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第二二節 ユズリハ

 様々な思いが交錯しながらも、それでも最終的にぼくは東京に住処を変える決意をした。花の都に憧れを抱いてなかったかというと嘘になる。人との出会いの数や経済規模なんかで考えてみても、間違いなく日本第二の都市 ― と自負している ― 大阪との比ではない。
 大阪市の西のほう。大正区で生を受けて四〇年近くをともに過ごしたこの街はいつまでもぼくのホームである。アミーゴ、そして多くのセレッソ大阪サポーターとときを同じくする機会が極端に少なくなるだろう。それがとてつもなく寂しかった。
 まあ、クラブを取り巻く環境を見ていたらそれほど悠長なことを言ってられないのも重々わかっている。社長が代わって以来、信じられないことばかりがぼくの周辺では起こっていた。
 そんな信用も信頼も託せないなか、再び悲しみがやってきた。我らのセレッソ大阪が史上二度目のJ2降格という憂き目に遭ったのだ(では、みなさん、大丈夫ですか?ジェットコースタークラブのはじまりはじまり、ですよ)。
 降格が決まった直後の移籍が、Jリーグ史上最高の売り市場だったのではなかろうか。
 西澤明訓が地元の清水エスパルスへと行き、ブルーノ・クワドロスが北の大地である札幌へと行き、大久保嘉人がなぜかヴィッセル神戸へと行き、関東近辺に戻りたい(であろう)名波浩が東京ヴェルディへと行ってしまった。
 所属する選手にクラブ愛を求めること。この行為が正しいかどうか正直なところぼくにはわからない。時々、そこまで強いるのは非常に酷であると思ったりもする。それでも、それはそれでなんとなく寂しい気持ちにもなる。
 東京への片道切符と同様、さざなみにされるがままの小舟のようなぼくの心は、船酔いでは済まないくらい不定期に揺れ動いていた。

 それに引き換え、セレッソ大阪というプロサッカークラブを心の底から愛する選手たちがアカデミーには多くなっている。これこそトップチームとアカデミーとのふたつの選択肢が生まれる可能性を意味していた。
 気になる相手がふたりいて、どちらを選択するべきか思い悩むときのような(あだち充の”みゆき”のような)セレッソ・アイデンティティのギャップに、感情の置きどころが難しくなっているサポーターが大量に発生したのも事実だ。
「クラブを強くしたいのならサポーターがアカデミーを見てやらないと」
 その昔、アカデミー監督にこっぴどく叱られたことへの宣戦布告なのか。今まさに逆転現象が起きてしまっている。どうにもそれがおかしすぎて、ぼくは腹を抱えるくらい笑いが止まらなくなった。
 愛は心身を鍛えて強くするエネルギーだ。現にそのおかげでU―一五やU―一八にはとんでもなくスーパーな選手が増えている。Jリーグを見るよりもアカデミーの公式戦を見ているほうが面白いと思ったりするサポーターが数多くいるのは不思議でもなんでもなかった。
 心配事はそこではない。現実問題としてトップチームのサポーターが心なしか減っているのを、ぼくの肌は感じはじめていた。
 ただ、これはけっして、クラブを見限った、という人ばかりではない。誰しもが一年にひとつずつ歳を重ねていく、なんてことも理由のひとつになり得ている。大人になればなるほど、生活環境も徐々に突然に変わっていってしまうものなのだ(実際のところぼくもそうだ)。
 考えてみれば誰ひとりとして責めることなんてできやしない。人生、ライフが落ち着く頃にはきっとチームは強くなっていて、そのときにまた戻ってこればいい、という底の浅い願望しかぼくは見つけることができなかった。
 大人の階段を登り切れず、いまだ子供の心だけを持ち続けている ― どうもぼくは、人とは物事を捉える機能が若干違っているみたいだ。
 若い頃、仕事中にパンを食べていたら上司に「何を食べているんだ」と言われたので「チーム蒸しパンです」と答えてしまい、ここでもこっぴどく叱られたことがある。
 正直、今も感覚は変わっていないし、なぜ叱られたのか今もってわかっていない。そして今日もそれは繰り返されている ― ぼくでさえもお兄さんからおっさんになり、おじさんになって、そしていつしかおじいさんになっていくだろう。
 夢は現状へと包含されていき、いつの日か、夢を見ていたことさえ見事に忘却の彼方へと消え去ってしまうものなのだ。それでも、だ。

 ぼくが東京に籍を置いていたとしても世界は回っている。多くのアミーゴが力を合わせて支えてくれていたおかげでサッカーショップ蹴球堂は常に回り続けている。
 この小さな店舗の登記こそ確かにぼく自身だけど、実質的に考えてみれば、セレッソ大阪サポーター全員の集いのスペースなのだとも言える。
 オープン当初にはなにかとギクシャクしたセレッソ大阪との関係も元社長の計らいもあって日を増すごとに良くなっていた(まあ、本当にあった怖い話なんてものは本当にあるから怖いのだ。最後通牒が送りつけられてくる恐怖は受けた者にしか絶対にわからない)。
 やはり、何事においてもすべて人と人の交わりからはじまっていく(また逆もしかりだけど)。交わりがなくなればそこにはもう争いしか残らない。この一〇数年で多くを学んだ末の結論である。
 地下鉄長居駅の直上にサッカーショップ蹴球堂をオープンさせた二〇〇六年。前述のとおりセレッソ大阪は二度目のJ2降格の憂き目にあった。それだから「お前たちのせいで降格した」「店を閉めろ」「セレッソ大阪から出ていけ」といった謂れのない誹謗中傷を受けたりもした。
 たしかに、インターネット掲示板を作ったときにも同じようなイザコザはあった。矢面に立つ者としての使命でもあるのだろうと、変わらずぼくは真摯に受け止めた。ブログをはじめたときだって同様だ。
 漫才の張り手ツッコミにはもう慣れっ子になっていた(やはりプロは凄い。仕事とはいえあんだけ頭を叩かれたらぼくなら怒り狂っていることだろう)。
 豆腐のようなメンタルが麻婆とごちゃ混ぜにされていく。トロトロになってご飯の上にかけられる。麻婆豆腐と白ごはんを一緒に食べるべきか否か。なぜだか色んなものをセットで考えることが多くなっていた。
 森島寛晃が原因不明の首痛を抱え、一年でJ1に戻らないといけないのにスタートダッシュに失敗し、挙句の果てにはゼネラルマネージャー以下総入れ替えという、もはや元の形状すら記憶から消え去ってしまっている状態に陥っている。
 暗黒世界の住人に成り下がったセレッソ大阪に幻滅する自分がいたのは否めない。まあ混沌は今の時代にはじまったわけでもないのだけど、あの頃よりもさらに磨きがかかっている気がする。
 このクラブはいったいどこへ向かっているのか。この先どうなっていくのか。サポーターはどう行動すればいいのか。不安だけがとにかく独り歩きをしていた。

 一昨年前の優勝争いから一転。失意のどん底のようなシーズンを過ごしているセレッソ大阪。カラスの行水とも呼べるわずかな時間でのスタジアム観戦、いまだ止むことのない悪評の雨あられ、それらと一緒に上から降りそそぐ良質な情報だけでぼくが生きているといっても過言ではなかった。
 最小単位である一年でのJ1復帰が露と消えたとき、来シーズンもこのカテゴリーで戦うのかという諦めにも似た言葉が枯れ葉となり、足元に溜まっていくのをぼくは感じた。
 一枚一枚それらを拾っていく。かすれて読めそうもない文字。殴り書かれた罵詈雑言。それから主力選手の残留を願うサポーターの沈痛な思いの丈がそこにはちらばっていた。
 悲しみのしずくを振り切るように思い立ってふと見あげてみる。セレッソ大阪という樹木には今にも落下しそうな薄茶色の葉がまだぶら下がっている。よく目を凝らしてみると、その脇に二枚の新緑がそっとついているのが見えた。
 香川真司と柿谷曜一朗。
 まだ幼い。幼いながらも月桂樹のように大きく手を広げている小さな小さな葉っぱが、その場所を、時代を取って代わろうとしているようにぼくには思えた。
 ユズリハ。
 少し遅い春。
 サポーターも。選手たちも。
 新葉に入れ替わる日がやってきたのだろう。
 ユズリハ。
 なんとこの樹種は防火の機能も有している。いわゆる防火樹でもあるのだ。待ちに待った桜の季節が近いことをぼくは悟りはじめていた。個人的な制約はともかく、二人の若者とサッカーショップ蹴球堂だけがぼくにとっての心の拠りどころになっていく気がした。
 そうは言っても、未来を描いてJ2を戦うことは、心身を鍛えるという言葉と同意語だ。まるで教場のように、試合の勝ち負けにかかわらずスタジアムの内外では揉めごとが耐えなかった。ときには暴力沙汰にも発展して人様に迷惑をおかけするなんて不祥事も増えた。
 心が荒んでいきそうだったけれど、それでも光は必ずやぼくらを照らしてくれると信じるほかなかった。
 正しかった。セレッソ大阪サポーターのなかにも有能な若手がどんどんと出現しはじめている。歴史とは、踏襲することなく次々と道を切り開いていくものなのだとぼくは思った。親子亀のように自分の背中に誰かを乗せて少しずつでも前に進んでいく。
 歴史とはそういうものなのだ。親よりも子は先に行く。子の成長を親が閉ざしてはいけない。これまで積み重ねられてきた落ち葉の上にはまた、枯れかけの葉っぱが一枚、ひらひらと風に吹かれて落下していった。
 ユズリハ。
 それが代々続く継承だ。ぼくはその礎となれているだろうか。それほど広くもない自分の背に乗ってくれる誰かがいるのだろうか。浅草にほど近い隅田川沿いを歩きながら、何度もぼくは自問自答を繰り返した。

 貧乏性な性格のせいなのか、なんでもかんでも残してしまっている。東京で心置きなく勝負するためには、捨てなければならないことも多かった。
 何十年もの間に貯めに貯めたサッカーマガジン。まとめて作った在庫Tシャツやジャガードマフラー。世界中のピンバッジや小物たち。それらに加えてありとあらゆる生活必需品が跋扈している。
 要するに家がモノで溢れていた。引越とは自分との戦いであり、その戦争にぼくが勝利したのだと心から言える日は来るのだろうか。東京と大阪の二重生活が少しずつぼくの身体を蝕んでいく。だけど心まで臆病にはさせてはいけない。
 江戸の下町に住みたいという衝動に駆られ、墨田区本所に居を構えてからもうかなり経っている(知ってか知らずか、この本所という街は幕末の名所がいたるところに存在する。勝海舟、新選組、新徴組。昔ながらの街並みに魂が震えてしまった)。
 住みはじめてほどなく、ほんの一キロ先の距離に東京スカイツリーが建つことを知らされた。とにかく「聞いてないよー」とぼくは三人組コメディアンの一発ギャグをかましたい気分になった。
 大阪を出る際には相当なくらい断捨離をしたつもり ― になっていただけかもしれないけど ― だった。それでもいまだに物質的な荷物と心理的な荷物がぼくを混沌の世界へ誘っている。当分の間は花の都での困難が続く予感がした。

 だけど、こんなものはまだ序の口だったのだ。
 これから降り掛かってくる災難に、ぼくはまだ気づいていなかった。我らのホーム、長居スタジアムの存在意義、アイデンティティすら危うくなるかようなあの事件の前では、積み重なるダンボールの標高など単なる砂の城のようなものだった。

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