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精神科通院開始~自殺未遂までの話 6/22更新


前書き

僕は2021年2月20日から本格的に精神科に通い始めた。もう3年になる。
一度転院してるけどどちらも あたりの病院(というより先生)で僕は運がいいし恵まれてると思う。入院した病院もよかった。(二度目は強制退院になっちゃったけど)

今までに飲んだ薬

僕はいろいろな薬を飲んだし 外用薬を使った。

皮膚科・形成外科
・ユベラ(熱湯自傷)
・シナール(熱湯自傷)
・デラキシー(熱湯自傷)
・プロスタンディン軟膏(熱湯自傷)
・ゲーベンクリーム(熱湯自傷)
・フィブラストスプレー(熱湯自傷)

婦人科
・ヒスロン5
・クロミッド
・プレマリン
・ルナベル
・ヤーズフレックス

整形外科
・タケプロン
・ロキソニン
・ツートラム
・ワントラム
・リリカ
・メチコバール
・スインプロイク
・カロナール
・大建中湯
・ミヤBM
・ラキソベロン
・ロキソニンテープ
・プロペト
・ネグミンシュガー軟膏

精神科
・抑肝散加陳皮半夏
・ベルソムラ
・パキシル
・ソラナックス
・レンドルミン
・デエビゴ
・エビリファイ
・ビプレッソ
・リボトリール
・リーマス
・ワイパックス
・サイレース
・レキサルティ
・デプロメール
・抑肝散
・メイラックス
・リスパダール
・ルーラン
・マイスリー
・ラツーダ
・ドラール
・コントミン
・ジスバル
・ラミクタール
・サインバルタ
・ヒルナミン
・レスリン
・ルネスタ
・ジプレキサ
・トリンテリックス

その他の病院
・マグミット(or 酸化マグネシウム)
・ボルタレン
・防風通聖散
・プリンペラン
・タケキャブ

2020年から今までに飲んでた薬と外用薬

最初は抑肝散加陳皮半夏(漢方)だけだった。それがどんどん薬が増えていったし 変わっていった。自分でもこんなに飲んでいたのかとびっくりしている。

今 通っている精神科の病院と主治医

2021年に精神科(クリニック)に通院して 2023年に転院(病院)している。
2023年には僕は重症になっていて クリニックでは診れなくなっていたから。

僕の今通っている病院は新しく大きな建物だけど 何故か精神科と児童精神科だけ古い建物のまま。診察室のドアは開けるとギイギイいうし 床も勿論黒ずんでいる。

僕が通っている精神科の床です

病院バレをしそうだけど 通院してる病院は 1800年代からある。勿論名前は今の名前じゃない。
戦後 兵士さんのPTSDなどの治療をしていたし 最初は精神科だけしかなかった。まさか そのときからの建物とは思わないけれど...。

僕の主治医は30~35歳。名前で検索すれば論文出てくるし ある大学で講師をしたこともある。ちなみに眼鏡をかけている。
眼鏡と言えば
○この病院の前に通っていたクリニックの先生
○カウンセリングの先生
○神経科の担当医
も眼鏡。何故だかはわからない。

主治医は15分くらい話を聞いてくれる。
ほかの患者さんは5分くらい。多分 僕の病状を考えてのことなんだと思う。

「太る薬は絶対に飲みたくない」という僕に太りにくい薬を出してくれる。薬を出すことに慎重の先生。(症状が酷かったころはかなり飲んでいたけれど)
主治医「太る薬は飲みたくないんだよね?まぁ 喧嘩してまで出したくないんで」

ピクルーで作成。画像そっくりなんです。本当に。

入院歴

入院したのは
・2022年の夏(別の病院のストレスケア病棟)
・2023年の冬(通っている病院の閉鎖病棟)
・2023年の夏(2022年に入院した病院のストレスケア病棟) 

ストレスケア病棟

ストレスケア病棟で一番嬉しいのは 忙しいのに看護師さん看護士さんは患者さんの話を長く聞いてくれるところ。僕は看護士さんのUさんとよくお話をしていた。長いと1日3回長くお話していたことがある。忙しいのにありがとうございます。会いたいです…元気かな…。

時間は決まっているけれど外出届を出せばコンビニやマックにも行ける。ほかの患者さんたちは時々「お昼ご飯いらない」にチェックをつけてマックでハンバーガーやポテトを食べていた。僕はそれはしなかったけれど シェイクを飲んだことがある。あとはファミマでアイスとか買って食べていた。

それに日中は喫煙所があって煙草も吸える。(ライターは病棟預かり)
なかなかないと思う。
仲の良かった男性の患者さんはヘビースモーカーで 煙草が吸える時間の終わりの4時前に「煙草吸いに行くね」と必ず喫煙所に行っていた。

2022年
精神科に限らず 初めての入院だったから 僕は毎日泣いていた。毎日家に帰りたくて泣いていた。当時の依存相手とたまに通話をしていた。夜に「こわい 寝れないよ」というと「通話しよか」と言ってくれて短い間だけど お話ししたことは覚えている。
自傷行為をしないという決まりだったけれど 辛いと腕を爪で抉っていた。それを看護師さんに正直に言うと「教えてくれてありがとう。辛かったんだね」と言ってくれた。

2022年はパキシルをデプロメールに変えていて パキシルの離脱症状に苦しんでいた。過眠 だるさ 食欲不振 吐き気。点滴もしていた。
でもその年は「もう自傷行為をしない」と看護師さんに約束して退院できた。

2023年
2022年以上にかなり辛かった。希死念慮がかなりひどかった。
「ななみさん 今こころも身体もぼろぼろだよ」と入院当初 僕にUさんが言ったことがある。その通りだった。

Uさん「何かあったらナースコールを押すんだよ」
僕「僕 昔 別の病院でナースコールを押したら怒鳴られたことがあって押せないんです…」
Uさん「そうだったんだね。ごめんね。でもこの病院で怒る人なんていないよ。押してみようね」
と言ってくれた。けれど僕はトラウマが強くて押せなかった。

ごはんも食べられなくなった。固形物を食べたくなくて牛乳やジュースを飲んだ。
おなかがすくと 売店でアイスのスーパーカップを買って食べていたけれど それすらも吐いていた。

僕はよく階段を見下ろすようになった。
特別に小型のナースコールを渡してくれた。それでたまに押して助けを呼んだこともあるけれど 僕は何回か階段から落ちてしまった。
「ななみさん もう身体傷だらけだよ」と看護師さんが言った。僕の身体はあざだらけになった。2階のお部屋だったけれど 1階に移動することになった。それでも落ちるのをやめられなかった。
そして最後の飛び降り。朝だった。落ちて大怪我してしまい 僕はUさんと別の病院に行くことになった。12針縫った。僕は強制退院となった。
当時は死にたくてしょうがなくて落ちていたけれど かなり迷惑なことをしてしまった。

閉鎖病棟

勿論階段なんてなくて自傷行為する術もなかったし スマートフォン類は持ち込み禁止。
僕は廊下を歩いたり ノートに今の気持ちとか書きなぐったり ぬいぐるみを抱っこしてなでたり 吉田秋生の漫画をひたすら読んでいた。「自傷行為したい」とは思わなかったけれど 毎日泣いていた。
閉鎖病棟は医療保護入院や措置入院 重症の人達が入院していた。僕みたいに任意入院は珍しい。
車椅子の人が倒れ込んで おむつとかぐちゃぐちゃになって 主治医が「あーあーどうしたの」って言ってたのをいまでも覚えてる。

病名の変化

パニック障害・社交不安障害

精神科に通い始めた当初の症状は「乗り物と人混みが怖い」「仕事に行けない」だった。一番最初に通ったクリニックの主治医は僕を「パニック障害」「社交不安障害」と診断した。
そこでは「パキシル」という薬を主に飲んでいた。

うつ病

ストレスケア病棟の先生は僕を「うつ病」と診断した。

統合失調症(寛解)

今通っている精神科に転院してから しばらく経って 幻聴の症状がでるようになった。「それ」は突然やってきてうるさく僕を虐める。タイミングがわからなかった。だからつらかった。

その頃 休職していた薬局事務の仕事を「お手伝い」として復職していた。
でも幻聴がやってくるとうずくまって耳をふさいで仕事行けない。そうすると幻聴は「急に休んだ迷惑野郎」と僕を罵る。でも行ったとしても「ろくに仕事行けない迷惑野郎」と責めた。また僕は仕事に行けなくなった。

その症状を主治医に話すと 「統合失調症の疑いが強いなぁ」と言い「ルーラン(ペロスピロン塩酸塩)」という統合失調症の薬が処方した。始めたばかりの頃は夕食後4㎎だった。でもそれは最終的に24㎎になった。(最大量は48㎎なので半量)

でも飲んでも しばらくすると幻聴の症状に加えて「監視されてる」という疑心も増えた。当時 僕の住んでるマンションは大規模修繕工事をしていて ベランダに工事の人が入る。僕はその人たちが僕のことを監視してると思ったり 病院に行くとき まわりの人たちが僕のことを見てると思うようになった。

更に周囲の人が僕の思っていることがばれているんじゃないかと考えるようになった。そのことを主治医に話すと

「僕はななみさんの考えてることわかりませんよ。いや 本当。知りたいくらいですよ」

今思い返せばその通りだと思う。精神科の先生は患者の心の中を知りたいと思う。

僕はその後自殺未遂をした(後述)
リハビリ病院にいるころから 遅発性ジスキネジアの症状(勝手に手が動いたり 口をもごもごさせたり)が出るようになった。自分でもこれは何なのかわからなかった。ジスキネジアという症状も知らなかった。

リハビリ病院を退院して 主治医に聞くと「遅発性ジスキネジアだね」と言った。抗精神病薬などを飲んでると副作用として発症するらしい。発症は1%未満だけど 僕はルーランをかなりの期間飲んでいた。

幻聴の症状も改善したし ジスキネジアの症状も出るしで ルーランをやめて「ラミクタール」というてんかんや双極性障害の薬に変えて ジスキネジアの薬「ジスバル」を飲むようになった。

ジスバルを飲むようになって 手の動きはかなりよくなったけど 口の動きはたまにしているらしい。(口の動きは自分ではわからない)
ルーランを服用中止したあともしばらくジスキネジアの症状は続くらしい。
ジスバルは製薬会社の人曰く3か月くらい飲まないと効果が出ない。僕は40㎎だけど症状が重い人は80㎎飲むらしい。

ジスバルは傾眠の副作用がある。だから寝る前に服用する。でも日中も動けないほどになる人もいるし 値段も高いから飲むをやめてしまう人も多いらしい。僕はそういう症状が出なかったから今も飲んでいる。

このままジスキネジアの症状が治まればいいなと思う。
ジスキネジアにはなったけれど 統合失調症は寛解したから ルーラン飲んでてよかった。

境界性パーソナリティー障害

境界性パーソナリティー障害(BPD)が強いと言われたのは今年だけど 昔からその症状はあった。

"「境界性パーソナリティ障害」の“特徴的な症状9つ”を精神科医が解説"によると発症原因は"幼少期の家庭環境や生活習慣、先天的な問題など様々"らしい。
僕の場合 幼少期から小学生までほぼ毎日両親に怒鳴られていた。これは両親は後悔してるらしい。祖母が「〇〇さん(父親の名前)ちょっと…」と母親に忠告したこともある。

「見捨てられ不安」は強い。これはかつて元依存相手に二回見捨てられた過去もあるからもあるけど 元依存相手とまだ関係ができていた頃も見捨てられるのが怖かった。
退院直前 見捨てられた(というより 関係を切られた)ときは本気で死のうと考えたし遺書も作った。元依存相手の誕生日に死んで後悔させようとした。でもこれは担当作業療法士さんが手を尽くしてくれたおかげでこの人のために生きようと思えた。

「頻繁にメールを送る」これもそう。未読が続くと嫌われた ブロックされたと思ってしまい 頻繁に送る。酷いと別のSNSのDMに送る。

「相手の気をひくために自傷や自殺をほのめかす」前述した見捨てられた出来事もこれにあたるかもしれない。8~10%は自殺に及ぶらしい。もし別れたら昔のようになるかもしれない。ごめんね。

「自分を傷つけうる衝動」過去の僕はこれにあたる。
"自分に害があると分かっているにも関わらず、自分を大切にしないような行動を衝動的にしてしまう人もいます。"
「自分なんて 大切にしなくてもいい」「生きてる価値がない」「死んだいい方がみんなのため」「死んじゃえばいい」という気持ちだった。毎日。毎日が生きるのが精一杯だった。

今は「頻繁にメールを送る」をたまにするし、「自殺をほのめかす」は別れた場合だけなのでよくなったとは思う。
彼氏さんにも「よくなったね」と言ってくれて本当に嬉しかった。
Xで繋がってるとても仲のいい子も「年齢で落ち着くよ」と言ってくれた。年はとりたくないけど 早く落ち着きたい。

気分変調症・軽度知的障害

これが今の僕の病名。WAISは63(2023/8)だけれどテストしたのは鬱症状が酷かったのであまり数値があてにならない。2年後またテストする予定。

希死念慮の発生・自傷行為

通院していくうちに次第に「自傷行為」が酷くなった。
小学生の頃から自分のからだを殴ったり トンカチで叩いたりしていた。でも カッターで傷つけることは出来なかった すごく怖かった。

なんでいつの間にかカッターで傷つけることができて いつの間にかカミソリで切れるようになったのか自分でもわからない。本当にわからない。

その頃にはTwitterも始めていて 毎日が自傷の日々だったけど Twitterをやってるときは辛さを忘れられた。

当時通っていたのはクリニックで入院施設はなかった。当時の主治医に精神科じゃなくて ストレスケア病棟という 精神科よりちょっと緩めの病棟がある病院に入院するように勧められた。(入院歴参照)

退院直後 僕は何故か過眠になった。朝まず寝て お昼寝をして そして夜8時には寝る。とにかく寝ていた。「寝ていて何もできない」=「そんな僕なんて価値なんてない」という考えになりだんだん希死念慮が酷くなっていった。

精神状態は次第に悪くなっていたが まだそのときは自傷していなかった。
でも主治医にすぐ入院できるように 病院に転院することを勧められて 僕は1番近い今の病院転院した そこでいまの主治医に出会った

初診で 僕はとにかく死にたくて堪らないことを話した。「もしかしたら飛び降りするかもしれない」とも言った。でも主治医は「この病院の閉鎖病棟は強制入院してる患者さんが殆どで入院はあまり勧められない」と言った。
僕は病院選びを失敗した(でも主治医はとても良い先生でそういう意味では病院選びは成功してる)

主治医は「死ぬことを選ぶなら小さな自傷をして気を紛らわしてください」と話した。母親もそれに納得して一緒にカミソリを買いに行った。でも 主治医も母親も 僕が 後に瀉血レベルのアムカをするとは思わなかったと思う。

僕のアムカは次第に酷くなった。
小さなピンクのゴミ箱にスケッチブックの紙を敷いてその上で切っていた。(1回 ただのスケッチブックの上で切ったらお布団のシーツが血まみれになったから。でも怒られなかった)

1日目 新しいところを切って絆創膏を貼る。そして2日目同じところを深く切る。そうすると血がボタボタボタ垂れる。時にぶちっという音も聞こえたことがある

処置は絆創膏を貼るくらいで特にしなかった。正直縫うレベルのアムカをしていた。結果 腕がボロボロになったし 貧血でふらふらするようになった。

次の診察で僕は主治医に「貧血検査してほしい」とお願いした。でも主治医は「そんなもの意味無い。だったら鉄剤飲んで?」だった。今思い返せば主治医はブチ切れていたと思う
その日から僕はフェロミアという鉄剤を飲むことになった 副作用で気持ち悪くなり 便の色が真っ黒になった。

夏が来て 半袖になった。
半袖になるとアムカすることがバレてしまう 僕は太ももを切るレグカをするようになった
でもアムカほど血が出なくて満足できなかった。

オーバードーズの開始

オーバーバーズ(以下"OD")をやりはじめたのは去年の夏。

やろうとした理由は"楽になりたかったから"、
その頃の僕は毎日希死念慮を抱えていたけど 飛び降りる勇気もなかった。

Twitterで情報を収集し 近所のドラッグストアでエスエスブロン錠を購入した。

最初にやったのはブロン15錠。
だけど15錠ではふわふわ感は感じず 食欲がなくなったのと 夜が眠れなかったぐらいだった

次にやったのはブロン20錠+ロキソニン10錠を飲むヨーグルトでOD。
なんでロキソニンもODしたかは 体を壊したかったから。
結果としては、大量に吐いた。吐瀉物は飲むヨーグルトの臭いがした。その日は一日中吐き気がした。
たぶんロキソニンも同時服用したから。鎮痛剤は空腹時に服用すると吐き気がする。そのため ムコスタとかの胃薬も処方されることが多い。僕はプリンペランという吐き気止めを飲んだけどまったく効かなかった。でもその吐き気は次の日には落ち着いてほっとした。
効果としてはふわふわした。その頃はお昼寝をする日課があって目を閉じると宇宙が広がる感じがした。楽しかった。

あとは週に一回(母親が一日仕事の土曜日)20錠~25錠をやり続けた。だいたい吐いて ふわふわし続けた。keepメモにOD記録をしていたけど キマらないとkeepメモにキレ散らかした。

ブロンは84錠で1400円。(𝖺𝗆͜𝖺͉𝗓𝗈𝗇参考)
金パブは210錠で1600円。(𝖺𝗆͜𝖺͉𝗓𝗈𝗇参考)
効果としては同じ。
コスパは金パブが圧倒的だった。
でも金パブには難点がひとつあって「まずい」「アセトアミノフェンが入ってる」。
アセトアミノフェンは長期服用すると肝機能障害を起こす場合がある。肝臓がボロボロになる。

でも僕はそれを喜んだ。身体をボロボロにしたかったし それで死ねるなら本望だったから。
飲むヨーグルトで飲めばまずさは軽減される。

いつブロンから金パブにしたかは覚えてないけど 金パブに切り替えた。
効果は一緒だった。身体をボロボロにできているかもしれないという幸せもあった。

8月30日 飛び降りしようとしたけど 怖くて ODしてやめた。それで気を紛らわした。当時のTwitterアカウントで泣いてるちいかわのアニメの絵をつけて「ODします ごめんなさい」とツイートしたのを覚えてる。

後述する飛び降りして 退院後 彼氏さんと出会った直後もメジコンあたりを買おうと︎︎𝖺𝗆͜𝖺͉𝗓𝗈𝗇を見た。それは直後の話で今は買おうと思わない。

肝臓ボロボロなんだろうな。多分寿命縮んでる。

そして自殺未遂

僕が「末期」と呼んでる状態が酷かった時期はいくつかある。
・自傷行為を毎日し ODをたまにし 熱湯を腕にかけ 酒を毎日 たまに薬と酒を一緒に飲んでた時期
・希死念慮がかなりひどかった時期
・自殺未遂をしたとき
一番ひどかったのは勿論自殺未遂をしたとき。とにかく死にたかった。

8月24日 まずは1回目。薬を100錠以上のんだ。点滴 拘束 尿カテをされ一泊二日で退院。医療保護入院もなかった。ここで医療保護されていたら人生は変わっていたかもしれないけど なんか 希死念慮は消えなくて結局飛び降りしてそう。後遺症としては忘れっぽくなった。
詳しくは「処方薬過剰服薬(OD)自殺未遂」を読んでください。

8月31日 2回目。あれだけ怖かった飛び降りがすんなりできてしまった。飛び降りは意識を失うから落ちたときは痛くない。気づいたら地面にいて 救急隊の人に囲まれていた。でもICUにいるときは地獄のような痛みだったし 手術は何回もするし 長らく寝たきりになるし 後遺症はいっぱい残るしでとても辛かった。詳しくは「飛び降り自殺未遂の記録⓵」を読んでください。
主な後遺症としては

・坐骨神経痛(ずっと座ると激痛)
 ⇧今後ボルトを抜く手術でよくなる可能性あり
・左足 下垂足の可能性(感覚麻痺 歩行困難)
・外は歩行車 家の中は杖使用 左足装具使用(歩行困難)
・しゃがめない(バランスを崩して転ぶ)
・介護用シャワーチェア使用
・家の中で手すりが必要
・リクライニングベッド使用(起き上がれない)
・スカート 靴(左)などが履けない(足が曲がらない)
・転ぶと一人で起き上がれない
・乗り物に一人で乗れない
・靴も履けないので一人で外出できない

主な後遺症一覧

なんで精神科に通っておくすりも飲んでいたのに状態が悪くなったのかはわからない。通っていたクリニックの主治医が「ななみさんはおくすりではなくカウンセリングが大事です。おくすりはこれ以上悪くならないための抑制剤です」と言っていた。

でも 飛び降りした結果6か月の入院で金パブを断薬した。残った金パブを退院後に探したけどなかった。きっとお母さんが捨てたんだと思う。でもお母さんは何も言わなかった。

3回の自殺未遂を経て

僕の場合は環境とカウンセリングが大事だと思う。今の彼氏さんに出会って僕の精神状態はかなりよくなった。
でもまだおくすりがないと生きていけない(断薬はしたいけど断薬したあとが怖い)。卒業は何年も先。

病気が治ったら障害年金もなくなるから働かなきゃ。(治る前にもA型で働きたい)

坐骨神経痛が治ったらレセコン入力とかはできそうだけど 正直働いていた頃よりいろいろ制度が増えていて覚えられない。それに薬局の業務はレセコン入力だけが仕事じゃない。基本交代でピッキング⇔入力をする。僕は普通に歩けないししゃがめないからピッキングができない。

病気が治ったら世界はどう見えるんだろう。
今はあまりわからない。

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