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ベトナム歴史秘話:戦時下の大飢饉を救えなかった~幻と消えた「中立輸送船」構想~

ベトナム独立宣言の中にも出てくる1945年のベトナム大飢饉。その犠牲者の推計については諸説あるものの、非常に多くの餓死者数を生んだベトナム史における悲劇です。

主にベトナム北部~中部で起きた出来事ですが、なぜ米の生産が盛んな南部から食料を送ることで被害を防げなかったのでしょうか?

今回は、現地を見た日本人の証言と一次資料を調べていく中でわかった実情、そして歴史の中に埋もれた「餓死者を救えたかもしれない中立輸送船構想」について紹介します。

1. ベトナム大飢饉とは?

1944年の秋、ベトナム北部から中部を襲った台風と洪水により、十月米と呼ばれる秋の収穫が著しく減少し、後述する南部からの輸送ができなかったことで、多くの餓死者を生んだ出来事です。

犠牲者(餓死者)数は、ベトナム独立宣言では200万、南ベトナム政府は100万、戦後の日本の調査では40万と諸説あります。

村落ごとの餓死者

2010年1月25日 私のべトナム史研究 私のべトナム史研究 古田元夫より

上記は1995年に行われた日越共同調査の結果ですが、集落によっては人口の10%弱、多いところでは70%超の餓死者が出ています。

ベトナム飢饉3

なお1945年飢饉の様子は、ベトナム人写真家のVõ An Ninh(1907~2009年)によって撮影され、ベトナム語メディアZingなどで公開されており、画像はそこからの引用です。

またこの飢饉について国立ベトナム歴史博物館のサイトでは、「1945 年のベトナム飢饉 - 歴史的証拠」という本からの引用で以下のような背景も紹介されています。

1930 年代の大恐慌の後、フランスは「とうもろこし」や「じゃがいも」といった食用作物よりも綿、ジュート、その他の工業用作物の栽培を推進させた。また仏印進駐後の日本もさらにそれを推し進めた。その結果、1944年後半の自然災害によって110 万トンの食糧需要に対して 80 ~85 万トンしか収穫できない事態が発生した

また戦時中の昭和20年3月13日、日本国内で発行されていた新聞においても、日本軍による同年3月9日の仏印武力処理(明号作戦)伝える報道、フランス当局に対する日本軍の正統性を伝える証拠としてベトナム大飢饉の餓死者数が報じられていました。

「神戸大学新聞記事文庫」アジア諸国(2期5-101) 1945年(昭和20) 3月13日 大阪朝日新聞より

こうした明瞭な敵性行為のほかに悪辣な敵性宣伝の一例としては、東京地域飢饉がある。 河内の市だけでも一日平均七十名の行倒れがあり、東京地方全般では一日平均一千名以上の餓死者があるが、この原因は昨年十月の未曾有の水害に加え、佛印当局の現状を無視した供出米強制策に祟ってベラボウな闇値が立っていたが、これに対して佛印側は「米の無いのは日本軍が食うからだ」と悪辣な対日責任転嫁宣伝を行って原住民の反日精神を駆り立てる有様であった。
※河内=現在のハノイ。東京地方=ハノイを含む北部ベトナム

当時の情報戦(プロパガンダ)の一環でもあった記事ではあるものの、少なくとも一日平均1000名以上の餓死者が出ていることは、情報を管理する日本軍の許可の元、日本国内でも知られていたことがわかります。

2. 大飢饉を見た日本人の国会証言

では、現地は実際どのような状況であったのか?実はこの大飢饉の時期、ベトナム北部にいた日本人達が戦後、日本の国会で参考人として証言をしています。以下、第33回国会  衆議院  外務委員会  第13号  昭和34年11月21日の議事録より

まずは戦時中、朝日新聞の特派員(記者)という立場でベトナムへ駐在し、国会ではNHK解説員室非常勤嘱託という立場で証言した福永英二氏です。ちなみに先ほど挙げた昭和20年3月13日の記事で現地から情報発信した人物でもあります。

この四五年の、終戦の年の北ベトナムのトンキン地区の飢饉というか、ベトナム側では、これを百万あるいは二百万というような非常な数字を出しておりますが、当時私は、明号作戦の始まります一月前の二月の初めにサイゴンから、ハノイに参りましたが、そのときは、毎日餓死する者がハノイ市だけで平均五人から十人ということを仲間の連中が言っておりました毎朝餓死の死者が出ておりました。それが約四カ月か五カ月続いたと思います。大体この飢饉の原因は、その前の年の暮れからの冷害と水害が最大原因でありまして、そのために農村の人々が食べものをあさりまして都会へみんな集中していったのでありまして、それを救済する手段がなかったのであります。当時の爆撃によりまして、ユエの南の方のツーロンということろからなお南にかけて約七、八十キロにわたって鉄道が破壊されておりますために、南の米を北に持っていくことができませんでした。これはまた海路でも、ジャンクを使いまして北の方へ米の輸送を計画しておりましたけれども、これも潜水艦の襲撃にあい、あるいは空襲にあいまして思うようにならなかったのであります。そういうような関係から、当時北における餓死というものは相当数になっておりました。しかし、その数字は確かでございません。われわれからしますと、おそらく十万前後のものじゃないかというようなことを当時言っておりました。私が見ましたこういう飢餓のり状態は、ハノイにプチイ・ラック、グラン・ラックという湖水がございますが、この湖水の中に現地人が入っておりますから、見ますと、この湖水のモをとっておりまして、みんなそのモを煮て、ある者はそれにネズミなんかを入れて食べておりました。こういうのを見聞したことがございます。 ※ユエ=現在のフエ、ツーロン=現在のダナンのこと。

なおハノイのプチイ・ラック(PETIT LAC)とは、現在のホアンキエム湖(Hồ Hoàn Kiếm)であり、グラン・ラック(GRAND LAC)とは、現在の西湖(Hồ Tây)です。これらの湖にある藻を採って食べることで、飢えをしのいでいたとあります。

ハノイ1935年

1935年のハノイ中心部を描いた古地図より

北部の餓死、飢饉の状態でありますが、これは、原因が、申しました平時においても北は南から米の補給を受けまして食べております。しかしトンキン平地にも米が相当量できます。それでトンキン・デルタだけの米ではトンキン地区の住民は十分でありませんので、その不足分を常に南部から送っておったのでありますが、一九四五年の飢饉はその前の年の暮れから始まりました冷害と水害によりましてトンキン・デルタがすっかり水びたしになりまして、全くの不作だったのであります。それをカバーするために南から米を補給するように日本の行政当局も、軍も努力したのでありますが、何分にも――海路からジャンクで積んでいくという方法もずいぶんとっておりましたが、途中でみなアメリカの潜水艦に追われ、空襲を受けまして、ほとんどそれが十分でなかった。それで北部の農地を出ました避難民が南の都会へ都会へと流れていったのであります。特にハノイはその中心になったのでありますが、当時バオダイ政権がハノイにありましたが、そのバオダイ政府も極力それを収容しておりまして、ハノイの郊外の学校とか兵舎なんかにはこの避難民を収容しておりました。その当時はチフスが非常に住民に蔓延しまして、キニーネが不足をしましたので、チフス、マラリアでもずいぶん死者が出たと思います。私がハノイに参りましたのは二月の初旬でしたが、当時平均五人から多いときは十人というのがハノイ市内で発見できたのであります。さらに南の地区では、自動車で南から北上したある同僚の報告によりますと、ステーションにたくさんの餓死者を発見したということを言っておりました。 ※トンキン・デルタ=現在のハノイ周辺を含む紅河デルタのこと。

人的被害が戦争の直接であったか間接であったかということは、その辺の定義はなかなかむずかしいものだと思います。もし輸送が円滑にいっておったならば、あるいはそれだけの餓死者は出なかったかもしれませんし、輸送が円滑にいかなかったのは、やはり鉄道を破壊されたことが原因でありますし、海上輸送も十分にできませんし、この辺から直接だったか間接だったかと分けることはいささか私はむずかしいのではないかと思います。しかし巷間伝えられておる百万あるいは二百万というような数字は少しシナ的ではないかと思います。大体において常識的には二十万をこえない程度の損害じゃなかったかとわれわれは思っております

なお上記チフスの蔓延については、飢饉との関連が別の参考人である横山正幸氏(人物の詳細は後述)より指摘されています。

さっきも人が死んだ話をたくさん聞かれたのですが、私も実は目の前で見てほんとうにひどかったのですよ。私は三月九日にユエに行ってから、それから一月後ですから、四月の半ばに行ったのですが、やはり道ばたで――今中川さんが言われたのですが、あの通りなのですね。そのほかに目に見えないで家の中で死んでいるのもあるのですからね。それから腹が減ったために病気になってしまったり、腸チフスになったのがあって、これはどうも争えないと思うのです。実に気の毒だったですね。

上記に出てくる中川さんというのは、同じ参考人であった日越貿易会専務理事、中川武保氏のことです。彼の証言からも状況が伺えます。

私は一九四四年から四五年にわたりまして、仏印地区におきますところの特殊工作隊長をやっておりました。その任務は、軍の軍需物資の収集、特に米の収集並びに輸送の任に当たっておりました。当時の状況といたしまして、先ほどからも言っておられますように、南の方に米がたくさん、農産物がたくさんございます。北の方は鉱産物が多い。鉄道はただ一本南から北に走っておる。この鉄道がアメリカの爆撃によって、橋梁あるいは鉄道が破壊されて運行ができません。これがために輸送ができません。海上の方面におきましては、南の方から米をたくさんよそへ送らなくてはならない。送らなくてはならないけれどもども、やはりカムランの沖でアメリカの潜水艦のために日本の艦船はほとんど襲撃されまして、船舶すらも運航が困難で、ほとんど輸送はできないような状態にありました。そのような状況下におきまして、従来から北部の方におきましては米が不足で、南の方から毎年十五万トンから二十万トン送って、そうして北の方の人々はそれによって食うておったというような実情でございます。これが北の方には全然その十五万トンの米が送れないという状態にあるところへもってきて、当時日本の情勢が非常に悪く、アメリカに対するところの抵抗線をラオスの山岳地帯に築いて、相当長期の抵抗を試みるために、ざんごうを掘り糧食をかき集めました。さらにフランスも、そのときに相当期間籠城しなくてはならないというので、フランス軍もまた糧食をかき集めました

一方、米がちょうどできる時期に、米の実が実る前に、その米のたんぼを枯らしまして、切ってしまって、そうして日本がジュートを植え付けさした。これは海軍では万利公司、陸軍では大南公司あるいは昭和通商等を使ってやらせたわけです。それで、米の実るところは切ってしまう、ジュートを植えさすというような状況と、それから北部に米がそういう状況で来ない。来ないところに持ってきて、フランスがとる、日本の陸軍がとる、そうして山岳地帯に運ぶ。さらに海軍がとって海南島及び香港方面に北部から持っていかなければならない。カムランは当分は通れない、そういう状態で、極度に北部に米がなくなったという状況であります。私たちがこの四四年から四五年にかけてハイフォン、フリー、ハノイ、ハイジュン、ナムデンというような方面を歩きましたときにも、道ばたに死骸が非常にたくさん、五人や六人じゃないです。死骸がたくさん、これは商社の方々が向こうに行っておられましたのでみんな知っておられますが、道ばたに死骸がころがっておる。生きておるのもある。もう立ち上がることができない。家の軒の下にも木の下にも横たわっておる。ただ目だけ動かしておる。これが朝になると死んでしまう。死んだ人間を牛車に乗せて毎日朝運んでいくということが非常に長い間続いたわけであります。そういう状況で、北部の方の餓死者の数は非常に膨大に上っております。これが中部におきましては、中部からツーランあるいはビンの方から米を集めまして、これを海南島、香港方面に送ったのですが、そのときには餓死者というか、倒れている人はあまり私は実際に見ませんでした。しかしその米を運ぶ陸軍が、トラックとか鉄道あるいは船に乗せるときに竹やりを持てきて袋を突いて、それが道ばたにこぼれる。それをがきのようにかき集める。それに対して日本軍は発砲して、威嚇射撃をやって追っ払おうとしたのですが、追っ払えずにそれにかけ集まってくるというような状況で非常に逼迫しておる。

米の強奪

生きるために日本軍の輸送する米を強奪しようとした人の様子は、Võ An Ninhによって撮影されています。

このように餓死から必死で生き残ろうとした人々。戦後間もない昭和24年初夏に丸山静雄氏によって執筆され、同24年末に出版された「失われたる記録 対華・南方政略秘史」の最終ページには、飢饉の状況として次のような記述があります。

失われたる記録

順化(現在のフエ)では、茶碗一杯の残飯と引き換えにその身を売って生き延びるしかない女性が少なくなかったこと、ハノイではネズミだけでなく人肉(他人の子供)を食べるといった極限な飢餓状況もありました。

3. 日本人外交官が記録した食糧輸送の実情

実はこの大飢饉の最中、ベトナムにおける統治機構の中枢に近い場所にいて当事者として見聞きし、記録を残した人物がいました。1945年3月、仏印武力処理(明号作戦)でグエン朝最後の皇帝であったバオ・ダイにフランスからの独立が可能であることを直接働きかけ、さらには独立したばかりのベトナム帝国において最高顧問に就任した日本の外交官、横山正幸氏(1892~1978年)です。前述した昭和34年に国会での証言を行った人物でもあります。

彼は日本の敗戦とベトナム帝国の崩壊まで現地にいてその任にあり、進駐してきた連合軍(フランス)の捕虜となると、戦後すぐの1945年10月にベトナムでの活動内容について詳細な尋問を受けました。その記録「メモワール」がフランス国立海外文書館において「Mémoires personnelles de Yokoyama」として残されています。

横山正幸_メモランダム表紙

尋問の途中、北部から進駐した中国軍(国民党)によって連行されたため中断となり、後半部分は草稿という形であったため別人物によって編集されたともありますが、統治機関の中枢にいた当事者でしか知りえない当時を知る一級資料となります。なお、戦犯として訴追される可能性もある中での証言であったことや、同じ年内とはいえ資料は破棄され記憶を頼りにした供述なのでその点は注意が必要です。

原文は、フランス語ですが、2017年に「外交官・横山正幸のメモワール―バオ・ダイ朝廷政府の最高顧問が見た 1945 年のベトナム」という形で日本語訳されました。以下はそこからの引用です。

まず南部から北部への食糧の鉄道輸送については、以下のような記述があります。

中国領土を基地としていたアメリカの飛行機は、インドシナ横断鉄道の特に北半分を攻撃しており[したがって]1945 年の初頭までは[南部から]トゥーランまでの鉄道輸送は十分可能であった。[しかし]やがて南太平洋の基地から来る飛行機による空爆が始まり、今度はインドシナ横断鉄道の南半分も狙った。5‒6 月ごろ,ベトナム政府は、トンキンに送るためのかなりの量のサイゴン米がトゥーランの南のいくつかの駅に保管されていることを確認した。補給大臣は、この米を北部の各地方省に輸送するのを手助けするよう私に頼んできた。そのため私は鉄道を管理していた軍の管轄当局へしばしば赴いた。軍当局はベトナム政府の希望を満たそうとしてくれたが、乗り越えがたい物的な障害に直面したため彼らの努力の結果はかんばしくなかった。ベトナム政府は、南から北へ村々を経由して昔のように馬車や手押し荷車で輸送することさえ考えた。しかし、あまりに距離があり輸送する量もあまりに多く人件費がかかりすぎるので、この計画は実現不可能とされた。

トゥーランとは、ベトナム中部に位置する現在のダナンのこと、トンキン(東京)とはハノイを含むべトナム北部のことです。

最後に挙げられていた人力輸送ですが、当時の道路事情や輸送手段、また輸送に関わる労働者たち自身が消費する食糧の確保(いわゆる兵站における馬車限界という問題)から困難であったと考えられます。

空襲による鉄道被害については、こんな記録も見つけました。

1944フエ近くで橋を爆破

ダナンより北部に位置するフエの鉄道橋を破壊した1944年12月14日の航空攻撃の写真です。ベトナムを横切る多くの河川にかかる鉄道橋の破壊は、鉄道輸送の断絶を生みました。

また鉄道だけでなく船舶による輸送が困難であった理由として驚くべき理由が、横山氏のメモワールにて挙げられていました。以下要約ですが、

フランス当局は米の輸送に帆船を利用する予定であり、規定では積荷の85%は公定価格での売却が義務付けられ、15%が(市場価格で)自由に売却できた。しかしこの条件では、途中で拿捕や撃沈される危険(リスク)に見合う収益が期待できなかった。結果、帆船所有者は高い収益が期待できる正規以外のルートでの運搬に従事することになり、帆船が確保できなかった。

船があっても命を懸けて運ぶほどのメリットが無い制度設計が、悲惨な状況の継続を招きました。そしてそれは、輸送だけではなく統制経済そのものにもありました。

4. 市場を無視した統制経済の破綻

横山氏のメモワールには、次のような記述があります。以下同じく要約ですが、

ベトナム中部では米を自給でき、南部では余剰分があったので不足がちな北部へ供給することができた。戦争開始後、米の価格が統制されかなり安価に徴収されるようになり、大都市圏で必要な量を確保するため、省間(地域間)での米輸送を禁止していた。しかし1944年十月米を収穫後にこの制度は、機能しなくなる。あまりにも安すぎる米価格であるため、農民が売るよりも、米を確保したままの方が得と考えるようになった

これを裏付ける一次資料を見つけました。大飢饉発生直前の1944年に発行された「インドシナ経済速報(Bulletin économique de l'Indochine)」コーチシナの籾市場とコメ市場1941-1944です。原文はフランス語なので意訳します。

大飢饉の背景_南部で米が安いため、家畜の飼料や燃料用アルコールとなっていた.(120万トンが160万トン超へ)png

(太平洋)戦争開始後、ベトナム南部(コーチシナ)では、他の農作物に比べて籾の価格が(政策的に)安く抑えさせられた一方、インフレで賃金が上昇したことで域外への輸出ではなく、地産地消が大幅に拡大。具体的には、家畜が高価格となったことで飼料として籾が消費され、さらにはアルコール燃料や(飲料?)アルコール生産の為の籾の産業用消費が大幅に増加。結果、戦争開始前は100万トン超(推定120~125万トン)だった消費(地産地消)が、160万トンかそれ以上になった。

食料である余った米が、燃料アルコールとなったことがわかります。その理由として考えられる記述が横山氏のメモワールにありました。

戦争の最後の数年間[連合軍による]空爆が次第にかつ確実に激しくなりインドシナの輸送手段全体に著しい被害がもたらされた。米、油、砂糖、アルコールが南部から北部にわずかしか運ばれず、またホンガイ[Hongaï] の石炭が南部にまでくることは稀であった。 ※ホンガイ=現在のホンゲイ市北部にある石炭産地のこと

南部へは、北部から石炭が入ってこなくなり、発電用の燃料が不足したことがわかります。また前述の中川武保氏による国会証言では以下の様な事も語られています。

南の方におきましては米は従来からフランスが植民地政策で、ベトナム人にはできるだけ与えないようにしておった。そうして貧乏にしておって、貧乏にすることによっていろいろな労働力の搾取ができるというような状態にあったところへ日本軍が来た。日本軍はそれを各地の作戦地域に使おうとした。これに対する障害が、アメリカの潜水艦あるいは爆撃によって起きて、作戦に対する軍需物資の調達の輸送の面においてはいろいろな損害があったけれども、実際に米が残った。それがために南の発電所では、この米を石炭のかわりにたいて、それで発電所を起こそうというような状態です。

アルコール燃料として使われたのか、それとも籾のまま米が燃やされたのかは不明ですが、結果的に燃料となった米が使われた南部の発電所、そこはおそらく現ホーチミン市内のチョロンに存在し、サイゴンでの電力供給をしたチョクアン発電所(街路灯の電気を供給したことから”チョクアン灯台”とも呼ばれている)と考えられます。

チョクアン発電所

現代でも飢えに苦しむ人々がいる一方、食料がバイオ燃料として利用されていることに批判がありますが、それはベトナムの大飢饉の最中にも行われていた出来事でした。

5. 餓死から救いたい!幻となった中立輸送船構想

一方でこの横山氏のメモワールには、北部の困窮と餓死者について心を痛め、人々を救おうとした人物がいたことが紹介されています。その人物の1人こそ南部サイゴンにて活動していたカトリック教会の高位聖職者であるAntonin-Fernand Drapier(ドラピエ)氏です。

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1936~1937年に発行された紙面「Nam thành Công Giáo. Revue de la jeunesse catholique. Mensuel」より

彼は、フランス領インドシナにおける第3代目のローマ教皇の代理人(教皇庁の外交サービスのメンバー)として1936年~1950年の期間、サイゴンに駐在していました。

それゆえバチカンにあるローマ教皇庁へ電報を送り、そこからジュネーヴの国際赤十字へ働きかけを行うことを考えます。目的は、国際赤十字の下で南部(コーチシナ)の米を北部(トンキン)へと安全に輸送できる、中立輸送船(bateaux neutres)を用意することでした。
赤十字から連合国に働きかけて認められれば、鉄道よりも大量の食糧輸送が可能な船舶を使って安全な輸送を実現し、北部の困窮や餓死を救うことができます。

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当時サイゴンの郊外(現ホーチミン市工科大学付近)には、遠くフランス本国まで直接通信ができる巨大通信塔(電波塔)が存在していました。

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しかしベトナム南部から遠くバチカンまで通信するには、日本軍の許可が必要でした。横山氏のメモワールでは、次のように語られています。

私は個人的にこの要求に応えたいと願い、奔走が実を結ぶことを強く望んだ。しかし、P.T.T.[郵便・電信・電話]部局を統制していた日本軍当局がこのような電報を送るのを放任することはあり得なかった。敵の空爆の目的は明らかに、北部に駐屯する日本軍に対する南部からの補給を絶つためにインドシナにおける全ての交通システムを破壊することにあった。空爆はまた、人びとをいらだたせ、日本軍に敵対させ、日本軍の戦略行動を妨げさせることをも狙っていた。
それゆえに、望ましい効果を減じることになるような[米の]輸送を、連合国が受け入れることは期待できなかった。戦争遂行において、慈悲が考慮に入れられることはない。このように北部の人びとを救うため に何の結果も得られないことが確かである以上、日本軍は戦略的観点からこの国の防衛の弱点、すなわちトンキンの飢饉、それを改善する能力のなさ、輸送手段の欠如を全世界の人びとの目にさらけだすような事態を認めるわけにはいかなかった。無念にも私はドラピエ猊下にこうした趣旨の返答をしなければならなかった。

また、続く文章には以下のような記述もありました。

コーチシナにおいても飢饉被害者のための救済委員会[le Comité de secours]が、サイゴンのスイス領事[le Consul de Suisse à Saigon]に掛け合い、この種の奔走をしたが無駄であったと聞いている。

スイス領事館
スイス領事館の場所

1942年11月作成された地図より。当時のスイス領事館の場所は、上記地図の7番、現ベトナム国家銀行(中央銀行)ホーチミン支店の隣にあたる55番、現ベトコムバンクの店舗の場所に存在し、ここでも飢饉被害者救済に向けての動きがあったことがわかります。さらには、

外務大臣のチャン・ヴァン・チュオン閣下[S. E. Tran-van-Chuong, Ministre des Affaires Etrangères]も同様に世界中の良心に訴えたいと望んだが、彼の任務終了[辞職]によってその努力は中断された。

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Trần Văn Chương氏。後の南ベトナム時代、初の駐米大使にして、独裁者ゴ・ディン・ジェムの弟で秘密警察を率いたゴ・ディン・ヌーの妻であるマダム・ヌー(僧侶のバーベキュー発言で有名な女性)の父親でもある人物です。

以上の様にドラピエ氏だけでなく、他にも何とか安全な食糧輸送を実現しようと構想した人々がいたものの、その願いが叶うことがありませんでした。

さて、ベトナムの大飢饉から77年が経過した今年2022年。ロシアのウクライナ侵攻により、穀物輸出が止まり中東やアフリカなど多くの国での食糧不足が懸念されています。

つい先日、ようやく穀物輸出が再開されましたが、このまま安全な穀物輸送を続けることができるのか? かつてベトナムで起きた悲劇が繰り返されないことを願っています。

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