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#44 病気不安と共に生きる 

私の病気不安は常にあるようです。
その時々によって緩和したり悪化したり。
いずれにせよ、ずーっと持続している。そして虎視眈々と狙っている。
これってウイルスもそうですよね。
自然の摂理なのでしょうか。

なにかに熱中/没頭していると不安はマスキングされます。
だから私は不安が来たら作業をします。今はnoteを書くのがお気に入りです。以前、病気不安に悩まされ、ひたすら外を歩いたこともありました。
身体的な調子がいいときもまた、不安は引っ込んでいるようです。
今出ていっても勝てない、と悟っているかのようです。賢いやつですね。

病気不安の根底にあるものは何なのでしょうか。
幸か不幸か、時間は沢山ありますから考えてみます。

生への執着?

病気は死につながります。事故が無ければ、動物は病で死にますよね。
医療技術が進歩して治せる病気が増えても、本能はそれを恐れているのだと思います。理屈じゃないんです。それは太古の記憶です。
私は動物的なのかもしれません。武士道的な死の覚悟はとても人間的なものだと感じます。

心配してほしい?

もしかして承認欲求でしょうか。ぼくはここにいるよ!わたしは転んじゃったよ!というような。
コミュニケーションの希求です。しかも弱者として優しく扱ってほしいという、子供っぽいわがまま付きです。ファザコン/マザコンを拗らせたようなところがあるのでしょうか。私は愛を求めるタイプの子供ではなかったと思うのですが、良く解りませんね。
弱者に鞭打つ者はいません。つまり、攻撃されたくないのでしょう。打たれ弱いがために、弱者を演じて攻撃を回避したいのでしょうか。でも、そんなことしていたら自分がどんどん不利になっていきますよね。人間くさい損得勘定ができていないんです。ですからこれも、やはり古い脳の働きなのではないかと思うのです。

問題の先送り?

喫緊の問題から目を背けるために不安を作り出し、増強する。見たくない現実に蓋をするために不安を作り出している可能性。
例えば、私の場合は就職であるとか、自立であるとか、そういった環境の変化を拒絶している可能性が考えられます。あとは、年齢を重ねれば社会的な立場も変わってきますから、そういった物事を受け入れられないといったことがあるのかもしれません。
そういえば、私の病気不安は思春期に始まったのでした。
思春期は、大きな変化の時期です。子供から大人への移行期であり、社会的役割・責任が強くなり、それに伴うストレスは多いです。
更に私の場合はいじめたり、逆にいじめられたりもしましたから、人間関係でとても悩んでいました。どのように振る舞えば良いのかが解らず混乱していたように思います。私はせっせと働くペルソナ職人でした。
兎にも角にも、容量を超えるほどの余計なストレスがあったように思います。


・・・と、ここまで病気不安の根底にあるものを考えてきました。相変わらずの乱雑さですけれども。
病気不安の厄介なところは、本当に病なのかどうかが自分では判断できない点にあります。
医療はとても専門的ですから、自分の感覚がおかしいのか、それとも本当に器質的な異常があるのか、というった判断が出来ないのです。
だから、病院に行くしかないんですね。
でも、検査して異常なしという現実を知って安心しても、その効果は永続しません。
病気というものは、生きている以上とても身近なものです。
だからどこかで受け入れ、共に生きて行かねばなりません。
相手は自然で、絶対に折れてくれません。だから自分が変わらないと苦しみからは解放されない。
理屈では解っているはずなんです。
あとは、やるだけ。でも、それがなにより難しい。
私は病気不安の根底にあるであろう、この生への執着・生きたいという欲望のエネルギーを上手く変換し、自家発電できるようになることを目指したいものです。
不安を利用するというのも、実にSPECSですね。
あ、SPECSとは、スーパー・プリミティブ・エコシステムのことです。私が適当に考えたインチキ用語です。でも気に入っています。
さて、おふざけはここまでにしましょう。筆を置く時が来たようです。
蛇足のせいで、折角のテーマが台無しになってしまいましたかね。なんでも思いついたことを優先してしまうとこうなってしまいます。

それではまた。


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