリックランドの情熱が。抗えないほどの芸術への欲求に身を投じる姿に、憧れに近い思いを抱いてしまうのだ。
特に物語の後半、パリからタヒチへ渡り、燃え尽きるまで仙人のように描き続ける様子と、終結へのスピード感。頭と心を叩かれたようだった。
前に読んだのは学生時代。あれから十何年も経って、人生の選択とか生きる意義とかを行間から読み取る年になったということか。
「つきぬける」と、どうなるのか。
またこれは別の角度から見ると、私が目標に掲げた「つきぬける」の究極みたいな話でもあった。
ストリックランドのように芸術への情熱に「取り憑かれる」ほではないけれど、なにかに没頭する覚悟とそれによる犠牲には、どこか通じるものがあった。
ところで私の「つきぬける」という目標は、会社員としての今期の目標設定にも入れている。つまり公式的に「つきぬける」宣言をしているわけだ。
だが果たして「つきぬける」を達成したら、それはどういう状態になるのか。私にもまだわからない。もしかしたら期末となる12月くらいには、目をつぶったまま原稿を書いているかもしれない。仕事に囚われた巡礼者。それでもよい、いまのところは。
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