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『秋刀魚の味』の通奏低音

小津安二郎監督の遺作となった『秋刀魚の味』(1962)は、初老の男が旧友や恩師との交流を経て、自分の年頃の娘を嫁に出そうと決心する話。

この映画の中で特に秀逸な瞬間は、初老の平山(笠智衆)が、亡妻の面影をみとめる若いマダム(岸田今日子)のバーで呑む2つのシーンにある。1つ目は、戦時中に艦長だった平山と、当時の部下で一等兵だった男との会話。

坂本「敗けたからこそね、今の若い奴等、向うの真似しやがって、レコードかけてケツ振って踊ってますけどね、これが勝っててごらんなさい、勝ってて。目玉の青い奴が丸髷か何か結っちゃって三味線ひいてますよ。ザマァ見ろッてンんだ」
平山「けど敗けてよかったじゃないか」
坂本「そうですかね。——ウーム、そうかも知れねえな、バカ野郎が威張らなくなっただけでもねえ。——艦長、あんたのことじゃありませんよ。あんたは別だ」

「敗けてよかった」と、間髪入れず、表情を変えずにさらりと言う平山。戦争に向かった日本に対する彼の憤りが滲み出てくる。

2つ目は物語の終盤、遂によそへ嫁いでしまった娘を送り出した結婚式の帰り、友人と呑んですでに酔いが回っている平山は、ふらりとマダムの店に入る。黒のフォーマルジャケットを来た初老の男を見たマダムは、ごく自然に聞いてしまう。

かおる「今日はどちらのお帰り——お葬式ですか」
平山「ウーム、ま、そんなもんだよ」

自分の子と大して歳が変わらない後妻を迎えて「あっちの方の」薬を飲みながら楽しそうに暮らす同級生を(「不潔」呼ばわりしつつも)意識せざるを得ない平山は、30歳前後のマダムにちょっとした恋心を抱いていたが、彼女の若さから断絶した自分の老いを痛切に突きつけられる瞬間だ。そして同時に、平山の諦念に満ちた返事は、娘を失ったことの意味をしみじみと確認させる。

さらにこの時、平山とオーディエンスに思い返されるのが、同じカウンターで坂本と戦争について会話を交わした時の彼自身の言葉。

「けど敗けてよかったじゃないか」

独りになった平山は、敗戦さながらの惨めさに直面するが、それは、娘が自分の世話のために婚期を逃さないようにするための最良の選択だった。前の場面の言葉の残響が、カウンターで独り背中を丸めて言葉を失った平山の心の声を、無音のうちに代弁する。

なるほど、繊細で滋味のあるこの作品は、英国映画協会が実施した世界の映画人たちによる投票で選ばれる史上最高の映画ランキングで、小津作品としては「東京物語」と「晩春」に次いで、185位にランクインしており、日本映画の中でも相当に高い評価を得ている。しかし、この物語が前提とする価値観の古臭さに、2024年を生きる日本人は少なからず違和感を感じるはずだ。この映画が、婚期を逃した中年女は不幸であると断言しているようだからだ。(親父が娘の婚期を決めるという点はそもそも論外だが。)

平山が、自分の娘が婚期を逃すことを恐れるようになったきっかけは、中学校の恩師「ヒョータン」との再会だった。ヒョータンは、早くに妻を亡くしたことで、生徒たちの間でも評判だった一人娘(杉村春子)にいつまでも自分の世話をさせてしまった。婚期を逃した娘は冴えない年増となり、今は父と共に中華料理屋を営んでいる。

ある夜、ヒョータンの娘は、酔いつぶれて帰ってきた父と二人きりになると、惨めさと哀しさいっぱいにむせび泣き、両手で顔を覆う。彼女に救いが見つかるような場面はない。同じ独り身の女でも、「東京物語」では、未亡人となった原節子が、哀しくも思慮深く優美な女性として描かれていたのに対して、「秋刀魚の味」の杉村春子は、救いようのない死んだ魚のような惨めさだ。

ヒョータンも、ハモの漢字は知っていても食べたことがなく、人の茶碗蒸しを食べてしまうし、企業の幹部や大学教授として成功した教え子たちにご馳走してもらい、へこへこと頭を下げて周り、愛嬌と哀愁はあっても、品のない存在として描かれている。

貧乏でも幸せとか、貧乏でも気高く希望をもって生きることができるというようなセンチメンタリズムは一切なし。貧乏は惨めで哀れだと、言い切ってしまっているような世界観。元教師として教養があるにも関わらず、中華料理屋の主人として働き続けなくてはならない境遇に落ちぶれてしまったヒョータンと、彼と二人きりになってしまった娘に対して、もっとモダンで肯定的な社会通念も示されてこそフェアではないか? 一見、何の罪もない貧乏父娘に対して、なぜ小津と脚本の野田高梧は非情な眼差しを向けるのか?

その疑問について考えを巡らせる時、ヒョータンの年齢、世代が意味するものについて思い当たる。そして、ヒョータンの扱いは、戦争から生きて帰った小津による復讐なのだろうと合点がいく。

というのも、平山の教師であったヒョータンは、年齢的には一回り上。すなわち、平山の恩師であるヒョータンこそが、この映画の中で唯一登場する、戦時中に最も権威のある地位にいて「威張って」いた「バカ野郎」の一人なのだ。ヒョータンは平山にとって個人的には恩師だが、日本の無謀な戦争を支持し、平山たちの世代を「便利に」つかった世代の一人でもあるのだ(戦地から帰らなかった教え子も少なくないはずだ)。ヒョータンは、自分の娘も「便利に」使ってしまった。今の侘しい父娘の境遇は、その当然の報いであり、ヒョータンの娘は父の世代による功罪が産んだ最大の犠牲者でもある。小津のヒョータンに対する蔑みは根深い。

戦争に向かった日本を牽引した上の世代に対する、小津と野田の表面的な敬意と、水面下に秘めた怒りが、「秋刀魚の味」の映像空間の中には、通奏低音のように漂っているのだ。

ヒョータンと同じ過ちはしまいと、独りになる平山。結局、社会的地位にも過去にも関係なく、彼もヒョータンも最後は独りであることに変わらない。この点にこそ、孤独は全ての人間に分け隔てなくやって来る宿命であるという現実を冷徹に直視する小津哲学のアンセンチメンタリズムがあり、国境も時代も超えて普遍的共感を呼んでいるのだろう。

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