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【日記】僕の音楽のルーツと、家族の話

今朝のTwitterで。懐かしいアーティストの名前を見かけた。
父親が「これは凄いのを見つけたぞ!」と目を輝かせてCDを買ってきたサックス奏者の名前。(ちなみにケニー・Gという方だ)

先日、友人に「Chakiちゃんって何でそんなに音楽に詳しいの?」と聞かれた記憶と繋がる。
ああ、私は。父から。伯父から。音楽に触れる機会をもらっていたのだった。今日は懐かしくて、やわらかな記憶を紡ぐ。

(注記)
楽しく書いているうちにとんでもない文量になってしまいました。音楽の話って、ひたすら楽しいんだもの。
大量の音源を載せてしまったので、プレイリストを作って貼ります。まとめ聞きしてくださる方はコチラから聴いてみてね。


私と音楽

私が無類の音楽好きだということは頻繁に呟いているけれど、自分でルーツを辿る機会を持たなかった。
普段はJ-POP、邦楽ロック、昭和歌謡、アイドルソングを好んで聴くけれど、その他のジャンルもかいつまんで聴いている、ような気がする。

そして今朝、不意に。「私のルーツ」が、ぱっと見えてきた。思い出した。だから、忘れないうちに書く。書いて、ここに残すことにする。

なお、今日の話をする上では、私の年齢も明かさねばなるまい。私は昭和から平成に移行する頃に生まれた。ギリギリ昭和生まれ。ギリギリ80年代生まれ。そんな年齢。

伯父について

まずは伯父の話から始めよう。
私の伯父(父の1つ上の兄)は、独身で子を持たない。
伯父は祖母(伯父の実母)と同居していて、祖母の家は実家から車で5分ほどのところにある。

伯父は姉と私を、実の娘のように可愛がってくれた。

伯父は変わり者だ。要は「オタク気質」。マンガやゲームは伯父のもとで覚えた(教育熱心なうちの母は、娘たちにマンガとゲームを与えることを良しとしなかったので、私のオタク文化の礎は伯父によって形成された)。

60代半ばの現在でも、ネッ友らしき県外の友人と交流しているらしい。フィギュアなのか何なのか、ジャンルは不明。(怖くてあまり踏み込んでは聞けていない。)

肝臓を悪くしてお酒が飲めない身体になったのに、ここ数年は日本酒にハマっているようだ。日本酒の本を読み込み、他県までフラリと出かけては酒蔵を見学し、レアな日本酒を買って帰ってくる。
お正月の身内の集まりで父たちが「美味い、ウマい!」と飲むのを眺めては、興奮気味に蘊蓄を垂れて楽しむような、そんな人物だ。

(あれ…私、伯父の血も結構継いでるな…???)

まぁ、伯父についての前置きはこんなところで。

伯父と音楽の話

私が小学生になるかならないかの頃、伯父とよく外出していた。そしてその車中ではいつも70年代、80年代の音楽が流れていた。

残念ながら何の曲が流れていたのか、その大半は思い出せないのだけど。多分やしきたかじんとか、八神純子とか、そんなラインナップだったのだと思う。

その中で、1曲だけ覚えている曲がある。

「なのにあなたは京都へゆくの」チェリッシュ(1971年)

幼い声で「なのにあなたはぁ~京都へゆくの~京都のまちは~それほどいいの~こぉの~わぁ~たしの~愛よりぃ~も~ぉぉ~~~」と歌っていた日を思い出す。

この曲を聴いてみたら、姉が舌足らずな発音で「のぎすぎたのはぁ~あなたのせいよぉ~」と歌っていたことも、唐突に思い出した。(幼い頃の姉は「のみすぎた」と言えず、「のぎすぎた」と歌っていたことをここに暴露する)

「男と女のラブゲーム」日野美歌・葵司朗(1986年)

今の私がスナックにてオジサマたちに猛烈にモテるのは、伯父の英才教育があったからに他ならない。

雑誌「Myojo」を買ってくれていたのも伯父だった。祖母の家の縁側で、当時の付録に付いていた歌詞本を見ながら鼻歌を歌っていた光景が蘇ってくる。歌詞を熟読していた記憶が残っている曲たち。

「DRIVEに連れてって」今井美樹(1997年)

「Blue Velvet」工藤静香(1997年)

我ながら、背伸びした曲のチョイスだ。広末涼子や相川七瀬、PUFFY。こんなアーティストたちの曲も聴いていた。

1997年。私が9歳の頃には、既にオンタイムでヒットソングを聴くようになっていた。

余談だが、最近、十数年ぶりに乗った伯父の車内では「坂道シリーズ」が流れていた。伯父の部屋には怖くて値段が聞けない、どデカいスピーカーが設置されている。やはり変わった人だ。


父親について

私がnoteで父親について触れることは少ない。

強烈な母を持つことはこれまで散々話題に挙げてきたけれど。
父親はまた別のベクトルでクレイジーな人物だ。

一言で表すならば「ひょうきん」。それに尽きる。

実家に帰ると即興の変なダンスを見せられる。
「いいから、見ろ」と、頭に被り物をしてくねくね、カクカク動く。
謎のオリジナルの曲とともに。
こちらが笑うまで見させられるので、この場合は早く笑うに限る。
(笑ったら笑ったで延長戦に入ることも多い…。)

付き合わされるのは人間だけではない。
実家の愛犬マルも、父のダンスのパートナーとして駆り出される。
やはり父の歌に合わせて、マルは前足を動かされる羽目になる。

「ぼく、ていこうするのは あきらめたよ」

父のやりたい放題に付き合ってあげるマルの表情は
どこか憂いを帯びていて、それがやけにおかしい。

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これは、我が家にはそんなファンキーな60代の父親がいますよ、という前置き。(たまに「三浦友和さんに似てますね」と言われて大喜びしているが、娘としては「村上ショージさん」にも似ていると思っている)

父と音楽の話①

私の音楽の記憶は、外出する車内と強く結び付いている。
家族で外出する際にかかっていたこの曲たちは、一体わたしの何歳の時の記憶なのだろう。

「愛は勝つ」KAN(1990年)

「ラブ・ストーリーは突然に」小田和正(1991年)

これも余談になるが、数年前の夏フェスに小田和正さんが登場して「ラブ・ストーリーは突然に」の生歌が聴けたのは、私の音楽人生の中でも最高の記憶に残る。

つい先ほどまでフェスのステージに立っていた他のアーティストたちが観客席側に回り込み、エキサイティングしながら私たちと一緒に歓声を上げていたあの光景が忘れられない。

「お前ら、どうせ俺のコンサートなんて来ねえだろ。今日ここでしっかり聴いとけよ」というコメントの最高にクールなことと言ったら。
(個人的には「ラブ・ストーリーは突然に」「たしかなこと」「キラキラ」「言葉にできない」なんていう最高に愛してる曲を聴けて最高潮にラッキーだった。)

10代、20代のROCK大好きなライブキッズたちを一瞬で黙らせ魅了した、日本音楽界の神。

更にドライブ中の音楽の記憶は続く。

「真夏の夜の夢」松任谷由実(1993年)

「骨まで溶けるような テキーラみたいなキスをして」なんて、子どもの私に分かる訳もない歌詞。だけど好きだったな。

「DEAR...again」広瀬香美(1996年)

今日はクリスマスイブなので、思い出のクリスマスソングも1曲くらいは貼っておこう。これも父のCDを借りて、たくさんたくさん聴いた曲。

この辺りの記憶を紡いでいくと、私は3歳くらいの頃からの音楽の記憶が残っている、ようだ。

父と音楽の話②

父親は、洋楽も聴く人だった。

父が持っていた「カーペンターズ」「ビートルズ」のベストアルバムは、一緒になって繰り返し聴いた。その中での思い出の2曲を紹介してみる。

「トップオブザワールド」カーペンターズ(1972年)

この曲を、何とかして歌いたくなった私。
アルバムの歌詞カードを開く。

「なんで…歌詞が書いてないの…?」

キョトンとした。
私は当時7、8歳だった。

幼い子どもの、おバカな勘違い。
歌詞カードには「カタカナで歌詞が書いてある」、そう思い込んでいた。

当時はパソコンが家庭に普及しておらず。
カタカナの歌詞をネットで拾えるような時代ではなかった。

歌いたかったから、耳コピして、紙に歌詞を書いてみた。


サッチャフィーリンズ カーミノーバミー
デアイズ ワンダイン モウスッ エビッシン ナイシー
ナッラ クラ― イザースカーイ ガッタッ サーン イマーイ アーイズ
エンナイッ ウォンビー サプライッスゥイン イッザー ジュリー…

Such a feeling’s coming over me
There is wonder in most everything I see
Not a cloud in the sky, got the sun in my eyes
And I won’t be surprised if it’s a dream

これは、幼き私が、決死の努力によって歌えるようになった、そんな思い出の1曲。


* * * * *

「Let It Be」THE BEATLES(1970年)

「レリビー!レリビー!」と歌う私に、父が笑いながら言う。「他の部分の歌詞も歌いなよ」と。

この曲は中学生くらいになって、ようやく歌えるようになった。

When I find myself in times of trouble
Mother Mary comes to me
Speaking words of wisdom
Let it be

And in my hour of darkness
She is standing right in front of me
Speaking words of wisdom
Let it be

Let it be, let it be, let it be, let it be
Whisper words of wisdom
Let it be

―あるが、ままに。
ビートルズのサウンドたちは、私のコアとなった。

父と音楽の話③

父と洋楽の思い出は、なおも続く。

私が小学5年生の時に飼い始めた、ミニチュアシュナウザーの先代ワンコがいた。私が20代半ばの時にこの世を去った子。

父が「ビリー」と名付けた。

ビリー・ジョエルの「ビリー」だ。
父はそう言った。


あれ、でも。実家でビリージョエルの曲って流れていたっけな。思い出せない。

「Alexa、ビリージョエルの曲を流して」。
そうやってランダム再生していたら、フフッと笑ってしまった。
あぁ、彼の音楽も、私の中にしっかりと眠っていた。

「Honesty」Billy Joel(1978年)

Honesty is such a lonely word
誠実とは孤独な言葉
Everyone is so untrue
誰しもが偽っている
Honesty is hardly ever heard
誠実なんてほとんど聞いたことがない
And mostly what I need from you
だけど主に君からほしいんだ


* * * * *

そして父が「彼は最高の天才だ」と評していたのが、スティービーワンダー。これも何となく記憶にあるような、ないような。

またもやAlexaに問いかけると。
蓋が閉まっていた記憶の箱から、音が飛び出してきた。

「Sir Duke」Stevie Wonder(1976年)

「Part Time Lover」Stevie Wonder(1985年)

聴きながら、顔がにやけてくる。お父さん、私、めちゃくちゃ覚えてたわ。そしてこのサウンドは今更ながら、ガッツリ好きなやつだわ。

曲のリリース年を見て、改めて1970年代後半の楽曲が多いことに気付く。父がハタチ前後で聴いてた音楽たちなのだろうか。尋ねてみたことはなかった。若き日の父のことを、少しだけ想像してみた。

父と音楽の話④

こうして振り返ってみると、父は私の想像より遥かに音楽好きな人間だったようだ。

「すごいアーティストが出てきたぞ」と、ある日満面の笑みで1枚のCDを買って帰ってきた。

「Automatic」宇多田ヒカル(1998年)

この時の宇多田ヒカルの年齢、15歳。
恐ろしい逸材が、この世に出てきた。

そして私に宇多田ヒカルの存在を教えてくれたのが、父だった。

小学4年生の私はすぐさまこの曲の虜になり、音楽の授業で「好きなCDを持ってきて、みんなで歌おう」という先生の呼びかけに、いそいそとこのCDを持参した思い出がある。(もちろん周りの男子からは「難しい」とブーブー文句を言われたが、先生は割と乗り気だった。automaticを頑張って一生懸命に歌おうとする小学4年生たち。今思うと少し可笑しい。)


* * * * *

また別の時に。父が「職場の同僚が作ってくれた」というカセットテープを持ち帰ってきた。(MDが世に出回る少し前の話だ。)
そのカセットテープで出逢ったのが、もう1人の歌姫だった。

「罪と罰」椎名林檎(2000年)

「ギブス」椎名林檎(2000年)

同時発売のこの2曲が、私の椎名林檎との出逢いとなった。
父親は、なかなか強いパンチを当ててきた。

この2人の歌姫の曲を、私は後に20年以上聴くこととなる。

終わりに

思い出の音楽を語り出すと、尽きそうにない。

なんせ、3つ上の姉という存在もかなりデカいのだ。

彼女の影響で私はZARDやジュディマリ、ELTにマイラバを聴き、更には姉の机の上にあったCDをこっそり拝借してはモンパチやゴイステを覚えた。(この話は長くなるので、また別の機会にしよう)


* * * * *

今日は折角のクリスマスイブなので。

父親に今回の動画をLINEで送ってみた。
そしてたった今「LINEを送ったから見てみてね」と、電話で一言だけ伝えたところだ。

父はLINEの返信をするのがヘタくそで、常に返事があるわけではない。だけど母が言うには「あなたたち娘(姉と私)からLINEが届くと、いつも嬉しそうにニヤニヤしてるよ」と聞かされている。


ちなみに父も伯父と似ていて(兄弟だから当たり前なのかもしれないが)、自室に籠ってYouTubeを観るのが好きなタイプの人間である。

娘から届くスティービーワンダーやビリージョエルの音源を。父はどんな表情で聴くのだろうか。

それを想像しては、ひとりほくそ笑む私。


今日は、クリスマスイブ。
娘から父親への、ほんのささやかなプレゼントだ。

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