『リリーのすべて』と友愛感情

『リリーのすべて』という映画を観た。

後天的なトランスジェンダー。単なる女装趣味ではなく、心まで女性になっていくその過程。いろんな意味で難しかった。

ひとつには、もし自分の配偶者が「女性になりたい」と言ったとき、私はそれを受け入れられるだろうかということ。
婚姻関係になくて、ただ友人として、元々トランスジェンダーだとかバイセクシャルだとかってことを知っていたら、それはきっとひとつの個性として受け入れられると思う。
でも恋愛関係にあって、結婚までしている相手が、「男性」でなくなったとき、私だったらどういう風に向き合うことになるんだろう。
同じ人物であって、同じ人物ではない。もう「男性」だった頃の相手は戻ってこない、二度と会えない。その点はある意味、死んでしまったのと同じ辛さがある。

そもそも受け入れるか受け入れないかじゃなく、受け入れるしかない、というのもある。でもそれで、その人と一緒に居続けられるだろうかとなると分からない。でも心配ではあるだろうし、支えになりたいとも思うだろうし。家族愛に近い感情になるのか、それとも親友に対する友情に近い感情なのか。その間ぐらいかなあ。そう考えるとゲルダの行動は非常にリアルだったなと思う。実話に基づいているというのもあるだろうけど。

反対に、リリーがどういう気持ちでゲルダを愛していたかというのも気になる。愛している、離れたくない。でも、男性としてそういう行為はできなくなっているし、現に他の男性に恋愛感情を抱いているし。ゲルダに対する愛は、恋愛感情の延長なのか、これも家族愛なのか、親友のようなものなのか。

一番難しいなと思ったのは「嫉妬」の感情。
リリーはゲルダがハンスといい感じになったとき、どういう感情だったんだろうっていう。愛してはいるけど、もはや恋愛感情って感じではないし。自分でもよく分からなかったかもしれないね。

ゲルダもリリーが他の男とキスしてるのを見て怒りと悲しさを覚えるわけやけど、この時点ではまだ「遊びの女装」やと思っていたはずで。私だったら嫉妬するのかどうか分からない。「キスされてもうてるやん」って笑ってしまったかもしれない。
ゲルダが怒りを感じたのは、リリーが本物になりつつある、というのを心のどっかで察していたからかもしれない。それでも、これは私が前からずっと思ってることやけど、自分の恋人がバイセクシャルやった場合に、男相手の浮気にどういう感情を抱くべきか分からないというか。女相手の浮気は嫌やけど、男相手でも同様に嫉妬するんだろうか。でも、自分が女である以上、男としてのニーズには応えられないわけであって、それはそれで仕方ないのかな、とか。

難しかったな。でも良い映画だった。またひとつ新しい価値観に触れたような気がする。うん、良かった。

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