赤仮面

第六章 「キャラクター」

キャラクターは傷つくことができない、そして人間も

 手塚治虫はかつて漫画記号論を唱えた。漫画における絵の上手さは、普通の絵におけるそれとは異なる。正確な模写とかそういう話ではない。それはむしろ記号の組み合わせであって、それによりキャラクターの感情や動きを表現することが求められるのだ。つまり言ってみれば、漫画を描くことは、絵を描くというよりも、漢字を覚え、書き取りすることに近いのである。
 さて、大塚英志は彼の漫画記号論について再考する。そして、そこに手塚治虫の生涯をつらぬく問題、さらには戦後漫画史そのものの問題を見て取る。それを端的に言えば「キャラクターは傷つくことができない」ということだった。記号であるキャラクターは、いつも物語のなかで同じように動き、同じように振る舞う。そこに「傷つく身体」は存在しない。従って、死に、傷つき、成長する、人間的な物語を描くためには、傷つくことができないキャラクターが傷つく、という逆説が可能にならなければならない。これを、大塚英志は「アトムの命題」と呼び、この課題こそ彼ら漫画家たちが立ち向かったものだとした。あの有名な手塚治虫の映画的手法というものも、キャラクターという記号で戦争を描こうとしたその試みに端を発しているのだ。
 キャラクターは傷つくことができない。それをどうやったら傷つきうるものにするか。
 この問題を立てたとき、われわれは別の命題を前提としているはずだ。人間は傷つくことができる。この脆弱な身体をそなえた存在は傷つくことができる。この至極当然の命題を、われわれは自明のものとしているはずだ。そして、傷つくことができないキャラクターが傷つくとしたら、それはその描写において人間を模倣し、想起させることができたからだ、というふうに考えるだろう。つまり、ここでは人間が傷つくことができるから、キャラクターも傷つくことができる、というわけだ。
 だが、今問題にすべきなのは、「キャラクターは傷つくができない」ということではなくて、「人間は傷つくことができない」ということではないだろうか。
 いきなり何を言い出すのか、と思われるかもしれない。だが、私はインターネットにおけるコミュニケーションを見るにつけ、そう思わずにはおれなかったのである。
 既にみたように、原理的に人はネット上において自らにいかなる姿を与えることも可能である。そのような環境のなかでは、いかなる姿も見せかけに過ぎないのではないかと疑いうるものになってしまう。みんなと一緒に笑いあっている。しかし、それは本当だろうか。「クソワロタwww」などと書き込んでいるこいつは本当に笑っているのだろうか。あるいは、泣いている奴がいる。こいつは本当に泣いているのだろうか。その涙は本物だろうか。さらに、怒っている誰かがいる。こいつはただ注目を集めようとして、怒りちらしてみせているだけなのではないか。傷痕を晒す誰か。ただの自己顕示欲に過ぎないのではないか。妙だな、「大変だ」とか言っているわりにそう書き込む余裕があるぞ。

 すべてのふるまいは、見せかけと見做され、疑義に付される。哀しみをたれながすことは、むしろ哀しみを語る余裕がある、とみなされる。笑いを書き込むことは、冷静さを暗示する。冷静さを誇示することは、裏で巻きあがる激情を見透かせる。見せることのできる傷痕は、すべてたいしたことのないつくりものに違いないのだ。
 こうした状況に伴っているように見える現象として、ネット上における身体的なレトリックに対する広がりつつある不信を挙げておきたい。かつて笑いの表現には「お茶吹いたwww」だとか「腹筋崩壊www」だとかいった大袈裟な表現を多く見かけることができた。だが、私見だが、こうした表現が使われることは減ってきているのではないか。かわりに出現してきたのは、「草」「草生える」「大草原不可避」といった表現群である。(笑)をさらに短縮した形としてwという文字に笑いという意味が宿ったわけだが、その連なり「www」が草むらのように見える、というのがこの表現の由来である。しかし、身体的な笑いのイメージが回避されて、書き込まれた記号のイメージがかわりに「笑い」の意味を代行しているこの状況というのは、そういった身体的なイメージが余計な疑いを差し込む余地を生んでしまうことの回避の結果なのではないか。
 また「嘘松」という言葉がある。これはTwitterアカウントで、嘘の話を実話として語ることを指すのだが、嘘松でよく見られる表現として――正確に言えば嘘松と認定したくなる話によく見られる表現として(嘘松とみなされた話の全てが本当に嘘松だったのか、その真相を確かめることはできない)――「ハッとした」がしばしば挙げられているのは興味深い。「気付いた」や「思い直した」でも同じ意味のはずなのに、「ハッとした」が槍玉にあげられる。それはこの言葉に刻まれた身体的な反応のイメージがどこか胡散臭いからではないか。
 嘘ではないかと疑うこと、見せかけではないかと疑うこと、しかしそれはまだ序の口の疑いにすぎない。究極的には、われわれはその発言者の存在性まで疑うことができる。これはただのbotにすぎないのではないか、中の人など居ないのではないか、あるいは居るとしてもbot程度の存在にすぎないのではないか。
 仲正昌樹はその疑い、気持ち悪さを二〇一三年に発表した『〈ネ申〉の民主主義―ネット世界の「集合痴」について』のなかで正直に吐露する。

 「私たち」は、お互いに「意味」がある言葉のやりとりをしていると信じているからこそ、コミュニケーションする気になるけれど、相手も自分も、実は無意味に自動作文を続ける、単なる生体”プログラム”――それもかなり程度の低い――かもしれない。〔中略〕

――確かにそうなんですが、それはネット時代以前から分かっていたことではないんですか? それこそ、カフカが小説を書いていた時代から。

 インターネット以前の活字メディア中心の時代であれば、そのような気味悪さが公の/場で露呈することあまりなかったと思います。人工無能のような人はいても、そういう人は、周りの人に迷惑がられるだけだったはずですが、今では、病んだ文章をブログやツイッターで公開して、仲間を集めることができるようになった。仲間が集まってくると、自信を持ってしまって、ますます、つぎはぎだらけの文章の産出に精を出すようになる。
 しかし、そのつぎはぎのキーワードに脊髄反射する人間がたくさん集まって来て、みんなで空虚な言葉のキャッチボールを始めると、それがすごく社会的意味のある行為のように見えてしまう。*1

 ここまで来ると、もはやこうした発言群は注意すらひかないものに成り果てるだろう。あの「哭きの竜」――人間ドラマを追い求めて、バーチャルなキャラクターたちの演技に着地したあのバトルウォッチャー――が、ネットの書き込みについて「量産型」「自作自演」と言い出し、「そもそもそんなものはわたしの人生にとって知る必要があるのか」と考え、ついには活動を止めてしまうのも、こうした疑いに暗々裏にとりつかれた結果ではなかろうか。
 そんな世界では、傷痕もまたただの記号で、自分語りも何の意味もないさえずりにすぎない。ここに至って、「人間は傷つくことができない」のだ。

キャラクターは傷つくことができる、だから人間も

 二十一世紀にはいって、われわれはキャラクターについて、キャラクターとともに生きるわれわれについて、数多くのことを論じてきた。だが、私が問題にしたいのは、「キャラクターとともに生きるわれわれ」以上に、「キャラクターとして生きるわれわれ」についてなのだ。
 この問題について、二〇一三年に藤田直哉によって書かれた『虚構内存在 ――筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』は大きく踏み込んでいる。虚構内存在とは簡単に言えばフィクションのなかの存在、キャラクターのことだが、藤田直哉はこう語る。

Twitterやmixiなどのツールを使い、そこに仮想の人格を作り(あるいは意識することなく、その装置ごとに違う人格や思想になっていき)、多重化した自己を操作している我々は、既に虚構内存在である。*2

 この「文字や映像を介してしか接触していない大量の他者と我々は共に生きている」*3現代を、この本は相手どっている。そこで彼が掘りおこそうとするのは小説家筒井康隆の虚構内存在の思想、超虚構理論である。
 インターネットに限った話ではない。われわれは筒井康隆の時代から、テレビ、新聞、雑誌といったかたちでさまざまなメディア越しに現実を、他者を眺めていた。筒井康隆はそのような環境のなかで虚構内存在の思想を練り上げていった。
 藤田直哉は彼の試みを次のように書く。

 それは、”存在”が”記号”にされていく、あるいはそのように感受されやすくなっていくメディア条件、社会条件に抗い、”記号”をこそ”存在”にするという試みである。情報や記号、虚構などとそれらの区別がつきにくくなっていくのが事実であり、それ自体に抗うことができないのであるなら――現存在を虚構化し、虚構を現存在化することで、全てを”記号”や”虚構”にすることなく、”存在”の重みを守ることはできないかというのが「超虚構」と「虚構内存在」の試みの核心にある思想である。*4

 人間が傷つくことのできない記号、キャラクターでしかなくなってしまうのならば、そのキャラクターを人間のように描ききることによって、人間の存在の重みを守ることができるのではないか。そこで、筒井康隆はアニミズム的な無機物に人格をみるような立場を重視する。

 筒井は、文房具や記号や無機物にも感情移入するべきだ、とは言ったが、人間を文房具や記号や無機物だと思え、とは言わなかった。人間を道具やものとして感じやすくなるリアリティの環境にあることを強く自覚しているが故に、記号そのものを存在化させた。《現存在》を記号として、あるいは情報として感受させやすくなるメディア環境の世界に我々が移行したのだとしても、逆に記号や情報を虚構内存在として考えることで、人間の生や死を記号のように思うメディア環境の条件のその先を提示しようとしていた。*5

 キャラクターを傷つきうるものにすることによって、人間をふたたび傷つきうる「存在」として回復すること。それが筒井康隆、そして藤田直哉の戦略であった。
 しかし、「キャラクターは傷つくことができない」のだった。それで、人間を想起させることでようやく傷つきえたのであった。ならば、このことは難問を解決するためにもっと巨大な難問に挑むようなものではなかろうか。そう思われる人もいるかもしれない。
 だが、私はそうは思わない。むしろ逆なのだ。人間が傷つきうるということはそもそもキャラクターが傷つきうるということなのだ。人間が傷つく、ということが可能なのは、傷つくことのできないキャラクターが傷つく、という不可能が可能であるがゆえなのだ。
 突然何を言いだすのか、と思われたかもしれない。人間が傷つきうるからこそ、キャラクターが傷つくという虚構が可能なのではないか。人間が傷つく、身体が傷つく、ということが可能だからこそ、キャラクターが傷つくという描写がかろうじて可能なのではないか。「人間は傷つくことができない」というのも、つまりは現代のメディアに囲われた環境において、直接的に身体をもったものとしての人間に面することが出来ないゆえの病弊にすぎないのではないか。そう尋ねる者もいるだろう。
 だが、私はそうは思わない。むしろキャラクターが傷つく、という不可能が可能であるからこそ、身体が傷つくという可能が可能なのである。他者の傷、涙、紅顔、そしてはじける笑顔その全てをわれわれは実のところある記号として受け取らざるを得ず、それらに宿る「痛み」「悲しみ」「憎しみ」「喜び」を直接的に知ることはできない。それらは身体という媒体のうえにあらわれた赤血球や水、タンパク質でできた記号であって、これらが「傷つく身体」として感受されるためには、そもそも記号が傷つくということ、キャラクターが傷つくということ、傷つけられた言葉、苦悶する言葉、こうした不可能が可能でなければならなかったはずなのだ。
 さて、これより私は「キャラクター」という言葉を、人間について考えるための手引きとする。なぜなら、この言葉は、一方で、文字、記号、行動様式の束、人物類型、ある関係性における相対的な役割といった意味を持ちながらも、同時に、「本質的で魔術的なフェティシュ」、「人格的なもの」と評される、何か有無を言わさない吸引力を宿している言葉だからだ。ここにおいて、「キャラクター」は、この二重体を即座に示唆する言葉になる。一方においてどこまでも記号、他方においてどこまでも人格的な存在、この二つの、そしてどこまでも相反するあり方を一挙に合わせ持つ、この「キャラクター」という存在。そして人間はまさにこのような存在ではなかろうか。

マルティン・ブーバー ――〈われ‐なんじ〉と〈われ‐それ〉の二重性のなかで

 世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。
 人間の態度は人間が語る根源語の二重性にもとづいて、二つとなる。根源語とは、単独語ではなく、対応語である。
 根源語の一つは、〈われ‐なんじ〉の対応語である。
 他の根源語は、〈われ‐それ〉の対応語である。*6

 一九二三年に、以上のような文章からはじまる一冊の本が出版された。マルティン・ブーバーの『我と汝』である。「キャラクター」という二重体について考えるにあたって、まずはじめにここに見える二重性について押さえておきたい。
 〈われ‐それ〉の態度において、見出されるすべてのものは「一般的な経験の対象」でしかなく、〈それ〉は他の〈それ〉に境を接することでのみ存在する。それはただ記述することのできる〈あるもの〉でしかなく、ただただ知識を堆積し、対象の世界を描き出すことに役立つだけである。〈われ‐それ〉の態度においては、〈われ〉はただ単にさまざまな過去や属性、ステータスを引き連れた「個的存在」でしかない。ブーバーは言う。

個的存在は自己の存在の特殊性を楽しむ。それどころか、たいていの場合、みずからが特殊存在であるという虚構をつくりあげて喜ぶといった方が正しいかもしれぬ。なぜなら、個的存在が自己を知るということは、多くの場合、その根本において、自己中心的であり、たえず徹底的に自己欺瞞をつくり、特殊存在であるとの認識からその誤った仮象を尊敬の想いで眺めようとするからである。*7

 このことは、宇野常寛が九〇年代の「引きこもり/心理主義」的な「古い想像力」に対する批判を思いださせる。この想像力において、人は自分の精神的外傷などといったものにアイデンティティを見出し、この「~である/~ではない」において自己像の「設定」を持ち、他者に押し付け、あるいはそこに閉じこもる。だが、宇野常寛は、キャラクターというの他のキャラクターとの関係のなかではじめてありうることを強調し、自分ただ一人のキャラクターを中心においた独り善がりな考え方を批判し、むしろコミュニケーションによって自らのあり方を再設定する想像力を支持する。
 この批判はどこまでも正しい。個的存在は自らを、さまざまな魅力的な〈それ〉で彩るが、結局のところ〈それ〉が〈それ〉である限り、それは他の〈それ〉と境を接することでのみ存在するほかないのだ。
 だが、この批判によって、自己に独善的に〈それ〉を付与することを自重し、〈それ〉の本質に立ち返って相対的な位置にあることに甘んじてみたところで、それは〈われ‐それ〉の態度の内部の問題でしかない。そして、このことは「コミュニケーションによる救済のあらんことを!」*8と叫んで本を閉じる宇野常寛の本意ではないに違いない。コミュニケーションによって、〈それ〉から〈それ〉へ、また別の〈それ〉へ渡り歩いてゆくこと、それだけで物事が閉じるのならば、そこに「救済」はありえない。
 さて、では〈われ‐なんじ〉の態度において、世界はどのような姿を見せるのか。ブーバーは次のように述べる。

 根源語〈われ‐それ〉の〈われ〉は、個的存在としてあらわれ、(経験と利用)の〈主観〉として自己を意識する。
 根源語〈われ‐なんじ〉の〈われ〉は、人格的存在としてあらわれ(依属する属格なしに)〈主体〉として自己を意識する。
 個的存在は他の個的存在から自己を分離させることによって、特質の相違をあらわす。
 人格的存在は他の人格的存在と関係にはいることによって、あきらかとなる。
〔中略〕
 〈なんじ〉との関係に立つものは、〈なんじ〉と現実をわかち合う。たんに自己のうちだけでも、またたんに自己の外だけでもない存在をわかち合うのである。*9

 ここで言う関係というのは、〈それ〉の世界におけるさまざまな〈それ〉が比較計量される関係のことではなく、人と人とが触れ合い、向かい合う関係のことである。単なる物ではなく、〈なんじ〉として認め向かい合う関係のことである。その関係について、ブーバーの描く「自」でも「他」でもない自他未分の境位、これは一体どういうことだろう。
 これを何か神秘的な自他合一の体験としてのみ考えてしまうのは、視野を狭めることになるだろう。むしろ、こうした関係のあり方はわれわれが日常経験しているのだと考えるべきだ。私はすでに「「空気を読む」の研究」の節でブーバーの一文を引用していた。「精神は身体を流れる血液のようなものではなく、あなたが呼吸する空気のようなものである」、ここに見られる「空気」。つまり、目の前の人が泣いたら何となく空気が暗くなり、笑ったら何となく空気が明るくなる、この情感の共有。これこそがこの自他未分の境位の示しているものだ。
 このような他人事ならぬ〈なんじ〉との出会いがもし全くなかったならば、他者とのコミュニケーションなるものは林立する障害物の間をうまいことかいくぐり、渡り歩く程度のことでしかないだろう。
 さて、このようにわれわれに迫ってくる〈なんじ〉は、一体どのようなものとして描くことができるだろうか。ブーバーは次のように語る。

 ひとりのひとにたいし、わたしの〈なんじ〉として向かい合い、根源語〈われ‐なんじ〉をわたしが語るならば、そのひとは、ものの中の一つのものではなく、ものから成り立っている存在者でもない。
 そのひとは、他の〈彼〉〈彼女〉と境を接している〈彼〉〈彼女〉ではない。時間、空間から成り立つ世界の網に捉えられた一点ではなく、また経験され、記述される性質のものでもなく、いわゆる個性と呼ばれうるような緩い束のようなものでもない。それどころか、そのひとは隣りをもたず、つながりを断ち切っている〈なんじ〉であり、天を充たしている。〈なんじ〉以外の他の何物も存在しないというのではないが、すべて他の一切のものは、〈なんじ〉の光の中で生きるのである。
 メロディーは音から成り立っているのではなく、詩は単語から成り立っているのではなく、彫刻は線から成り立っているのではない。これらを引きちぎり、ばらばらに裂くならば、統一は多様性に分解されてしまうにちがいない。このことは、わたしが〈なんじ〉と呼ぶひとの場合にもあてはまる。わたしはそのひとの髪の色とか、話し方、人柄などをとり出すことができるし、つねにそうせざるを得ない。しかし、そのひとはもはや〈なんじ〉ではなくなってしまう。*10

 〈なんじ〉を認めるということは、何らかの条件や分析によって〈なんじ〉を判断し、認定するといった類のことではない。そのような知識は不可能である。〈なんじ〉を認めるということはただただ行動である。関係するという行動、関係に入るという行動、ブーバーが「わたしの存在をかけた行為、本質行為」*11と呼ぶような行為そのものなのである。したがって、〈なんじ〉は本質的に知識の対象となりうるような〈それ〉ではありえない。〈なんじ〉はただただ私に向かい合い、差し迫る。よく分からないが無視することができない、他人事ではない、捨て置くことができないものなのだ。
 しかし、そのように認められた〈なんじ〉について、何か具体的な行動を行い、関係を築き上げるためには、〈なんじ〉の性情、思考を理解し、応答することが不可避となる。そこにおいては、人は〈なんじ〉を〈それ〉の世界で理解するほかなくなる。

応答はすべて〈それ〉の世界に〈なんじ〉を閉じこめてしまう。これは人間の悲哀であり、また偉大さでもある。なぜならば、〈なんじ〉が〈それ〉の世界につなぎとめられてはじめて、〈なんじ〉は生きる人々の間の知識となり、作品となり、形象となり、象徴となるからである。*12

 対話のなかで、言葉のなかで、〈なんじ〉は〈それ〉にならねばならない。「われわれの世界にあって、それぞれの〈なんじ〉が〈それ〉とならなければならないということ、これはわれわれの運命の高貴な悲しみである」*13、とブーバーは言う。
 〈それ〉という世界をはさまなければ、われわれは〈なんじ〉に何をしてやることもできないに違いない。だが、〈それ〉だけが世界のすべてと思いなして〈なんじ〉を忘れてしまったならば、〈それ〉は人間を助けるどころか害する毒になってしまうだろう。この点をブーバーは強調する。

当初の考え

 〈われ‐なんじ〉の態度を恢復すること。それこそがブーバーが同時代人に求めたことだった。〈われ‐それ〉はたしかに現代の社会を維持するのに重要であるに違いない。だが、「〈それ〉のみで生きるものは真の人間ではない」*14と彼は訴えるのだ。
 彼は次のように述べる。

現代における労働と所有の発展自体は、向かい合うものとの生活、すなわち、意味深い〈われ‐なんじ〉の関係をほとんど根絶してしまっていないであろうか。そうだからといって、時代に逆行することは、愚かな矛盾となるであろう、――かりにこの愚かな逆行を試みるがいい、多数の人々の生活を支えている巨大なこの文明の精密な装置はただちに破壊されてしまうことになるであろう。
 ――世の饒舌家よ、あなたの饒舌はあまりにも遅すぎた。もう少し前であったら、あなたの饒舌を信じたかもしれないが、今はもはや信ずることができない。なぜならば、わたしと同様あなたも、国家がもはや充分に支配されていないこと、機関士としての指導者たちは石炭をつみこんではいるが、しかし、猛烈な勢いで走っている汽車を運転しているように見せかけているだけだということがわかったからである。*15
今日、精神といわれているものは、散乱し、弱化し、頽廃し、矛盾した精神であるが、もし〈なんじ〉と呼び得る精神の本質に再びかえるならば、むろん精神は真のはたらきを発揮するであろう。*16

 これこそが彼が彼の時代に向き合った結果だった。それを受けて私は当初次のように考えた。まずはその話をさせていただきたい。
 私は当初、人間がキャラクターとして存在するほかない、という現代の状況の問題点を、キャラクターというものが記号、情報、つまりは〈それ〉としてのみ受け取られてしまうという点において考えた。そうであるがゆえに、「キャラクターは傷つくことができない」「人間は傷つくことができない」という問題が生じたのである。
 ある人間の行動様式、人物類型、つまりは〈それ〉のかたまりとして把握すること。この不可避の進行に抗うためには、キャラクターのもう一つの側面、人格的で魔術的な、つまり〈なんじ〉としての側面を呼び覚ますほかない。
 それはどのような側面か。それはブーバーの言うように「経験され、記述される性質のものでもなく、いわゆる個性と呼ばれうるような緩い束のようなものでもない」なにかである。
 そこで、私は次のように考えた。人間はコミュニケーションのなかで必ずなんらかのキャラクター――人物類型、〈それ〉の集積――として受け取られるほかない。だが、そのようなものとしてのみ他人を捉えること、あるいは自分を捉えることは必ず歪みを生む。そこで我々は、そうした記号、言葉に回収されない部分について、意識を開いておく必要がある。声にならないものに耳を澄ませること。語られた言葉だけですべてを理解した気にならないこと。それが私の当初の――最初に本書の結論について企図したときの――考えだった。
 つまり、ごく簡単に言ってしまえば、私は「声なき声に力を」と言おうとしていたのである。ブーバーが「愛なき時代に愛を」と述べたといえるように。
 このことは決して困難な話ではない。なぜなら、その声のない〈なんじ〉はキャラクターと相反するものではなくそれに本質的に伴っているものなのだから。それを呼び起こすことは決して不可能ではないはずだ。私ははじめにそう考えた。
 だが、本書がかたちをなすにつれ、私はこの自分の考えに自信がもてなくなってきた。キャラクター――記号と人格、〈それ〉と〈なんじ〉の二重体――の発見は救いとなるのではなく、むしろそれこそが問題の根本にあるのではないだろうか。
 ブーバーの本からはこんな文章を見つけ出すこともできる。

ごきげんよう(ハイル)、という言葉は、本来力を相手に付与することを意味しているが、今日これを感ずることはまれである。*17
測り知れぬ運命の中に燃えている民族のために奉仕すべく、身命をなげうつとき、そのひとは神を考える人である。*18

 この一九二三年の願いは十年後の歴史的状況において皮肉な形で実現した。「ハイル、ヒトラー」、民族は測り知れぬ運命の中で燃え上がった。もしかすると、ヒトラー本人はブーバーが「神を考える人」から切り分けた「国家を偶像とし、自己のすがたを国家のすがたと同一視し、それゆえに、すべてを自己に奉仕させようとしているような人物」*19だったのかもしれない。だが、身命をなげうったドイツ国民のすべてがそうであったとは考えにくい。そのことに目を向けるとき、たんに〈われ‐なんじ〉の態度を称賛することが助けになるのかは疑わしく感じられる。
 われわれはただ〈われ‐なんじ〉の態度、人と人との相触れ合う「空気」を称揚するだけでよいのだろうか。むしろ、山本七平が見たように問題はその「空気」にあるのではないか。なるほど、彼の見た「空気」はその極端な病態にすぎない。だがその病態はあくまでも「空気」の病態である。臨在感的把握、と言って彼が示そうとしたこの病態は、きわめて人格的な現象、〈われ‐なんじ〉の圏内にある現象であった。そのように考えるとき、素朴に〈われ‐なんじ〉の恢復に突破口を求めることはできない。
 問題は〈われ‐それ〉の態度の一方にあるのではない。問題は両者の混ざり合い、すなわち〈それ〉と〈なんじ〉のもつれあう二重体、キャラクターにこそある。

柄谷行人、そしてマルクスのみた「商品」

 二〇一一年に発表された村上裕一の『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』は独自の「キャラクターの哲学」を展開した一冊である。彼は冒頭で次のように述べる。

これまで、様々な視点からキャラクター概念に関する分析が行われたが、この神秘性・魔術性を正面から評価した考察は驚くほど少ない。筆者はここにキャラクターの「可能性の中心」を見るものであり、この可能性が後に「ゴースト」と呼ばれることとなる。*20

 すると「ゴースト」とは何か。彼に言わせれば、それは「キャラクター化(人格化)するデーターベース」である。だがデーターベースそのものがキャラクター化する力をもつということは何を意味しているのか。
 私に言わせれば、それは本書の第三章「秘密」で述べたことと同じようなことなのである。つまり、データーベースの単なる要素それ自体がよく分からない不可解な形(「秘密」)として何か人を惹きつける、ということである。ここに村上裕一が「神秘性」「魔術性」と形容するものがある。
 本書が〈それ〉と〈なんじ〉の二重体としてキャラクターを考察するということは、こうした「可能性の中心」を探求すること同じなのだ。
 さて、この「可能性の中心」という言葉は当然ながら柄谷行人の著書『マルクスその可能性の中心』に由来する。私はキャラクターの「可能性の中心」を追ううちにこのマルクスの「可能性の中心」について考えざるをえなくなった。なぜなら、柄谷行人がみるマルクスの「可能性の中心」とは、商品というもののもつ神秘性・魔術性のことであり、ここでみられた商品の性質と、キャラクターの〈それ〉と〈なんじ〉の二重体としての性質には近しいものがあると思われたからである。
 マルクスは『資本論』において次のように述べる。

 商品は、一見したところでは自明で平凡な物のようにみえる。が、分析してみると、それは、形而上学的な繊細さと神学的な意地悪さとにみちた、きわめて奇怪なものであることがわかる。*21

 柄谷行人はこの引用につづけて次のように書く。

『資本論』という作品が卓越しているのは、それが資本制生産の秘密を暴露しているからではなく、このありふれた商品の”きわめて奇怪な”性質に対するマルクスの驚きにある。商品は一見すれば、生産物でありさまざまな使用価値であるが、よくみるならば、それは人間の意志をこえて動きだし人間を拘束する一つの観念形態である。ここにすべてがふくまれている。既成の経済学体系は、ありふれた商品を奇怪なものとしてみる眼によって破られた。マルクスは、初めて商品あるいは価値形態を見出したのだ。*22

 さて、このようにして商品を眺めたとき、何が明らかになるか。
 彼らが強調するのは、相異なる商品を等価であるとかでないとか言うことを可能にする「共通の本質」というのが事後的なものである、ということだった。普通、この共通の本質は、貨幣によって示される金額である。そしてマルクスはこれを人間的労働に置き換えた、としばしば語られる。だが実際に彼が語るのは、そのような共通の本質が交換によって事後的に発生する、ということである。

 だから、人々が彼らの労働諸生産物を諸価値として相互に連関させるのは、これらの物象が、彼らにとって同様な種類の、人間的な労働のたんなる物象的外被として意義をもつからではない。その逆である。彼らは、彼らの相異なる種類の諸生産物を交換において相互に等置することにより、彼らの相異なる諸労働を人間的労働として相互に等置する。彼らはそれを意識していないが、しかしそう行うのである。*23

 商品にもともと何か共通の本質がそなわっているのではない。ただ交換が行われることによって事後的に「交換を可能にするような共通の本質」があったかのように見なされるだけである。
 次に柄谷行人は剰余価値について考察する。ここで彼はマルクスが軽視した商人資本を重視し、そこから産業資本の剰余価値の秘密を探り当てる。商人資本の剰余価値はどのように生まれるか。それはある地域で買ったものを他の地域でもっと高く売ることである。これを抽象的に表現すれば、ある価値体系と別の価値体系の中間で利潤を得る、ということだが、柄谷行人は、これを産業資本にも当てはめる。ここでは労働力を購入し、その生産物を売って利潤を得るのだが、ここには二つの相異なる価値体系が時間的につくりだされているのだ。

 労働の生産性の上昇は、分業や協業の強化によろうと、機械の改良によろうと、労働力の価値を潜在的にさげる。これはつぎのようにいいかえてもよい。資本家は、すでに安くつくられているにもかかわらず、生産物を既存の価値体系のなかにおくりこむ。つまり、潜在的には労働力の価値も、生産物の価値も相対的に下げられているのだが、このことはただちには顕在化しないのである。だから、現存する体系とポテンシャルな体系が、ここに存在する。したがって、われわれは産業資本もまた、二つの相異なるシステムの中間から剰余価値を得ることを見出すのである。*24

 ポイントは二つだ。売買(等価交換)の可能を保証する「共通の本質」は、実は売買の行為によって事後的にあったかのように見える、ということ。そして、この交換から利潤を得ることができるのは、それはある体系から別の体系への飛躍があるからだ、ということ。そして、このことをより鮮明に他者論として打ち出したのが『探求I』である。ここでは異なる体系への何の事前の保証もない飛躍が、マルクス、そしてウィトゲンシュタインとともに語られることになる。

命がけの飛躍

 『探求I』は次のようにはじまる。

 ウィトゲンシュタインは、言葉に関して「教える」という視点から考察しようとした。これははじめてではないとしても、画期的な態度の変更である。子供に言葉を教えること、あるいは外国人に言葉を教えること。いいかえれば、私の言葉をまったく知らない者にそれを教えこむこと。
〔中略〕
 このことを理解するためには、「売る」立場を類推的に考えてみればよい。マルクスがいったように、商品はもし売れなければ(交換されなければ)、価値ではないし、したがって使用価値ですらもない。そして、商品が売れるかどうかは、「命がけの飛躍」である。商品の価値は、前もって内在するのではなく、交換された結果として与えられる。前もって内在する価値が交換によって実現されるのではまったくない。
 言葉についても同じことがいえる。「教える」側からみれば、私が言葉で何かを「意味している」ということ自体、他者がそう認めなければ成立しない。私自身のなかに「意味している」という内的過程などない。しかも、私が何かを意味しているとしたら、他者がそう認める何かであるほかなく、それに対して私は原理的に否定できない。私的な意味(規則)は存在しえないのである。*25

 まったく別の言語ゲーム、共同体に所属する他者に対する、何の前もっての保証もありえない対話。『探求I』はとことんその「教える」立場、「売る」立場においてものを考えようとする。
 さて、ところで、この「教える‐学ぶ」の関係の「学ぶ」立場において「辺境」を論じた内田樹は、この「学ぶ」立場の方向から「命がけの飛躍」について語っている。

 もし、ものを学ぼうとしている人に、「就いて学ぶべき師を正しく選択できるように、師たちを客観的に適正化格付けできる予備的能力」を要求したらどうなるでしょう。そんな予備的能力を要求されたら、私たちは一生学び始めることができないでしょう。学び始めるためには、「なんだかわからないけど、この人についていこう」という清水の舞台から飛び降りるような覚悟が必要だからです。*26

 「教える- 学ぶ」関係は、言語ゲームを共有していない者同士で行われるコミュニケーションであり、教える側にとって「命がけの飛躍」であるように、学ぶ側にとっても「命がけの飛躍」であることはすぐに了解できるだろう。それゆえ両者は同じようなことを言っているように見えるかもしれない。だが、実際には大きな違いがある。
 こう言うと、読者はもしかしたら商業に関する二人の認識の違いに気づくかもしれない。既にみたように、内田樹は新渡戸稲造に同調して、「或るものに対して或るもの」たる商業に対し否をつきつける。だが、柄谷行人のみたように、この「或るものに対して或るもの」という報酬の主義なるものは、「売る」という「命がけの飛躍」によって事後的に仮構されるものであって、けっして商業の本質ではないのだ。
 しかし、この点について言えば、両者は見かけほどに異なるわけではない。内田樹が批判しようとしているのは、実際には、商業そのものではなくて、「買い手」の位置に収まることによって「学びからの逃走」に走る子供たちであった。一方、柄谷行人は「蓄積と信用―他者からの逃走」という章で、守銭奴(貨幣退蔵者)について次のように述べる。

 それは、諸共同体の外部に、流通が形成する”世界”において、「売る」という危うい立場をまぬかれようとする衝動にほかならない。いいかえれば、それは「買う」立場に立ちつづけることだが、実際に買ってしまえばその立場はうしなわれ、再び「売る」立場に立たされてしまうので、けっして買うことなしに「買う」立場に立ちつづけるのではなければならない。*27

 内田樹にとっては「学びからの逃走」、柄谷行人にとっては「他者からの逃走」。こうして並べると大きな差はないように見える。
 また、ある読者は内田樹が「命がけの飛躍」を「学ぶ」側から語るのに対して、柄谷行人が「教える」側から捉えようとしていることに注意を向けるかもしれない。そして、もしかしたら、このことから内田樹が「教える」立場の不安定さを充分に受け止めていないとみて批判するかもしれない。柄谷行人にとって、「「教える」者の優位性ではなく、その無力さ」*28こそが、「命がけの飛躍」として問題になる。だが内田樹はその不安定さに目を向けず、ただただ「学ぶ」側の努力と覚悟を要求する。このように批判する者もいるかもしれない。
 だが、こうして内田樹に対して(というより誰に対しても)「教える」立場の不安定さを引き受けているのかとその覚悟を問うことは無意味であるように思える。「学ぶ」側の覚悟を求めることも、「教える」側の覚悟を問うことも、われわれが今日置かれている状況を理解する助けにはならないだろう。そして、この点で内田樹と柄谷行人は違うのだ。
 内田樹にとっての「命がけの飛躍」とは、結局、「清水の舞台から飛び降りるような覚悟」であり、心構え、内面の問題である。しかも、彼は死の可能性、失敗の可能性を「先駆的に知る能力」なるものを措定することによって消してしまう。

 日本人は「鰯の頭」であっても信心することができる。この開放性はほとんど国民的能力と呼ぶことができます。けれども、考えればわかりますが、ほんとうに「鰯の頭」を拝んだ場合には、いろいろと差し障りがあります。〔中略〕そのリスクを回避するためには、「鰯の頭」であっても信心しうるほどの開放性を持ちこたえながら、それと同時にそれが無価値な「鰯の頭」である場合には、それを先駆的に知って、さりげなく回避する能力が必要になります。*29

 「「学ぶ力」とは「先駆的に知る力」のことです」*30と彼は言う。それだから、たとえば、麻原彰晃に付き従って死んだ人や凶行に走った人は、実は「学ぶ力」を充分に持っていなかったのである。
 「先駆的に知る力」? 私は人間の持っている力、持ちうる力について充分には知らないので、そのようなものがありうる、ということについてはとりあえず信じてみよう。「学ぶ力」は周囲への開放性にある、と考えるならば、ある一人の教説に凝り固まり、社会への目を閉ざした集団は「学ぶ力」を十全に発揮できていなかった、と判断されるのは当然である。そう考えると、周囲のすべてに対してまんべんなく開放性を保ち続けている真に十全な「学ぶ力」の保持者が内田樹の言うような「先駆的に知る力」を保持しているとしても不思議なことではない。
 だが、このような能力を人々に要求する、という試みが成功するとはとても思えない。
 一方、柄谷行人にとって「命がけの飛躍」とは、そのような覚悟の問題、内面の問題ではない。それは構造的な問題であって、誰もが避けられない問題なのだ。
 そして、これゆえに、私は「今どんなところに住んでいるのか」という本書の冒頭の問いに対して、柄谷行人の示した方の「命がけの飛躍」を提示したいのである。
 今日のコミュニケーション空間における「命がけの飛躍」は、ことによるとその当事者にはまったく意識されていないかもしれない。だが、「それを意識していないが、しかしそう行う」。それは「命がけの飛躍」である。
 その「命がけ」とは、心構えに関する修辞ではない。端的な事実である。というのも、われわれは死屍累々の失敗例と隣り合って生きているのだから。
 さまざまな人がさまざまなキャラクターとして、意識的にせよ無意識的にせよ自分を売り出す。そのいくつかは受け入れられ、そのいくつかは受け入れられない。ある人は毒舌キャラを売りにして、単に嫌な奴だと思われる。またある人は厄介事を避けようとして、善人気取りの偽善者だと思われる。そして、またある人は自分を人気者だと思い込んでいるが、実はそうではない。
 これは単なる日常である。単によくある話にすぎない。
 ここで「学ぶ」覚悟や、「教える」覚悟を問いただしたところで微々たる効果しか得られないだろう。自分は「学ぶ力」を持っており精一杯学んでいるのだ、と思っているが実はそうではなかったりする。教える立場を毅然と引き受けている、と考えているが、傍からみれば全くそうではなかったりする。こうした状況こそ、柄谷行人にとっての「命がけの飛躍」が示している状況なのだ。

コミュニケーションの残念

「思いなした」ことと「違った」ことをやっているという「事実」に、「途方にくれる」こと、それが彼〔ウィトゲンシュタイン〕にとって「哲学」の出発点なのだ。そして、「哲学の仕事」は、「前と後」に関する「展望」を与えることである。むろん、それによって、「困難が回避されるわけではない」が。*31

 『哲学探究』の第百二十五節を、柄谷行人は上のように要約する。そして、これは私が第一章で洗いだした「残念」の意味にほかならない。思わぬ「事実」とともに取り残され、ただ「途方にくれる」こと。これこそが「残‐念」の正体だった。
 二〇一〇年代は「残念」の時代だった。この言葉の意味を、われわれはようやく理解することができる。それは決して「寛容」の時代、「おおらかさ」の時代を意味しない。それはただ、コミュニケーションの本質的な残念さが誰の目にも露呈してゆく時代である。われわれは、それを嘆きもするし、受け容れもするだろう。あるいは、おもしろい玩具だと考えて弄ぶ者もいるかもしれない。そのどれもが、「残念」の時代に生きる人々の反応のそれぞれの形なのだ。
 その一〇年代も、あともうすぐで終わる。平成は終わり、新しい名前の時代がはじまる。だが、本書の仕事は、ただこの時代について、そして「残念」なるものについてなんらかの「展望」を得ることにあった。だから私はそろそろ筆をおくことにしよう。
 ある者は、コミュニケーションの無内容さと空虚さを嘆いた。ある者は、コミュニケーションに救済を求めた。本書が試みたことは、コミュニケーションをただ見つめることだ。コミュニケーションの残念さをただ見つめることだ。

*1 仲正昌樹『〈ネ申〉の民主主義―ネット世界の「集合痴」について』(明月堂書店)、104~106頁。
*2 藤田直哉『虚構内存在 ――筒井康隆と〈新しい《生》の次元〉』(作品社)、11頁。
*3 同上書、12頁。
*4 同上書、106~107頁。
*5 同上書、142~143頁。
*6 マルティン・ブーバー『我と汝・対話』植田重雄訳(岩波文庫)7頁。
*7 同上書、82頁。
*8 宇野常寛『ゼロ年代の想像力』(早川書房)、344頁。
*9 マルティン・ブーバー、前掲書、80頁。
*10 同上書、15頁。
*11 同上書、19頁。
*12 同上書、51頁。
*13 同上書、25頁。
*14 同上書、47頁。
*15 同上書、61頁。
*16 同上書、65頁。
*17 同上書、28頁。
*18 同上書、133~134頁。
*19 同上書、134頁。
*20 村上裕一『ゴーストの条件 クラウドを巡礼する想像力』(講談社BOX)、7頁。
*21 カール・マルクスの『資本論』、第一章第一篇第四節からの引用。ただし本書では『マルクスその可能性の中心』からの孫引き。
*22 柄谷行人『マルクスその可能性の中心』(講談社学術文庫)、14~15頁。
*23 註21に同じ。
*24 柄谷行人、前掲書、78頁。
*25 柄谷行人『探求I』(講談社)、5~6頁。
*26 内田樹『日本辺境論』(新潮新書)、128頁。
*27 柄谷行人『探求I』、111~112頁。
*28 同上書、157頁。
*29 内田樹『日本辺境論』(新潮新書)、189~190頁。
*30 同上書、197頁。
*31 柄谷行人『探求I』、54頁。〔〕内筆者付記。

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 サブカル系評論を書く人間には、自分の好きな作品や作者を読者に紹介する特典が付与される。その特典を見逃す手はない。もちろん、最低限の礼儀として本書の内容にまったく関係のないものを書くべきではないし、そのつもりでいる。よくappendixだとか付論だとか、章のタイトルをつけられるが、ここは一つ、ある日本語を採用しよう。

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 これで本論は終わりますが、付論およびあとがきで、もうちょっとだけ続きます。



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