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第一二節 国立の夜

 生まれ育った大阪市大正区からJR鶴ケ丘駅周辺へと引っ越して、はや半年以上が経過している。大正区には大正区の、阿倍野区には阿倍野区の存在意義が少なからずあることにも気づきはじめた(実際には阿倍野区といっても長居公園がある東住吉区からすぐの場所なのだけど)。
 尊厳を保つことが重要だ。土地としての思いというのだろうか。けっして他が土足で踏み込んではならないアイデンティティみたいなものも確かに存在している。
 同じ大阪市内の区であったとしてもこれだけは譲れないのだから、その領域を飛び越えてこようものなら、もう”生き死に”の話に発展しかねない。
 そんな中で生きてきた八ヶ月、セレッソ大阪を地肌で感じられる距離感が心地よい。聖地・長居第二陸上競技場まで自転車でわずか一〇分。好きなときに好きなだけ、気が済むまでホームを感じることができるのだ(試合がない日の長居公園はランナーとブルーシートで溢れかえる)。
 だけど、まだまだサッカーの街と呼ぶには程遠い。盛りあがりを見せるのはどうしても試合当日のみ。公園内でいつでもグッズが買える常設のショップなんかも存在しない。ホームタウンというよりは「たまたまそこにセレッソ大阪がある」というふうに見えなくもない。
 この街でなにかをしなければならない、という使命感が日が経つごとに増えていた。まあ、何ひとつ思い浮かぶこともなく、毎週アミーゴと会うたび宿題を忘れた少年みたいに頭をかいて「次は忘れないように」と約束しているだけの日々だったわけだけど。

 ありとあらゆる大阪の河川が自然に沿って流れるのと同様に、セレッソライフという年月も濁濁と時の水路を通りすぎていく。漠然とした不安だけが募ってしまう。
 そんな不安の種は、この長居という街だけでは無く、クラブの内部でも芽をつけはじめている。
 Jリーグのトップレベルでは思うように戦うことができないもどかしさが充満していた(マルキーニョスやトニーニョ、森島寛晃といった一部のずば抜けた選手たちはなんとかなるのだけど、国内最高峰のJリーグで戦うにはやはり選手もサポーターもまだまだ修行が必要だった)。
 打つべきときに手を打たないといつか逆流してしまう。やがて恐ろしい出来事が待っている。そう思うと無性に苛立ちを隠せなくなり、それはサッカー関係だけでなく生活圏へも影響していった。
 勝敗は兵家の常、勝つときもあれば負けるときもある。問題はひとつひとつのゲームで戦えているかどうかだ(同じパターンで何点取られたら気が済むのかと思うくらいの試合や、その逆のケースもあったりした。とにかく気持ちと同様に浮き沈みが強烈すぎるのは身体によろしくない)。
 Jリーグ初年度の勝ち点なんてものにそれほど意味はないとぼくは思っていた。ただ、Jリーグという舞台に立ったことでメディアもセレッソ大阪を大きく取りあげていたし、昨年とは比べようのないくらい多くのサポーターがスタジアムへと集まってきていた。
 集まれば集まるほど川の支流は増えていき、そのたびに惨事が起こる可能性は格段に高まっていく。サポーター同士だけではなく、それはクラブとの関係も同じだ。川の流れを人為的に変えたなら、それこそ、その先で何が起こるのかなんて一目瞭然だ。
 双方の意思がすれ違うたび、いつか大きな問題に発展するんだろうな、という半ば諦め感があったのも正直なところだった。

 そんな、秋も深まりかけていた頃、国立霞ヶ丘競技場で行れる鹿島アントラーズとの一戦にFIFAの視察団が来るという情報を入手した。
 キャンペーンのおかげか当日の観客は四万人を超えるのではないかという噂だった(天皇杯でも四万人超えの試合を経験していたし特に気にすることでもなかった)。
 一九九五年は、Jリーグの盛りあがりと歩調を合わせるようにワールドカップ自国開催への機運が高まっていた年でもあった。日本全体が大きく動いている。
 そういえばドーハの悲劇、アメリカワールドカップ予選からもう二年が経っている。出場経験すらない日本は、Jリーグと日本サッカー協会が一致団結しながら、母国でのワールドカップ開催に尽力している。それでもぼくはその姿を斜に構えて見ていた。
 ワールドカップはもちろん大事だけど、Jリーグ初年度のセレッソ大阪の試合のほうがぼくにとってはもっと大事だ。
 たとえ成績自体が可もなく不可もなしな状況でもあったとしても、いい試合をして少しでも勝ち点を積み重ねていきたい気持ちが大きかった。新たな選手発掘も含め来季以降にも活かしていきたい。まあそんなところだった。
 そういう意味で、このアウェイゲームも含めた残り七試合を第一に考えていた。だからぼくは「ふーんFIFA来るんやー」程度にしかこの物事を捉えていなかった。
 ところがどっこい。これから先のJリーグでもなかなか起こり得ないような出来事が、この国立競技場で発生しようとしていた。

 その話を聞いた瞬間ぼくは自分の耳を疑った。セレッソ大阪スタッフに対するぼくの第一声は「なんで?どこでどうなったらこうなるの?」だった。
 これは公式戦だよね?プレシーズンマッチではないよね?そんな夢でも見ているかのような思いだけが国立競技場の一二番ゲート前に漂っていた。
 何が起こったらセレッソ大阪のリーグ戦、ましてやゴール裏で他のクラブのサポーターが応援をすることになるのだろうか。
 セレッソ大阪サポーターがそれを求めていたのなら仕方がない(求めてはいない)けど、みずからの意思が及ばない流れに、まったくもって理解が追いついていなかった。
 セレッソ大阪サポーターの人数に物足りなさを感じていたのだろうか。どこかの部屋で話し合われたのだろうか。ワールドカップ誘致に向けてお偉いさんが関与しているのだろうか。ぼんやりとすらもぼくには見えてこなかった(三連休の真ん中とはいえはるばる大阪から足を運ぶサポーターも少なかったし、それ以上に鹿島と比べてサポーターの人数で勝負しようだとか冗談でも言えない)。
「なんとかしてこの試合でFIFAにアピールをしたいらしいんです。どうにか受け入れてくれませんか」
 スタッフの声もうわずっている。
「本当にそれでいいの?ワールドカップとかなんかは知らんけど、これ、うちの試合ですよね、わかってます?」ぼくは言葉をかぶせるようにいった。
「もう決定事項なんですよ」
 決定事項。
 この文言でぼくの苛立ちは頂点に達した。何事も手のひらで動かせる権力へのものか。自力で国立競技場のスタンドを埋められるパワーを持ち合わせていない自分たちへのものか。怒りの矛先すらブレが共存している。
 現時点でのセレッソ大阪というクラブの実力の無さをぼくは呪いたくなる。呪うというよりもなんだか恥ずかしい思いでいっぱいになってしまった。
 続々と集まる他クラブのサポーター。一年半以上積み上げてきた努力という努力が水の泡になったような気持ち。応援を考える余裕すらなくなっていく。
 ともかく、このような状況に陥ったのはセレッソ大阪サポーターにも責任の一端がある。巨大すぎる力に抗う術はなかった、少なくとも今のぼくらは無力だった。
 大好きなセレッソ大阪なのだから、どんなことがあろうとも気持ちを込めて応援する。けど、早く時間が経過してとっとと終わってくれないだろうかと、ぼくはひたすら頭の中で考え続けていた。
 こういうときに限って延長戦まで戦い、PKにまで突入してしまう。そして、なぜかこういう試合に勝利してしまうのがセレッソ大阪だということもぼくはすっかり忘れていた。
 まるでオールスターゲームのような扱い。日本サッカー協会やJリーグから役立たずというレッテルを貼られたのだろう。そんなぼくらにとっての一試合が終わった。
 色とりどりのユニフォームやTシャツが入り混じったゴール裏。次々と生まれる応援歌(表現が正しいかどうかはさておき、なんらかの効果を生み出したとは言えるのかもしれない)。
 あざ笑うかのように国立競技場の一二番ゲートが口を開けてぼくを待っている。妙に腹立たしくなり靴音を鳴らす。そんな悲痛なストンピングも、四万八千人の発する歓声に見事にかき消された。
 クラブのアイデンティティとはいったいなのなのだろうか。たかがワールドカップとは言わない。言わないけど、そのクラブにとっての応援の重みなんてものはどこにいってしまったのだろうか。
 はるばる五〇〇キロ離れた大阪の地からきた新参クラブのサポーターにとって、改めて考える機会になったという声もあるだろう。
 だけどそれが正しい結論だと納得するわけにはいかなかった。しかしながらこの国立競技場の空気に迎合することしか許されてはいなかった。それが真実だ。
 図らずも、自分たちがこの試合を引き当ててしまった運の悪さみたいなものが残る。それはイコール、Jリーグ内での序列ってものを意味していた。アミーゴとしみじみ話しながら短い階段へと向かう。一二番ゲートに我が身が食い尽くされることを覚悟しながら。
 みずからが望んで他サポーターを引き入れるのならまだしも、こんなにも惨めな試合は、せめて今後のJリーグで起こらないでほしい。ぼくは誰にともなく祈りを捧げた。
 Jリーグクラブサポーター同士の交流を咎めるつもりなど毛頭ない。それでも、セレッソ大阪にとっての真剣勝負をワールドカップで覆い尽くされたこの事件は、いくら時が経ったとしても後々まで脳みその片隅に持ち続けていくことになるだろうな。ぼくはそう思った。
 結局、Jリーグ初年度の戦いはファーストステージ九位セカンドステージ一〇位という、なんと表現していいのかわからない順位で終わった。
 秋から冬へと変わろうとする季節(何を隠そう暑がりだ)でさえ、途方に暮れるぼくを慰めてはくれなかった。
 元旦の天皇杯決勝ではじまり霜月のあの試合でぼくの一九九五年は終わりを告げていたのだ。国立ではじまり、国立で終わる。いい意味などひとつもない。

 通年開催(アトランタオリンピックの関係もあって)となった二年目のJリーグも、カウンター一辺倒の戦い方ではとてもじゃないけど勝ち負けにはならなかった。Jリーグの舞台にぼくらを連れてきてくれたパウロ・エミリオがシーズン途中で監督を退任した。
 クラブの低迷の理由と同様に、セレッソ大阪サポーターの問題は昨年以上に増えていった。現実と理想の狭間に全員が堕ちていく。選手やスタッフとの関係もより一層ギクシャクしはじめている。
 急激に増えれば増えるほど支流は増え、やがて事故は起こる。サポーター同士の考え方や方向性の違いで悩んでしまう悶々とする日々が続いた。いつでも誰でも真剣にセレッソ大阪について議論できる場所が必要だった。
 セレッソ大阪にモノ申す、という名のシンプルな掲示板をぼくは立ちあげた。ゴール裏サポーターの切実なる思いを伝えながらも活発な意見交換を期待していた。
 とはいえ、なかなか思うようにことは進まず、計画も道半ばで頓挫することになった。とにかく試行錯誤の毎日だった。
 言葉はときとして暴力を生み出す。言葉は鋭利な凶器となってぼくらの心身の至るところを切り刻んでいく。それでもなんとか勇気を奮い立たせ、言葉を駆使して、セレッソ大阪のためになるのならばと身を削りながら紡ぎ続けていった。
 セレッソ・アイデンティティ、そしてサポーター・アイデンティティを保つためには、少なくともこの時はこれしか方法しか考えつかなかった。気持ちを整えようと歩く長居公園の多くの木々には、歪な自己犠牲精神の葉だけがぶら下がっているように思えた。

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