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運命の猫


勝手に住み着いた猫だった。

仔猫を出産し、体調を崩しているのを見かねて、

「野良猫ですが、具合が悪そうだったので」

と伝えて、獣医師に診せると、

「この猫は、あなたに飼われていると思っていますよ」

と告げられた。

獣医師の言葉に、必死で私の身体に身を寄せる猫の姿に気づかされ、責任を持って世話をしようと心に決めた。「どこへも連れていかないでくれ」「ずっと傍にいたいのだ」と全身で訴える野良猫の姿として、私の瞳には映ったからだ。


このトラ猫は、甘え上手の猫だった。

愛想のよい立ち居ふるまいで注目され、近隣でも人気の猫だったと思う。

しかし、どれほどに甘えられても、慕われても、私は、この猫に好かれているという実感を得ることはできなかった。

生きるために媚びを売るといった打算を感じてしまったからか、それとも、私自身が心に壁を作ってしまっていたからか、あるいは、その両方か。

トラ猫は、自由に過ごし、好きな時に玄関先にある段ボール箱で眠る。世話をしているとはいえ、所詮野良猫あがりのトラ猫だ。いなくなってもそれはそれで仕方ないといった気持ちでいた。


期待はしない。どうせ野良猫なんだ。

私が頑なに心を閉ざしていることも伝わっていたのだろう。住み着く前から、私の弱さをしっかりと見抜いていたのだ、おそらくは。

このトラ猫は、犬が仔猫に近づけば立ち向かい、気に入らないことをする人間がいれば激しく威嚇し、自らの判断をしっかりとできる賢い猫であった。

私との意思疎通は、まるで互いの言葉が通じ合っているかのようにスムーズで、いつでも、どんな時でも、「気持ちが通じあっている」という手応えを感じることができた。

心を閉ざしながらも、一緒の時間を数年単位で過ごすうち、いつしか、このトラ猫との生活が、当たり前の日常となっていた。

そして、喧嘩で後ろ脚を痛めたことを機に、完全なる室内猫へと移行させた。この関係が「私たち」と呼ばれるものに変化しつつあることを、微かに感じとっていたからだ。


身体ひとつ離れて感じるぬくもり。

室内で一緒に過ごすようになっても、できるだけ対等に関わろうとした。

この賢いトラは、私の具合が悪いときは近寄らず、静かに遠くから見守り、私が寂しげなときは身体ひとつの隙間をつくって寄り添ってくれた。

快適な距離感を保ったまま生活し、気が付くと、出会ってから10年という月日が流れていた。

家の中でも独立心旺盛に過ごしたトラだったが、ある時から出かける私を後追いするようになっていた。

外出先から帰宅すると、「ずっと傍にいたい」とでも言いたげな様子で甘えてきた。責任を持って世話をしようと決意したあの時のように。

必死で私の身体に身を寄せてくる。その姿は、もはや猫ではなく、私にとっての掛け替えのない「命」であった。

時の流れを経て、トラが私のことを好きでいてくれるかも知れないという感覚が心の内から沸き上がり、思わず、

「トラは私のことが好き......だよね」

と呟いた。


トラは私が大好き。

この言葉を口にするだけで、胸がざわつき、恐ろしいほどの不安を全身で感じた。

と同時に、繰り返し言葉にすることで、それが確かな手ごたえとして、身心に刻まれていくことを感じてもいた。

「私はトラが大好き」

「トラも私が大好き」

この言葉を繰り返しながら抱き続けると、トラは喉を鳴らして目を細め、私の気持ちに応えてくれた。

愛し愛されるという「人生で初めて感じる歓び」に満たされた矢先、トラは急に逝ってしまった。


突然のお別れ。

トラにとっては「必然の旅立ち」だったのかもしれない、今にして思えば。

愛し愛され、気持ち通わせ、命と命が真正面から向き合うことの難しさ。だからこそ、それが達成された時の満たされた気持ちは、他の何物にも代えがたい。

この世に生を受け、生涯で出会うべき人のことを「運命の人」と呼ぶならば、私にとってのトラは、まさに「運命の猫」。

別れを嘆くより、出会えたことを歓びたい。

この関係を誇りに思って生きていこう。

さよならの悲しみも、出会えた感謝の気持ちで癒される。

運命の猫、トラ。

あなたが与えてくれた「あたたかく崇高な気持ち」を、私がこの世を去る瞬間まで一秒たりとも忘れたりしないと、ここに誓う。