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文披31題:Day9  ぱちぱち

「海の中では、まばたきはできるの?」
 こうやって、とまぶたを上下させながらまばたきの仕草をする。大仰な仕草と長いまつげのおかげで音がなりそうなほどだなと思う。
 にこにこ笑ってラベンダー色の瞳を持つ人魚が答えを待っているが、残念ながら貴女はできるが自分は無理だと告げると、無邪気な瞳は悲しげに曇った。
 どうして、とプールの縁に上半身を寄せて不満げな様子に苦笑するしかなく、人間だからだよと説明するけれど、彼女にはうまく伝わらないらしい。
「海の水は目に染みるんだよ。それに、人間は、水の中では息ができないし」
「そんなこと、知らないわ」
 顔をそらして怒る様は可憐で、とてもかわいらしい。淡い金色をした髪が水面にゆらゆらとゆらめいて広がり、透明な海水に、幾筋もの金色の川か橋がかかっているようでおもしろい。見入っていると、顔に水がかけられた。
「しょっぱ!」
 目をこすりながら口に入った海水にむせていると、人魚はくすくすと笑う。してやったりと言わんばかりに笑う姿も可愛らしいものだから、怒る気が失せてしまう。
 けれど、言うべきことは言わねばならない。お役目はこの海水のプールで暮らす人魚の観察と監視と、人間との共存の教育なのだから。
「あのね、突然そういうことをしてはいけません」
「怒った? ねぇ、怒った?」
「たいへん不快だ。貴女は悪意をもって僕に水をかけたでしょう?」
「不快? 悪意?」
「不快、はいやな感情を覚えること。さきほど貴女が感じていた気持ちと似たようなものかな。悪意は、誰かを害そうと考えていること」
 しばらく沈黙しながら、人魚はプールの縁に頬杖をついて首を傾げた。先ほどと同じように不満げな顔をしていたが、ふとこちらを見上げてにやりと笑う。
「なら、ワタシはあなたに不快にさせられたということね! 一緒だわ!」
 嬉しそうに笑って拍手をするが、悪意に関しては同じではないので注意をすると、人魚はラベンダー色の瞳を下げてしゅんと落ち込んだ様子を見せる。
「だって、意地悪されたと思ったんだもの」
「なら、お互いにごめんなさい、をしよう」
「そうしたら、この嫌な気持ちは消える?」
「消えないかもしれないけど、少なくとも、嫌いじゃない気持ちが生まれると思うよ」
 説明しながら、互いに不満を覚えた理由をすりあわせていくと、やがて人魚はほっとしたような顔になり、柔らかい笑顔を見せてくれた。嬉しいと体が動くのか、水面に出てきた尻尾の、ひれの先がぱしゃりと水しぶきをあげる。
「うわっ」
 少しだがまた海水が顔にかかった。人魚が慌ててごめんなさいと言ってくる。
「怒ってる?」
「これは驚いただけ。貴女が僕に嫌な気持ちを持って水をかけたわけじゃないので、大丈夫。でも、ごめんなさいと言ってくれたのは、嬉しいな」
 丁寧に説明すると、人魚はうんうんとうなずきながら笑顔になった。
「海は、広いのよね」
 ひとしきり今日の会話時間を過ごした後、人魚がぽつりとつぶやいた。
 彼女は『海』を知らない。海にはたくさんの人魚が住んでいるが、ある目的をもって数体の人魚が捕らわれ、研究されている。同時に、人魚を理解するためと人間は人魚を研究所内で増やすことに着手した。人と同じく、生物学上において雌雄の性を持つ人魚は、おそらく一対の人魚から生まれるものとして、実験された。
 結果、人間の手により『養殖人魚』を誕生させることに成功した。それが彼女だ。ゆえに、目の前の人魚はこの研究所の、海水に満たされたプールで生まれて生きているため、海を知らないのだ。
 彼女は、人間との共存を図る研究材料としても優秀だと、慎重に『教育』と『観察』が行われていた。まだ見た目は人間の少女と似たような姿をしているため、幼体とみなされているが、彼女の親とする人魚たちのようにみなされれば、彼女のこどもを作ることも考えられているのは明白だった。人魚はたくさんいると言っても、美しい姿と声と、珍しさから研究対象としてはもってこいだと、増加を望まれているのだ。
 そこに人魚の意思はあるのかどうか。人と似た姿を見ているだけに、おそらくあまりよくない形で進んでいる研究なのだろうなと察しはついたが、考えないようにしていた。一研究員である自分が口を出すことでもなく、出せる立場でもない。正直言えばそんな研究は知識として取り入れることはあっても実践したいかと聞かれれば否だ。
 だから、今の状態は自分にとってとてもありがたかった。
「いつか、一緒に行こうか」
 するりとこぼれた言葉は、研究所の考え方に沿うものなのか自信がなかったが、彼女の小さな希望はできれば叶えてやりたいと思ったのだ。
「ほんとう?」
 ラベンダー色の瞳がきらきらと輝いた。約束ねと人魚は小指を絡めてくる。ほかの研究員に教えられたのかはわからなかったが、己の小指を絡めて『いつか海を見に行く』と約束を交わした。
 嬉しそうに人魚がもう一度拍手をすると、乾いているけれどとても楽しそうな、音楽のようにリズムよく音が響いた。
 己の扱う魔法を極めれば、あるいは、と考える。人魚の専属となっているのは、自分の魔法のためだ。彼女は本能的に海を求めている。彼は人魚のそばにいるだけで、彼女に『海』を与えることができる。あくまで概念だが、それもまた研究対象だ。
 海の魔法使い。そう呼ばれる彼が、人魚のそばにいることの意味を、彼はまだわからないままだった。

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