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今にしあわせを感じる心と、未来のしあわせを願う心を両手に抱えて

そのおもちゃ屋に入って、コレだ!と思うおもちゃを手にしながら、わたしはしばらくの間そこに立ち尽くしていた。「ほんとうにコレを買っていいの?」と、自分に問い詰めながら。

クリスマスがあって、お正月があって。この時期はなにかと子どもたちにプレゼントを贈る季節だけれど。「果たしてそれはほんとうに正しいことなのだろうか?」「こんなに簡単にホイホイと新しいモノを与えていいのだろうか?」という思いが、わたしの頭のなかを駆け巡っていた。

わが家は息子は6才、娘は3才の4人家族。テレビやその他のメディア影響がほとんどなく、「このおもちゃがほしい」という感覚を持ち合わせていなかったごく小さい頃は、親の感覚で良さそうなモノをメルカリで買ったり、ジィジバァバからのプレゼントをそのままクリスマスプレゼントとしてあげていたりしたけれど。成長して、徐々にメディアの影響を受けるようになってからは、ダイレクトに「クリスマスはあのキャラクターのあのおもちゃがいい!」「誕生日はここのおもちゃ屋のあのコーナーにあるおもちゃがほしい!」と、具体的な内容としてリクエストが出るようになってきて。

「そうか。そう言うならば、経済的に許す範囲で、本人が欲しいモノをプレゼントしてあげよう」「誕生日やクリスマスくらい、よろこばせてあげよう」という気持ちが大きくなって、いただきものやメルカリではなく、新しいおもちゃを買ってあげるようになってきたのだけど。

そのおもちゃ屋で、本人がほしいと言っていたおもちゃを見つけて、それを手に取りながらも、わたしはどうしてもすぐにそれを持ってレジに進むことができずにいた。経済的問題はもちろんある。けれどそれ以上に大きな黒い感情がわたしのなかに渦巻いていた。新しいおもちゃを買う、ということそのものに、どうしても抵抗があったのだ。

「あぁそうか。わたしはずっと、多くを望むことは恥ずかしいことで、物欲は罪だと思っていたのだな」ということに、そこでフと思い当たった。

無宗教国家とはいえ、日本という国のベースはやはり仏教や武士道、農民的暮らしからその風土ができている。それが故に、何事も一歩下がること、苦労すること、続けること、多くを求めないこと、足るを知ることが美徳とされ、その反対に人より目立つこと、欲を出すこと、苦労を嫌い楽をすることが忌み嫌われる空気感があるのは、今でも変わっていない。

わたしの場合そこにきて、幼い頃によく見たジブリ映画がさらに強く影響しているように思っている。発展はよくないこと、物欲こそ敵、人間の欲がここまで地球を汚したのだ、牧歌的暮らしこそ正義。わたしがおおくのジブリ映画から受け取ったメッセージは、ざっくりとこういう種類のことだ。

大人になってあらてめて見れば、よりおおくの複雑なメッセージ性があることに気づいたりもしたけれど、感覚でものを捉える子ども時代に見た数々のジブリ映画から受け取ったメッセージというのは、それだけに影響力も強い。

それは元はといえばそれを好んで見せていたわたしの両親からの影響であり、同時にわたし自身のなかにも本質的にそういう感覚が備わっていたからこそ、そこにそんなにも感動し、影響を受けたのだろう。

多くを求めること、理想を追うこと、期待をすることは、ともすれば人間関係に支障をきたし、地球を汚すことにつながる。わたしはそんな人間にはなりたくないし、この先の未来にできるだけキレイな地球を残しておきたい、自分の子どもたちに後ろめたさを感じるような生き方はしたくない、という感情は、少なからずおおくの人が持っているものなのではないだろうか。

それなのに、それと反比例するように便利さや快適さを求め、新しいモノを手に入れることに快楽を感じ、その結果地球に新たなゴミを増やすことに貢献している自分に対して、罪悪感を持っていたのだ。「今に満足できる自分にならなければいけない。わたしがおおくを求めることは誰もしあわせにしないどころか、人や地球を傷つけることにつながってしまう。だから、抑えなきゃ。」と。


そんなことをモヤモヤと考えていたときにフと読んだ、さめじまみおさんのnoteがとても心に刺さった。

しあわせを望まないひとはいないと思うけど、どこかでしあわせを恐れていることもまたたしかなことだ。そして、しあわせであることに罪悪感を感じることもあれば、しあわせをのぞんでも叶わないことが怖くて、自ら遠ざけたりするひともいるだろう。

多くを望みすぎてはいけない、とわたしたちは思いがちだ。
足るを知る、とか身の丈に合った、とか出る杭は打たれる、とかそういういましめるような慣用句もいっぱいある。

大変な世の中で、大変なひとがいっぱいいて、人類全員がひとりも悲しまない日はきっとおとずれないから。だからなんだかしあわせでいてはいけないような気がする。ぱあっと笑っているよりも、きゅっと深刻そうな顔をしていたほうが世間ウケがいい。

それでも、そういうのはみんなわかった上で、
わたしたちみんな、これからもっとしあわせになりましょうね。

ーnoteより一部引用/太字編集、古川ー


『幸せになる勇気』というアドラー心理学の本が数年前に流行ったときも、それ以上にベストセラーになった『嫌われる勇気』よりも、この「しあわせを恐れる」という言葉にビリビリと電流が走るような気持ちになった。

多くを望んではいけない、足るを知らなければいけない、あるものに目を向けて、そこに満足を見いださなければいけない、と、どこかでずっと無意識に思い続けてきた。それは強迫的観念に近いほどに。そうでなければ、知らぬうちにどこかで誰かを搾取して、傷つけてしまうから、と。

「しあわせだなあ」と満ち足りて感じる片方の車輪も、「まだまだこんなもんじゃないぞ〜」とわくわくしながら未知へと乗り出すもう片方の車輪も、どっちも回っていくということ。そんなことをやっていきたい。

みおさんのnoteでは、さらにそう続く。

あぁそうか。今にしあわせを感じる心と、未来のしあわせを願う心、どちらか一方ではなく、その両方を抱えていっていいんだ。むしろその両輪があって初めて、物事のバランスが取れるのかもしれない。

子どもたちの喜ぶ顔を想像しながら新しいおもちゃをプレゼントすることは、なにも悪いことじゃない。わたしがこの先の未来によりおおくのしあわせを願うことも、なにも悪いことじゃない。そう信じるしかできないけれど。

人は誰だって、誰もなにも傷つけずに生きることはできないから。その痛みも抱えながら、それでもどこまでも、今のしあわせを感じながら未来のしあわせを追い求めていこう。そしてどこまでも欲張りに生きていこう。

結局買ったクリスマスプレゼントも、正月帰省でジィジバァバにもらったたくさんの新品のおもちゃや服も、あたたかい思い出として子どもたちの心のアルバムの1ページになるから。たくさんのお土産を抱えて、これからスイートホームに帰ります。




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