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第三二節 たかが二年されど二年

 REAL OSAKA ULTRAS(レアル・オオサカ・ウルトラス)。真の大阪は誰かと聞かれたら一目瞭然だろう。一定のサイクルで昇格と降格を繰り返すクラブ。愛おしいと思えたなら今すぐにでも長居スタジアムに行くべきだ。ぼくは声を大にして言いたい。
 仮に、そんな思いに駆られなかったとしても長居公園はぜひとも訪れてみてほしい。いや、訪れるべきだと思っている。
 公園内にはスタジアムが三つもある。他にも数多くのスポーツと触れ合える環境が存在している。さらには植物園を中心とした自然とサッカーの共生をいつでも見ることができる。一度でも長居公園の魅力を知ると、好き、という領域を超えてしまうくらいの熱い感情に包まれてしまう。
 セレッソ大阪というクラブに対してもそうだ。
 ただの恋人同士なら関係を断ち切るのはいつだって可能だ。だけど一度愛してしまったら無関心でいられるなんて絶対にできやしない。
 我がクラブに限った話などではない。チャールズ・ダーウィンもびっくりするくらいの、つまりは二〇余年の果てに日本中のJリーグサポーターがそんな生き物と化している。新たな進化論と言ってしまっても差し支えはないだろう。
 そんな愛の生物学をも根底から覆しかねない反対勢力が、三度目となる降格に姿を変えてセレッソ大阪サポーターのもとへとやってきたのが昨年だった。
 優勝候補から一転、J2という暗く長いトンネルへと放り込まれてしまった我らがセレッソ大阪。わずか七勝しかできないシーズンを歩むなんてぼくは予想だにしていなかった。
 ぼくらはどこでどのようにボタンをかけ違えたのだろうか。ランコ・ポポヴィッチの監督就任か。ディエゴ・フォルランの来日か。ゴイコ・カチャルの離脱か。柿谷曜一朗の移籍か。二度の監督交代か。それとももっと以前の出来事なのか。
 今となってはこんな戯言をほざいてみても覆水は盆に返らない。サポーターはそれらを受け入れ、そして共倒れした。ただそれだけだった。
 過去の振り返りなどこの程度で充分だろう。要するにセレッソ大阪の二〇一五年はセカンドディビジョンからはじまる。それだけは誰の目にも明らかだった。

 二〇一五年二月。ぼくは九州にいた。
 福岡県内での仕事が終わって ― 人には話せないくらいの夜のランデブーを超えて ― 帰路に着くことなく博多駅前から宮崎駅行きの高速バスに乗り込んだ。
 どんなカテゴリーにいようとセレッソ大阪は宮崎キャンプを敢行する。散々な二〇一四年を目に焼きつけたからこそ、自分自身への戒めとしてこの宮崎キャンプだけは絶対に見ておかなければならなかった。
 なによりぼくの一番のお目当ては新社長だ。セレッソ大阪サポーター組織の立ち上げからなにからなにまでお世話になり、黎明期の苦楽を共に過ごしたあの人が就任したのだ。ぼくにとっては至極当然だ。
「え、少な…」
 バスに乗り込むぼくの心の声が運転手に聞こえてしまったかもしれない。
 福岡宮崎間の高速バスは採算が取れているのだろうか。ぼくの余計なお世話がポゼッションで上回っている。それくらい火曜夜の車内は空席が目立っていた(その分快適さが増しているのは言うまでもない)。
 キャンプを見学するのは何年ぶりなのだろうか。特に東京に籍を移してからというもの、津守や舞洲の練習ですらまともに見れていないような気はしている。
 それでも二〇一五年シーズンのスタートをこの目に焼きつけなければ自分のなかのモヤモヤが晴れない。ここ数年のクラブ事情だって到底納得できなかったから、新社長とは話をしておきたかったのが本音でもあった。
 セレッソ大阪サポーターも大挙して宮崎を訪れるという情報にぼくは強く心打たれた。J2にいようがスター選手が去ろうが、セレッソ大阪は今や大きな愛に包まれるクラブになったというわけだ。
 そう思うと余計に新社長に会わなくてはならないという強迫観念がぼくのなかに芽生えた。寝転んでいても誰にもなにも言われないであろうバスの座席で、なぜかぼくは居住まいを正すことに終始した。
 宮崎駅前のホテルで一泊したぼくは、とんでもない距離にくじけそうになりながらも、トレーニングがおこなわれている国際海浜エントランスプラザ 多目的広場まで徒歩で向かった。二月の宮崎の日差しを舐めてはいけないとぼくは改めて学んだ。
 選手かよと言われるくらい汗だくになったぼくを待っていたのは、トレーニングに励む選手たちと、とんでもない数のセレッソ大阪サポーターだった(もちろん宮崎県民の方も大量にいるとは思うのだけれど)。

 世界のディエゴ・フォルランがいて、ブラジルワールドカップに出場した山口蛍がいて、玉田圭司がいて、橋本英郎がいて、関口訓充がいる(玉田、橋本、関口の三人は、ぼくのなかで「セレッソ大阪相手にいつも最高のパフォーマンスを見せる最悪の選手」という評価だった。だけど我がクラブに加入したからにはぜひともアミーゴと呼ばせていただく)。
 茂庭照幸も復帰した。選手層を鑑みてもJ2なんていう受験は一年でクリアしなければならない。前回みたく何度も留年するわけにはいかないのだ。セレッソ大阪に関わるすべての人間はよくわかっていた。
 金網の向こうから練習を終えた選手たちが次々と出てくる。セレッソ大阪サポーターがどっと移動して取り囲んでいった(取り囲むという書き方をすると、どうしてもバスだったりスタンドに居座る想像をしてしまうぼくは、ある種の病にかかっているのだろうか)。
 写真攻めとサイン攻めを繰り出すサポーターとそれに応える選手たちを横目にぼくはあの新社長を探していた。すると社長のほうが先にぼくを見つけた。
「おう、遠いところまでよく来たな」
 久々に会った第一声がそれかよ。
 昨日まで福岡にいたんでね、とぼくは言って話を続けた。
「それにしても何年ぶりですかね。アキの引退記念パーティ以来かなあ。それにしてもこのタイミングで社長って…大変すね」
「いや、色々と変えていかなあかんものがたくさんあって楽しいぞ。そうやそうや。ちゃんとフォルラン見たか?」
 新社長の口調はあの頃からまったく変わっていない。見た見た、と簡単にぼくは返していく。長い時が過ぎても不変であり普遍であるセレッソ大阪らしいカンバセーションがそこにはあった。若かりし日々に戻った気がしてぼくは嬉しさを隠せなかった。
 出会いから二二年。ふたりとも二二の年輪を心にも体にも刻んだ。改めて時間の速さに驚かされる。
 過去の記憶が蘇ったくらいでいいシーズンを迎えられるわけではない。それでもうまくいきそうな気持ちが自分のなかで高まってきている。
 なにより自身のサポーター・アイデンティティと向き合うことができた。ここまで来た甲斐があったのだ。宮崎の青空の下で、少しだけ自分を称えたいと思った。

 しかしながら当の二〇一五年シーズンは、前年よりちょっとだけマシと感じる程度で終わった。
 一旦J2に降格するとなかなか上には戻れない、なんて巷でそんな言葉も囁かれ続けている。いくらぼくが愛するセレッソ大阪だったとしても、そんな底なし沼にはまっている可能性を充分に感じさせた。
 一〇得点を挙げたディエゴ・フォルランはスーパースターの宿命ともいうべき儀式を執りおこなってシーズン途中で去ってしまった。結局ぼくは見送りにもいけなかったので宮崎でゴールデンブーツを見たのが最後だった。
 その前にはカカウが離脱したし、もっと言えばシーズンがはじまる前には杉本健勇や南野拓実もクラブを去っていた。ぼくの手帳のメモ書きは愚痴が多くなった一年でもあった。
 サポーターと違い、選手は気楽だなと思った時期がぼくにだってある。サポーターという生き物は、相手を一度でも愛してしまったなら、そこらへんのつまらない男のように二度と浮気などできない。
 だけど選手は、自分の人生のためならその感情を裏返すことだってできてしまう(まあ、情事に至るか至らないかは本人次第なのだろうけれど、このあたりは複雑なのでこの程度に抑えておく)。
 クラブ愛という踏み絵をサポーターが選手の足元に投げつけて試すなんて行為をすることはない(古橋残留Tシャツはそれに近かったのかもしれないからなんとも言えない。だけど彼とはしっかりと話し合った。お互いの思いをぶつけ合った。心からセレッソ大阪を愛していると強く感じさせてくれる選手だった)。
 それでも、だ。
 たとえアカデミー選手であってもクラブを離れてしまうことはファクトとして存在している。話はずれにずれているけれど、要するに、J2に降格するたびにクラブへの愛の重さを考えさせられてしまうのだ。
 そんな三度目のJ2である二〇一五年というシーズンは言語化するのがやや困難だった。宮崎にぼくが行ったことも、そして最終戦にぼくがいることも含めて、常時なにかがおかしい一年になった。
「どんなタイミングやねん」と多くのサポーターが叫んだ最後の最後での監督交代が極めつけだ。まあ二〇年以上このクラブと付き合い続けているぼくからしたら、なんの驚きもなかったのは言うまでもない。
 混乱のさなかでおこなわれたプレーオフ ― 順位が下のクラブだったにもかかわらずホームゲーム扱いにしてもらって、これだけのお膳立てしてもらった試合でもアビスパ福岡には勝ち切れなかった。その結果、一年での昇格を見事に逃した。
 こういう試合を掴み取れない伝統だけは忠実に守り続けている。三万人弱のほぼ大半を占めるセレッソ大阪サポーターのクラブ愛がどれだけあろうとも長居スタジアムの女神からは相当嫌われているらしい。
 神に見初められるためのアイデンティティとはいったいなんなのか。その奥深さはいかほどなのか。他人事のように思い描くたびに、スタンドに舞う風が自己存在証明ごとどこかへと吹き飛ばしていった。
 二〇〇一年の降格時にはたった一年で。二〇〇六年のときは三年を費やしたJ1への道のり。この試合を見る限りだと、さらに長い時間を要するだろう。
 ピッチ上にうなだれる選手と冷め気味のサポーターのコントラストを感じる。満席に近い長居スタジアムのゴール裏上段で、ぼくはひとつだけため息をついた。

 J3リーグでスタートするセレッソ大阪U―23の船出にほのかな期待をしつつも、スタジアム中に響き渡る監督の大きな声が来年も続くのか。そう考えたら、この先に起こる出来事すらもある程度の想像ができた。
 不安定なまま迎えた二〇一六年シーズン。セレッソ大阪とぼくは、くねくねと回り道をしながら山頂を目指して登っていった。
 その結果として、二シーズンを費やすだけでJ1へと復帰することができた。クラブの成績とサッカーショップ蹴球堂の売上が見事なまでに比例することを嫌というほど思い知らされた。そんな二年でもあった。
 二年連続のJ1昇格プレーオフ決勝という究極の罰ゲームは、連帯感をクラブ内にもたらしてくれたようだ。両試合を直に見て、ぼく自身もこの明暗を肌に強く感じた。
 東京での仕事が再び苛烈を極めはじめていたぼくは、わずか数日大阪に行く予定を作るのも一苦労だった。特に二〇一六年のファイナルは三日間で東京、香港、東京、大阪、東京と移動する過酷さ。神がぼくに授けた試練だと言っていい。
 年齢を重ねたせいか無理なアクションは難しくなっていた。だからこそ逆に無茶をたくさんするようになっている。無理はするな無茶をしろ、と一〇代ラストの夏に先輩からいただいた言葉をぼくはなぜか思い出した。
 まあ簡単に言ってしまえば、若い頃は腹を満たすために食べ放題で死ぬほど肉を食っていたのに、大人になったら高くても希少で美味しいところを少々、なんてウンチクをたれているようなものだ。
 腹が減ったらお腹が鳴る。これは必然だ。
 連帯感を手に入れたクラブは強くなる。たかが二年という空腹期間だったのかもしれないけれど、ぼくはタイトルの匂いが鼻孔をくすぐる感触を身をもって感じていた。
 真の大阪のサッカークラブになるための準備が着々と整いはじめた。東京に来てからデビューした花粉症さえも吹き飛ばすほどの匂い。嗅ぎ分ける運命の日が刻一刻と近づいていた。

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