ベトナムへの国際電話をかける時、頭に付けるのが国番号「84」。東南アジアに多い6で始まる国番号(例:シンガポール65、タイ66 etc)ではなく、東アジアの8で始まる国番号(例:日本81、韓国82 etc)を東南アジアのベトナムは、なぜ選んだのか?
今回は前編に続き半世紀以上前の文献や資料から筆者が考えた4番目の理由を紹介します。今回も長いので先に結論を述べます。 「日本への接続希望がベトナムの国番号を決めた 」
前編をまだご覧になっていない方は先に「前編」をご覧いただくことをお勧めします。
では以下より後編です。
1. 国際電話の国番号設定前夜のベトナム通信インフラ状況 国際電話の国番号が設定された1964年頃の南ベトナムの国際電話事情は、どのような状況だったのでしょうか?
ちょうどその時期はベトナム戦争が深刻化する直前ともいえる時期(アメリカが本格的に介入をするきっかけとなったトンキン湾事件は1964年8月)です。以下、特に事情が無い限り、「ベトナム」は南ベトナムを指します。
まずアメリカは1950年代からベトナムへ軍事顧問団を送り込んでいました。このベトナムに駐留したアメリカ陸軍通信隊の歴史を書いた書籍には、次のような記述があります。
In addition, the commercial communications networks built by the French lay in disrepair after years of war. To provide a permanent communications system to serve the civil, military, and commercial needs of Southeast Asia, the United States hired contractors to construct a regional telecommunications network to link South Vietnam, Laos, Cambodia, and Thailand. Unfortunately, the project encountered a host of problems and took years to complete. (日本語訳)フランスが構築した商用通信網は、長年の戦争で荒廃していた。東南アジアの民間、軍事、商業のニーズに応える恒久的な通信システムを提供するため、アメリカは南ベトナム、ラオス、カンボジア、タイを結ぶ地域通信網の建設を請負業者に依頼した。残念ながら、このプロジェクトは多くの問題に直面し、完成までに何年もかかった。
1996年アメリカ陸軍の書籍「Getting the Message Through A Branch History of the U.S. Army Signal Corps 」Rebecca Robbins Raines著 359ページより 戦争による通信網の荒廃。1960年12月8~16日にニューデリーで開催されたITU第2回総会、CCITT(国際電信電話諮問委員会)では、北ベトナム、北朝鮮、モンゴルなど東側の国が参加していないことを問題提起された際、南ベトナム側の代表者は次のように反論を述べています。
”Let me just give you a new technical fact concerning my country. In the last few months, the governors of North Viet-Nam have been, and still are, sending raiding parties into South Viet-Nam with the object of destroying the telecommunication lines. Gentlemen, this one fact proves that those who are in power in North Viet-Nam, quite apart from the illegality of their government, are unworthy to send representatives to our Assembly.” (日本語訳)私の国に関する新しい技術的事実をお伝えしましょう。ここ数カ月、北ベトナム代表たちは、電気通信回線を破壊する目的で、南ベトナムに襲撃部隊を送り込んでおり、現在も送り込んでいる。諸君、この一つの事実は、北ベトナムの権力者たちが、その政府の違法性とはまったく別に、我々の総会へ代表を送るに値しないことを証明している。
Red Book (1960): Volume I bis: Minutes and Reports of the Plenary Assembly;(PDF50ページ目 より) 以上のことなどから、当時の南ベトナムでは国際電話インフラが非常に貧弱である一方、北ベトナムとの緊張関係の高まりなどからアメリカ(米本土及び、沖縄など米国外にある米軍基地)へと繋がる高品質な国際電話回線の整備が急務といえる状況だったことがわかります。
2. ベトナム近海を素通りする海底同軸ケーブル網 ではこの当時の国際電話とはどのような状況だったのでしょうか?
1950~1960年代当時の国際電話は、電話交換手に口頭で接続先の国を伝えて手動で繋いでもらう形式であり、経路も短波を使った無線によって実現されていました。
東京国際電話局交換室のオペレータ(日本電信電話公社東京市外電話局内)下記KDDIのWEBより またKDDIのWEBサイト内には、当時の国際電話を担っていたKDD(国際電話電信株式会社)の状況が紹介されています。
発足当時のKDDは対北アメリカ、南アメリカ、ヨーロッパ、アジアを中心とした電信29回線、電話18回線、写真電報3回線など58回線でスタートした。日本経済の成長とともに通信需要が拡大するなかで、通信回線の拡張を進め、限られた資産である周波数を極限まで活用することにつとめた。 その結果、発足からわずか10年の1963年(昭和38年)度末には、短波回線の数は292回線に達し、最盛期には会社発足当時に比べて電信回線は約7倍、電話回線は約3倍に増加する。
KDDIのWEB内【国際通信150年(2)】「長波から短波へ」 より しかし限られた電波を使うため回線数を増やすことができず、また通話品質も良くない・・・そういった中、当時の先端技術である海底同軸ケーブルを使った大容量、高品質な国際電話を実現しようという試みが始まります。
アメリカAT&T傘下のベル電話研究所と、イギリス郵政庁によって研究が進み実用化されたことで、まず1956年ロンドンとニューヨーク、モントリオールを結ぶTat1、1959年パリ、フランクフルトとニューヨークを結ぶTat2が開通し、北米とヨーロッパが海底同軸ケーブルで繋がります。
そして太平洋を横断する海底同軸ケーブルは、アメリカとイギリスがそれぞれ主導していくことになります。
イギリスは、1962~1963年に大英帝国時代の植民地であったカナダからニュージーランド、オーストラリアを結ぶCommonwealth Pacific Cable System(通称Compac)を開通させると、さらに西に延伸させマレーシア、シンガポール、香港とを結ぶSouth-East Asia Commonwealth cable(通称Seacom)を1967年に開通させます。
Telecommunication Journal 1964年4月号 英語版110ページより 一方のアメリカは、太平洋内の自国領土、ハワイ、ミッドウェー、ウェーキ、グアムまで伸ばした海底同軸ケーブルをグアムから分岐させて経済や安全保障の面で結びつきが強い日本(東京)と、旧アメリカの植民地であったフィリピンのマニラへと伸ばしていました。これがTrans Pacific Cable(通称TPC-1)と呼ばれる日本と北米とを繋ぐ初の海底同軸ケーブルであり1964年に開通しました。
しかし上記図を見てもわかる通り、ベトナムにつながる海底ケーブルはありません。なぜならベトナムは、かつてフランスの植民地であったため、イギリスやアメリカの歴史的な繋がりがある旧植民地などを結ぶ海底ケーブルの計画には入らなかったと考えられます。
1967年SEACOMの開通発表 英米による海底同軸ケーブル網の構築、いわば海底ケーブルによる太平洋沿岸諸国の囲い込みが進む1960年代前半。 実は、ここに参入しようとした国があります。それがサンフランシスコ平和条約を経て国際社会への復帰を果たしてからわずか数年ながら、高度経済成長へとひた走っていた国、日本です。
3. 幻の日本と東南アジアを結ぶ1万キロの海底ケーブル計画とは? この1950年代末頃から1960年代にかけて進んでいた計画がありました。それが日本が主体となり、日本から海底同軸ケーブルで繋ぐ計画「東南アジア・海底ケーブル(The Submarine Cable Project for South Asia and Far East=通称SAFEC)」でした。
それはどのような計画であったのか? この計画に基づいて海外技術協力事業団(現JICA)が1966年:昭和41年7月にタイを調査した「東南アジア海底ケーブル計画(タイ)調査報告書 」にはその計画の詳細が載っています。
◆ルート:日本-台湾-香港/フィリピン-ベトナム-カンボジア-タイ-マレーシア/シンガポール-インドネシア ◆全長:約5,400海里(1海里=1.852km、約1万km) ◆方式:双方向一条式同軸海底ケーブル ◆容量:128電話回線 ◆建設費:約7,300万ドル(当時の262.8億円、大卒初任給が1.5万円の時代なので14倍とすれば、現在価値で3,680億円以上?) ◆経緯:ITU内の小委員会で1959年5月(東京)、1960年11月(ニューデリー)で日本から提案し域内幹線通信網図に掲載、1963年(ローマ)の委員会で正式に採択され、1968年までに実現が望ましいとされた計画。関係国との国際会議は1962年4月と1964年3月に東京で開催
1966年:昭和41年7月 海外技術協力事業団(現JICA)による 「東南アジア海底ケーブル計画(タイ)調査報告書 」のPDF10ページ目より なお太平洋を横断し日本とアメリカとを結ぶ海底ケーブルTPC-1完成前の1962年の段階から、日本はそれをさらに延伸させ東南アジア各国と接続させる予定であったことが、当時の通信事情を知ることができる専門誌Telecommunication Journalでも報じられています。
Telecommunication Journal 1962年5月号 英語版の128ページ目下部より さて、この計画、国会での関係者の発言などから、どのような経緯で始まり、各時点でそれぞれどういった状況であったのかを見てみましょう。
実は世界的にこの海底同軸ケーブルが新しい世界の通信幹線網の傾向として出て参りましたために、太平洋ケーブルの問題を日本側としても取り上げまして検討しておりましたちょうどそのときに、東京で国際電気通信連合のプラン会議というのが世界的なネット・ワークの問題についてのいろいろな検討をしておりますが、そのプラン会議のアジア方面における小委員会が昭和三十四年に東京で開かれたわけでございます。 そのときに日本側としては将来の東南アジアとの関係その他を考えまして、日本から東南アジア方面にこういう海底同軸ケーブルが望ましい んだというふうな話をしましたところ、その関係諸国もやはりそうだ、そういうことで……。 <中略> 一応の考えとしましては、日本から出まして、台湾を通り、フィリピンに出まして、フィリピンからベトナム の方に参り、それからさらにバンコックの方に参り、マレーあるいはシンガポールを通りましてインドネシアに行く、こういう計画になっておるわけでございます。
1962年:昭和37年2月1日 第40回国会 衆議院 逓信委員会 第4号 郵政事務官(大臣官房電気通信監理官)松田英一氏の発言(1) 、発言(2) さらにこの太平洋横断ケーブルの完成に引き続きまして、東南アジアの諸地域にも海底ケーブルを敷設したいという計画を持っております <中略> ただ、今度の会議で注目すべき事柄は、いままでは、もう一挙に東京からジャカルタまでという線を考えて議論したわけでありますけれども、今度はそれを、むしろ、区分に分けたほうがいいのじゃないか、たとえばマニラ、高雄、香港というような区間は一つの第一区分、それからマニラ、サイゴン、バンコクといったようなのが第二区分 、バンコク、シンガポール、ジャカルタというのが第三区分、それから東京、台北、高雄、これは第四区分というふうに、東南アジア・ケーブルも一連の一体のものとしてもちろん考えるべきでありますけれども、建設の順序その他からいって、そういうふうに区分して考えたほうが好都合ではないかということが、皆さん同意されたようでございまして、これは今度の会議での注目すべき事柄ではないかと思います。 ということは、暗にこのことは、どこからか、一番これだけのケーブルをつくる必要性があるところから先に着手するとしまして、その着手してできるケーブル区間が、いま申し上げました四つの区分から、どっから手がければいいかということははっきりしたわけでありますが、そういったようなことで、ただいま、まだ会議が終わって日もたっておりませんので、それを具体的にどこからどういうふうにケーブルを敷くか、どの国とどの国で話を始めるかといったような動きは全然ございません 。
1964年:昭和39年4月23日 第46回国会 参議院 逓信委員会 第18号 国際電信電話株式会社取締役副社長 大野勝三氏の発言(1) 、発言(2) ベトナムに関係する部分でいえば、海底ケーブルをフィリピン(マニラ)~南ベトナム(サイゴン)~タイ(バンコク)間で引く計画はあるものの、1964年4月の時点では、まだ具体的には進んでいない様子が伺えます。
Telecommunication Journal 1964年4月号 英語版112ページより なお同時期1964年4月に発行された専門誌(Telecommunication Journal)には、1968年より前に完成させるといった計画として「SAFEC」が載っていました。
また、ベトナムの国番号(84)が決まった1965年以降の発言ではありますが、日本の資金援助で構築していく前提であったことが国会発言からも伺えます。
東南アジア海底ケーブルのことでございますが、問題として残っておりますのは、関係国が建設資金を一度に出すことができない 。そのために日本の援助がほしい 。それをどうするかという問題でございます。それに、日本といたしましては、どういうふうに、いわば一種の援助でございますが 、援助をするかということで、国内関係各省、関係機関などでいろいろ打ち合わせをいたしておりましたが、最近ようやく大体まとまりましたので、近く関係国との間でこの条件でよいかどうかという打診を始める予定にいたしております。 <中略> 現在の計画といたしましては、さしあたり台湾−フィリピン−ベトナム−カンボジア−タイ 、こういうことを考えております。そのあとといたしまして、タイから南へシンガポール−インドネシア、それから北のほうでは台湾−東京間というふうに考えております。
1965年:昭和40年8月10日 第49回国会 衆議院 逓信委員会 第3号 郵政事務官(大臣官房電気通信監理官)畠山一郎氏の発言(1) 、発言(2) 東南アジアケーブルは、目下、郵政当局が中心になり、各国と交渉中でございまして、私どものほうとして申し上げる段階でございませんですが、第一次計画としましては高雄—マニラ—サイゴン —シャヌークビル—バンコクというような構想になっておるそうでございます。
1966年:昭和41年4月19日 第51回国会 参議院 逓信委員会 第15号 国際電信電話株式会社常務取締役 竹内彦太郎氏の発言 では、以上のようにベトナムを含めて東南アジア各国を海底ケーブルを繋げる計画があったのになぜベトナムは、東南アジアのグループである「6」を選択しなかったのでしょうか?
4. 国際電話需要は東南アジア内では無く、東アジア(日本/香港)とに存在した その理由と考えられるデータがあります。それは当時の東南アジア域内における電話・通信需要が日本や香港向けと比べて極端に少ないことです。まずは、ベトナムと海底ケーブルで接続予定であったタイです。
1966年:昭和41年7月 海外技術協力事業団(現JICA)による 「東南アジア海底ケーブル計画(タイ)調査報告書 」のPDF82ページ目より 上記はタイにおける需要ですがテレックスでも電話でもベトナムへは1965年時点で実績がなく、1967年以降の予測でも他国に比べて極めて低いことがわかります。一方でタイと日本間および、タイと香港間では需要が多いことがわかります。(あとは南部で国境を接するマレーシアくらいです)
1966年:昭和41年7月 海外技術協力事業団(現JICA)による 「東南アジア海底ケーブル計画(タイ)調査報告書 」のPDF81ページ目より 電報においては、ベトナムは少し需要があるものの、それでも1965年の実績として香港やフィリピンの半分であり、日本向けの3分の1もありません。
ではベトナムと海底ケーブルのもう1つの接続相手として想定されたフィリピンの場合はどうでしょうか?
1964年:昭和39年6月 海外技術協力事業団(現JICA)による 「東南アジア海底ケーブル計画(フィリピン)調査報告書 」のPDF55ページ目より 1964年:昭和39年6月 海外技術協力事業団(現JICA)による 「東南アジア海底ケーブル計画(フィリピン)調査報告書 」のPDF56ページ目より 最初の表からフィリピンからベトナムへの通話時間は、日本や香港よりも2桁ほど少なく、直近の1963年では他の東南アジア諸国よりも少ないことがわかります。 また続く表にあるRCAという電話会社のデータでは、ベトナム向けは、通話数の0.15%、通話時間の0.09%と全体から見たら誤差のようなトラフィックしかありません。
1964年:昭和39年6月 海外技術協力事業団(現JICA)による 「東南アジア海底ケーブル計画(フィリピン)調査報告書 」のPDF57ページ目より またフィリピンからの将来的な国際電話トラフィックの見通しでも、他国よりも少ないであろうことが予想されています。
つまりタイ、フィリピンの両国から見えるのは、ベトナムとの国際電話需要は圧倒的に少なく(ほぼ無きに等しく)、一方で既に高度経済成長が始まっていた日本(および自由貿易港である香港)とは、貿易などで極めて高い国際電話のニーズがあったことことが伺えます。
これは直接のデータが無いもののベトナムにおいても同じ状況、つまりベトナムから見て国際電話における需要がある先は、日本や香港(いずれも国番号「8」で始まるゾーン)であったの ではないでしょうか?
物理的に海底ケーブルがつながった近い場所(国、地域)というより、最終的にどこと国際通話したかったのか、その視点で国番号「8」で始まるゾーンを選択にも影響したとも考えられます。
5. 日本は国際電話のハブ(中継地点)となることが期待されていた そしてもう1つ考えられるポイントがあります。それは国際電話網におけるハブ(中継地点)という概念です。 国際電話の自動接続または半自動接続にあたっては、全ての場所から全てへの接続では交換機などの整備費用が膨大になるとして1960年のCCITTでは、「Methodical design of a routing plan for international automatic telephone traffic(国際自動電話トラフィックのルーティング・プランの方法論の設計)」について議論されていました。
Red Book (1960): Volume VI: Recommendations (Series Q) and Questions (Study Groups XI, XIII and B) Relative to Telephone Signalling and Switching(PDF208ページ目 より) 上記図でいえば直接相互接続が存在しつつも、幹線としては10、20、30、40といったハブになる場所を経由しての接続を実現するというアイデアです。
また国際電話の接続を完全に自動化する場合、交換速度の速い電子交換機や、信号専用回線なども必要であり、ハブ(中継地点)となる国には、そういった高度な設備を構築できる技術力や資金力が必要とされていた ことが当時の文献からもうかがえます。
国際電話の自動交換 こうした海底ケーブルによる国際電話サービスは通常半自動交換によって運用される。半自動交換というのは、発信加入者の属する国の国際電話交換局では交換手が介入し通話申込みを受付け交換証を作成するが、次いで着信加入者の電話番号をダイアルすれば相手国はいっさい人手を通さず直接被呼加入者に交換接続される方式である。こうした半自動交換の交換信号方式と してC.C.I.T.T.(国際電信電話諮問委員会)で規定したNo.5方式が広く使用されている。 <中略> C.I.T.T.では将来の国際電話の全自動化に備えて、さらに進んだNo. 6方式を検討している。国際電話の全自動交換を実施するとなると、加入者と相手加入者との間に通常数局の電話交換機が介入する。したがって、これらの交換機が交換信号によって次々と動作してゆくと、最後の交換機が動作して接続が完了するまで20秒前後を要する。したがって、発信ダイヤル操作が完了してからアンサー・バック信号が聞こえるまで無信号状態が相当長くなる。 こうした長い無信号の空白状態になれない一般の加入者は、交換接続が行なわれているのか、なにか故障があるのかわからず再ダイヤル操作をくり返す ことになる。また、どこかの交換機か中継線にあきがない場合には、相当遅 れてビジー信号が返送さられてくることになり、貴重な国際電話回線をむだに保留することとなる。したがって、全自動交換用のNo. 6信号方式では交換信号は通話回線で送受せず、別に独立して設けられた信号専用の回線によって、2,400bit/sの高速度データの様式で伝送する方法をとろうとしている。 こうした信号の伝送によって各交換機が短時間に動作して接続を完了しようという方式であって、この場合交換機は交換速度の速い電子交換機の採用を理想としている。このNo. 6信号方式については、2、3年後に国際的な試験 を実施する予定になっているが、これが実際に使用されるようになるまでは今後数年を要するものと考えられる。
1968年:国際電信電話株式会社 有竹秀一「電気学会雑誌:世界通信網の展望 」PDF2ページ目 なお国番号がベトナムも含めて設定された1964年のITUの雑誌には、4年後の1968年の予定図として次のような国際電話接続時(No.5とあるので半自動交換)の中継地点構想が掲載されています。右側の線が集約されている場所が日本です。
Telecommunication Journal 1964年4月号 英語版114ページより 当時、日本には、北太平洋におけるハブとして東南アジア各国からの国際電話をアメリカやヨーロッパへと繋ぐことが期待されていたことがわかります。そして上記図内でベトナムおよびカンボジアから繋がっている先の国は、日本のみ です。
イギリスやアメリカといった旧宗主国が海底ケーブルに加え中継地点でも協力してくれる可能性がある他の東南アジア各国と異なり、旧フランス植民地だったベトナムやカンボジアにとっては日本の協力、繋がりが必要であった。それがベトナムの国番号選択にあたっても影響したとも考えられるのではないでしょうか?
6. 国際回線の繋がりが国番号に影響したと考えられる他国の事例 このように「繋がり」で国番号を選択したと考えられる国が、実は他にもあります。それがビルマ(現ミャンマー)です。
現在、ASEAN(東南アジア諸国連合)に加盟している通り、ミャンマーは東南アジアに含まれる、そしてさらに西のバングラディッシュやインドは南アジアになると認識している方も多いのではないでしょうか?
一方で国際電話の国番号を見てみるとインド(91)、ミャンマー(95)と9で始まるゾーンです。(両国の間のバングラディッシュについては、前編で取り上げた通り特殊な事情 があります)
Wikipediaにある国番号のMAPより この背景には、通信におけるインドとミャンマー(当時のビルマ)の歴史的な繋がりがあります。いずれもイギリスの植民地でありイギリスによって通信網が構築され、インド経由でイギリスとも繋がっていました。
Meanwhile, several events took place. Radio telephone communications between England and India were opened in 1933; the Indo-Burma Radio Telephone service started functioning between Madras and Rangoon in 1936; (日本語訳)イギリスとインド間の無線電話通信は 1933 年に開通しました。インド・ビルマ無線電話サービスは 1936 年にマドラスとラングーンの間で機能し始めました。
2003年10月10日B.S. PADMANABHAN「The telecom journey 」より また既に紹介した1968年までに完成させる計画の海底同軸ケーブル経路図においても、ビルマ(ラングーン=現ヤンゴン)とインド(カルカッタ)の間で計画がされている一方、隣国タイとの間はありません。
Telecommunication Journal 1964年4月号 英語版112ページより こういった経緯もあり1964年の国番号が設定される際、ビルマはインドとの繋がりから9で始まるゾーンを希望したと考えられます。
7. 理由4 日本への接続希望がベトナムの国番号を決めた 話がそれましたが本題に戻りまとめると、ベトナムが8で始まるゾーンの国番号を希望したのには、次のような経緯、理由があったからと考えられます。
(1)戦争により通信網が荒廃し国際通信状況が脆弱であった1960年代初頭のベトナム。 (2)かつてフランスの植民地であったため、旧イギリス植民地間を繋ぐ海底ケーブルは、南シナ海を素通りしてしまい接続する予定はなく、グアムと旧アメリカ植民地フィリピンを繋ぐ海底ケーブルも延伸される予定はなかった。 (3)しかし貿易などビジネス面では東南アジア内の国々よりも日本、軍事・安全保障面ではアメリカ(および米軍が統治している沖縄)との国際電話需要、必要性が高まっていた。 (4)そして日本と北米を繋ぐ太平洋横断海底ケーブル(TPC-1)は完成間近、日本はそれを東南アジアに伸ばして繋げる計画を持っている。 (5)よって日本の援助(資金)により海底ケーブルをベトナムから日本まで繋げることができれば、日本経由でアメリカともつながり、世界各国と高品質な国際電話が実現できる。 (6)それゆえベトナムは、東南アジアの番号ゾーン「6」ではなく、日本が含まれる東アジアの番号ゾーン「8」を希望し、国番号「84」が設定された。
8. 直接は繋がらなかったベトナムと日本との海底ケーブル しかし時代は、ベトナム戦争が激化する前夜。膨大な費用の負担と関係諸国との調整が必要な東南アジア海底ケーブルは、なかなか進みません。
日本の援助が必要となる東南アジア海底ケーブルの建設費は、約7,300万ドル。当時の日本にとってこの金額は、東海道新幹線の建設費として1961年に世界銀行から借りた8,000万ドルにも匹敵する大金です。
一方でベトナムに軍隊を続々と送り込むアメリカは、すぐにでも利用可能な国際電話回線を必要としていました。
そこでアメリカ軍がベトナムから近い米軍基地(フィリピンのサンミゲルにある米海軍基地)とベトナムのニャチャンとを結ぶ軍用の海底ケーブル敷設を行います。それがベトナム初の海底同軸ケーブル「WET WASH」です。
WET WASHプロジェクト(696 nmのケーブルと41個の中継器(リピーター)によって構築 あわせてアメリカは、地上で南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)に破壊されないよう、ベトナム沿岸の各都市を結ぶ海底ケーブルを設置していきます。
ダナン(Da Nang) - クイニョン(Qui Nhon)
クイニョン(Qui Nhon) - ニャチャン(Nha Trang)
クイニョン(Qui Nhon) - カムラン湾(Cam Rahn Bay)
ニャチャン(Nha Trang) - ブンタウ(Vung Tau)
カムラン湾(Cam Rahn Bay) - ブンタウ(Vung Tau)
そして1967年には、ブンタウ(Vung Tau)からタイのBan Sattahipまでを結ぶ海底ケーブルもアメリカ軍によって作られました。
また遠く離れた沖縄の米軍基地との連絡のためには、高周波を使った通信システムを構築します。
BILLBOARD ANTENNAS OF THE BACKPORCH SYSTEM AT PHU LAM IN 1962 in 1962 the Joint Chiefs of Staff approved plans to build a military submarine cable system, known as WETWASH, from the Philippines to South Vietnam. In the meantime, the Army installed radio links westward from Bangkok to Pakistan and eastward from Saigon to Okinawa. (日本語訳)1962年、統合参謀本部はフィリピンから南ベトナムまで、WETWASHとして知られる軍用海底ケーブルシステムを建設する計画を承認した。一方、陸軍は西はバンコクからパキスタンまで、東はサイゴンから沖縄まで無線回線を敷設した。
1996年アメリカ陸軍の書籍「Getting the Message Through A Branch History of the U.S. Army Signal Corps」Rebecca Robbins Raines著 360ページ より by early 1963, of 16 message and 3 voice channels operating on the high-frequency radio trunk to Okinawa, 16 message and 3 voice channels to the Philippines, and 12 message and 3 voice channels to Thailand. (日本語訳)1963年初頭までに、沖縄に16のメッセージと3つの音声チャンネル、フィリピンに16のメッセージと3つの音声チャンネル、タイに12のメッセージと3つの音声チャンネルが高周波無線トランクで運用されるようになった。
1972年アメリカ陸軍省トーマス・マシュー・リエンツィ少将が書いた「COMMUNICATIONSELECTRONICS 1962-1970」 より こういったアメリカによる海底ケーブル敷設や、ベトナム戦争の拡大といった状況も影響したのかもしれません。
1966年7月にまとめられた海外技術協力事業団によるタイの報告書内からは、最初のSAFECの接続ルートとしてベトナムの南側を素通りし、タイとフィリピンとが直接つながる計画が掲載されていました。
1966年:昭和41年7月 海外技術協力事業団(現JICA)による 「東南アジア海底ケーブル計画(タイ)調査報告書 」のPDF57ページ目より 9. そしてベトナムは海底ケーブルで日本と直接繋がった 1975年ベトナム戦争が終わり南北が統一され、その後の経済混乱を経て1986年のドイモイにより再び市場が開放されます。
それから約10年が経過した1996年、タイ-ベトナム-香港を結ぶ海底ケーブル(3つの頭文字を取った)「T-V-H」が構築されます。これによりタイや香港を経由することで再び日本と繋がったと考えられます。
Vittel SolutionのWEBにあるベトナムの海底ケーブル紹介ページ(ベトナム語) より しかし1つのケーブルプロジェクトで直接ベトナムと日本が繋がるのは、21世紀に入る直前の1999年、極東(日本)からヨーロッパ(ドイツ)を繋ぐ、総延長39,000 キロメートルの光ファイバーを使った国際海底ケーブル「SEA-ME-WE 3」(South-East Asia - Middle East - Western Europe)が開通になってからです。
そしてそれは、1959年5月のITUアジア地域プラン委員会で日本が東南アジア海底ケーブル(SAFEC)計画を提示してから実に40年後のことでした。
SEA-ME-WE 3の経路 現在、我々が国際電話を掛ける時に入力するベトナムの国番号「84」。ベトナムの国番号が8で始まるのは、半世紀以上前の1960年代前半、国際電話の国番号が世界中で設定された時、海底同軸ケーブルにより日本「81」と繋がることで国際電話のインフラ構築をしようとした痕跡、名残である ・・・そのように考えてみると日越両国の歴史的なつながりを感じることができるのではないでしょうか。
さて前編 、後編の2回にわたりベトナムの国番号「84」となった理由を4つ挙げましたが、皆さんはどの理由に納得がいった、可能性が高いと思いましたか?
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10. 参考文献 History of the Atlantic Cable & Undersea Communications from the first submarine cable of 1850 to the worldwide fiber optic network
京都大学人文科学研究所附属現代中国研究センター 貴志俊彦「1970年代東アジアにおける広帯域通信ネットワークの形成――沖縄―台湾間海底ケーブルの建設を契機として 」
2007年:東京大学大学院総合文化研究科 荒井良雄「地理学評論:交通・通信インフラから見た極東日本のグローバル化 」
11. 他にも様々なベトナム歴史秘話を書いています