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#79 ひきこもりの社会貢献

本日も7時起床。本当は6時30分に起きる予定なのだが、安定して後ろにずれていってしまっている。
なんちゃら経済スライド、みたいなしょうもないシステムだな。どうしたものか。わたしという独立国家の政策は恐ろしく陳腐である。
紙に書いて再度作戦会議をしよう。立派な国家の再建じゃ。箱庭版の世直し。誰でもできる。マイレボリューション。

今日は寝覚めも悪かった。
何が寝覚めを左右するのか全くわからない。
本当にからだはブラックボックスだと思う。
自然そのもの。私の意志・意向などお構いなし。天候のようなものだ。
白状すると、なにをしたら体がどのように反応するのか、など私は殆どわからない。このまま順当にいけば知恵のない老人になってしまう。
私が知っている知識は極々一部なのだと痛感する。
酒を飲んだら酩酊する、人前に出ると体が熱くなったり発汗する、動き過ぎると疲れる、からだが切れると血が出る、
こうしたことは流石に経験的に学んできたものの、わからないことだらけ。

最近、自己検閲が強まっていて、記事を書く際のストレスになっている。
何故だろう。
noteに少し慣れてきたことで、勢いだけで書けなくなってきたのだろうか。
早くも2年目のスランプ状態か?
論理的整合性とか、客観的事実とか、そういったものを考え始めると本当に何も書けなくなる。
そもそも私はそういうのが得意じゃないし、好きでもない。
それはインテリに任せて、私はマイペースに「便所の落書」を書き続けたいと思う。
優雅で、ユーモアがある、そんな便所の落書。
それはさておき、本noteの本分はまさに今書いているような日記のようなものなのだった。折に触れて再確認しようと思う。

上手い文が書きたいという欲も出てきているのかもしれない。
これはnote継続の副作用かもしれない。
でも、出来ないものは出来ないのだし、仕方が無いだろう。
しかも、巧みな文を書くということが本心からやりたいことのようにも思えない。
自分にとって面白いものを書く。
自分のセラピーの場として利用する。
ゴーイングマイウェイ。
それでいいと思うのだが。
欲が湧くのは否定せずに受け入れるとしよう。
しかし、なんだか、快い感じの欲じゃないんだよなぁ。
なにか、「どう評価されるか」みたいな他者基準が入ってきている気がする。
生殺与奪の権を他人に握らせるな、か。
自分で過去に書いた記事の内容を思い出す。ブーメラン。

最近書いた記事の一つに、結構リアクションがあったものがある。
それで「見られている」と変に意識するようになったのかもしれない。
勿論、見てもらえると嬉しいことに違いない。だが、あくまでも私の目的は「利己」であって「自分が書きたいと思うことを書くこと」だ。
誰に見られようが見られまいが、私は書き続ける。
と、いうのが原点。で、それを変える必要性も現時点では感じていない。
だから徹底的に利己を追求する。世のため人のためになどやってたまるものか。
そもそもしがないひきこもり風情がそんなことを考えるのは不遜というもだ。身の程知らずめ。
私は自分のことを考えて動けばいい、そして自立する。まずはそこから。というか、ひきこもりの社会貢献とはそのようなものではないか。それはちいさな貢献ではあるが、最も堅実な善行と言える。
利己が利他になる。
利己と利他の交差点。
これは今後のテーマ。全員が得をすることの実践。
功利主義とかいうものを思い出す。
しかし、思い出されるのは名前のみで、中身が空っぽだ。
高校倫理からやり直す。ベンサム、、、、、




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