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飛び降り自殺未遂 記録(6/26更新)


前書き

僕が飛び降り自殺未遂を図って8月末で一年になる。あっという間。
このノートを読んでくれることで 少しでも飛び降り自殺をする人が減ればいいなという思いでこのノートを公開する。(前アカウントでも公開したものを大幅加筆したものです)

「何階から飛び降りた」という質問には答えられません。一桁の階ということだけ言っておきます。4階で死ぬ人もいれば12階でも生き延びる人がいる。自殺という行為自体 生き延びたときの辛さは大きいです。やめたほうがいいとだけ言っておきます。

ICU編

飛び降りた原因~飛び降り当日

僕は数日前にストレスケア病棟を強制退院(自傷行為をしないという決まりの病棟で死にたくて何度も階段から飛び降り 最終的には12針縫った)させられて とにかく死にたかった。

飛び降りる8日前に処方薬を大量にODし 主治医がいる病院に救急搬送されていた。その時に主治医に「今も死にたい気持ちはあるか」と聞かれて「ない」と答えていたのに。
(後日 母親に聞いた話だけれど 主治医は両親に謝ったらしい)

その数日後 診察があった。そのときの記憶はないけど 次の診察で飛び降りることを話そうと思っていた。

でも僕は希死念慮が爆発してもう限界になっていた。
飛び降りる前日 カウンセリングの先生に助けを求めた。「明日飛び降りしようと思います」と書いて写真を撮り送った。すぐカウンセリングの先生は電話をしてくれて 出来るだけ予約を早めると言ってくれた。その日僕は金パブをODしてなんとかやり過ごした。

次の日 2日連続でODするのはまずいと思ってODしなかった。9時に母親は歯医者に行って僕は1人になった。
僕は椅子を使って窓を乗り越えて フェンスも乗り越えて座った。写真を撮り 当時の依存相手に「たすけて」と送った。その数分後「ごめんね」と送り 僕は 飛び降りをしてしまった。

飛び降りる瞬間の記憶はなかった。
気づいたら地面にいて 意識を取り戻して最初に見えたものは欠けた歯とそれに伴った出血だった。意識を取り戻した時には既に救急隊の人達がいた。
救急隊のひとたちが 「どこからとびおりしたんだ」とか「あそこだ」とか言っていた。(なんで分かったのがわからない もしかしたら窓を開けっ放しだったのかもしれない。)
救急車のなかで母親は手を繋いでくれたし(歯医者が丁度終わったらしくて駆けつけてくれた)救急隊の人がぼくのからだに土が付いてるからとタオルで拭いてくれた。

説明書 骨盤がかなり酷い状態というのが強調されている。

運び込まれて処置をして 緊急手術やレントゲンを撮ったらしたけど当然意識がない。手術は5時間くらいかかったらしい。

覚えているのはその日の夜勤の看護師さんがとても優しかったことくらい。起きてる僕にまだ夜中の3時だよ?って話しかけてくれた。

飛び降り翌日~大部屋移動

翌日 飲水開始して それと同時に薬が開始したけど 大建中湯という漢方を飲むことになった。
ぼくは粉薬を飲むのがとても苦手でオブラートを使って飲んでいたけど そのまま飲んでもなんとかなった。(もちろんおいしくない。苦辛い。)
大建中湯は便秘対策の漢方で 一日中ベッドの上でお腹の動きが弱まることと フェンタニルというとても便秘になりやすい医療用麻薬の点滴を使っていたたから。

その翌日 大部屋に移った。大部屋はラジオが起床から就寝前までずーっとかけられ聴覚過敏の僕は過呼吸になって大泣きした。神経科の先生がいて心配していた。
でも何日かするとラジオはスマホも本もないICUでは唯一の暇つぶしになっていた。

大部屋に移った頃から夜になると痛くて痛くて(言葉では表せない)眠れなくなった。叫んだこともある。この頃が1番辛い時期だった。

ある日の痛み止めの薬
○ロキソニン 毎食後
○カロナール 毎食後+寝る前
○フェンタニル 点滴
○ワントラム 昼食後
これをのんでも(点滴しても)痛かった。

ある日の便秘薬
○マグミット 毎食後
○スインプロイク 朝食後
○大建中湯 毎食後
これを飲んでも便秘になった。
ラキソベロンを飲んだり 時にはグリセリン浣腸にしていた。ワントラムとフェンタニルは便秘になりやすい。
多分 おむつに便をだして 看護師さんに見られるのが恥ずかしかったんだと思う。尿はカテーテルをしていた。

9月2日は僕の誕生日だった。今日誕生日なんです と看護師さんに言うとおめでとうと言ってくれた。
誕生日に2年連続入院になってしまった。今思えばなんで誕生日の3日前に飛び降りしたのかわからない。家族とお寿司食べに行きたいと話していたのに。それがもう良くなるくらい死にたかったんだと思う。

食事は 歯が欠けていたから重湯とかゼリーを食べていた。
この頃はベッドアップ制限(30度)があり自分では食べられなかったから 食べさせてもらっていた。
食べさせてもらうのは時間がかかって申し訳ないし すぐお腹いっぱいになって食べられなかった。
だからメイバランスが処方された。僕は毎日コーンポタージュ味をのんでいた。

骨盤の手術(腰椎骨盤後方固定術)

骨盤の手術をする前日 マグコロールというアクエリアスの味の下剤を飲んだ。骨盤だから便があると感染リスクがある。だから体の中にある便を完全になくす必要があった。
その日 明日の下準備として骨盤に軽いオペをしたけどそこで大量に漏らしてしまった。とてもとても恥ずかしかった。マグコロールはとても強い下剤なんだなとも思った。このあと更にグリセリン浣腸された。

骨盤オペは朝から終電の時間までかかった。
先生たちや看護師さんたち 付き添ってくれた母親には感謝しかない。
母親が「もう終電の時間になっちゃうから ごめんね...」と申し訳なく帰っていった。
そして長時間手術をしたからか また人工呼吸器(たぶん)を入れられた。これがとても苦しくて抜こうとしたので腕を拘束されてミトンをつけられた。痛くても声が出ない。その晩は一睡もできなかった。無理やり外そうとして 巡回の看護師さんに戻されてを繰り返した。
ICUにいたときの出来事はこれが1番辛かった。トラウマになっている。
朝になって抜管してくれたけど 抜管した後も痰が出続けて辛かった。無理やり外そうとしたから出血もしていた。

その次の日から食事は自分で食べるようになった。でも腕に入ってるワイヤーにまだ慣れなくて いたくて上手く食べられなかった。
それでも頑張って完食すると 担当医(整形のほかに 僕の担当医の先生がいた)が すごいね!って驚いて褒めてくれた。担当医が「食べるのがいまは大事だよ 食べることは治癒への1歩だからね」と言ってたから頑張っていた。

ICUでの僕

ICUの面会は15分だけと決まっていた。
それでも両親に会えるのはとても嬉しかった。
ある日の面会では 飼ってる猫の写真をプリントして見せてくれたり ちいかわのピンク色のマグカップを持ってきて 退院したら渡すねって言ってくれた。(僕の誕生日プレゼントのひとつだった)

脚の創外固定を外すオペをする頃には リハビリもベッドの上ではじまって リクライニング車椅子にも乗ったりした。
何日もお風呂に入れないから定期的に体を拭いてもらったり 1回シャンプーをしてもらった。看護師さんが僕の髪をゴムで結いてくれた。かわいいねって言ってくれて嬉しかった。

その頃になると人見知りの僕もようやく慣れて先生たちや看護師さん 看護士さんとお話するようになったし名前を覚えた。
ある看護師さんは 僕のことを見つけると ななちゃーんって呼んでくれたり ある看護士さんに 𓏸𓏸さんって呼ぶと僕の名前覚えてくれたんだって言ってくれて 目が合うと手を振ってくれたり。仲がいい看護士さんは 僕と目が合うとそばに来てくれてお話してくれた。

それに何時に回診があるかとか分かるようになった。(僕は時計が見えるところのベッドで寝ていた。)
回診はかなりの人数できた。僕が寝たきりで動けないから身体を何人かで動かす必要があったから。その時の僕は色々な管に繋がれていた。環椎も骨折していたからネックカラー(首を固定するためのもよ)もしていた。ネックカラーは3ヶ月しなくちゃいけなくて リハビリ病院いくときもしていた。

一般病棟移動

脚のオペの翌日 手術が一通り終わったからか 一般病棟に移ることを告げられた。
でも こんな重病人が一般病棟に行っていいの...?と不思議になって不安になった。スマホが使えて両親とも連絡取れるし 𝕏もできるから 嬉しくもあって 仲がいい看護士さんに 一般病棟に移るの!って報告したけど その後泣きそうにもなった。不安で神経科の先生とお話したかったけど その日は日曜日でできなかった。

その不安は転棟したすぐあとに担当してくれた看護師さんが優しくて消えた。

ICUの看護師さん 担当医とはあっけなくお別れをしてちょっとだけ寂しかった。ICUはもう会えないからね。

一般病棟編

転棟したときと看護師さんのこと

一般病棟に移ったのは9月17日だつた。つまりICUにいたのは18日になる。

ICUの看護師さん 看護士さんはスクラブを着ていたけれど 一般病棟の看護師さん 看護士さんは ナース服を着ていた。でも夜勤は基本青いスクラブと決まっている。これは夜勤スタッフと日勤スタッフの違いを分かりやすくするためだった。
看護助手さんはオレンジのスクラブを着ていたから だからオレンジさんと呼んでいた。

一般病棟に移った日 父親がスマートフォンや水やぬいぐるみ(ニディガのあめちゃん)を届けに来てくれた。ICUと違って一般病棟は面会に制限時間はない。(夜8時までと決まっているが)
父親といろいろな話をした。もうなにを話したか覚えていないけれど 父親が帰るとき 父親は泣いていたのを覚えている。

次の日 母親が面会に来てくれた。かなり長い間いてくれた。
丁度回診に先生たちが来た。来たのはK先生 N先生 整形のボスのM先生だった。僕が「歩けるようになるんですか…?」とボスのM先生に訊くと「リハビリ頑張ればできるようになるよ」と返した。

大部屋移動

僕は数日間個室にいた。大部屋が空いていなかったからか 僕が重病人だからかは分からない。でも個室代金とられなかった。
数日後「ななみさんより重症の患者さんが転棟してきたので大部屋に移ってほしいのですが」と看護師さんに言われた。僕はそれを承諾した。でも不安だった。何回も書いたけれど 僕は人見知り。そんなに患者さんとは接触しないけれど それでも不安だった。

僕は廊下側の部屋になった。カーテンで仕切られただけの病室。でも僕は静かな病室に来れた。でも僕は不安で泣いてしまった。看護助手さんが「大丈夫だよ」と手を握ってくれた。
同室の人たちは静かだったし僕より年上だった。

ある日 僕は何故かお部屋移動となった。僕は窓際のお部屋になった。同室になったのは移動前も一緒のお部屋にいたYさん。後で知ることになるけれどYさんとはICUでも一緒の病室だった時期があった。。僕が「痛い!」と叫んでいたとき声をかけてくれたとてもやさしい方なのだ。

その後 Hさんという女性が僕たちの病院に転棟してきた。Hさんは看護師さんだった。明るい人だった。
僕たちは偶然にもみんな創外固定をしていたという共通点があって仲良くなった。僕が飛び降りをしてこうなってしまったと言ったら「辛かったんだね」と言ってくれた。
差し入れを「食べきれないから」という理由で分け合って食べたり「カップラーメン食べたいね」と話して食べたりした。(お湯は 看護助手さんが電気ポットを貸してくれた。)
Yさん HさんとはLINEを交換した。いまでもたまに連絡をとりあっている。

左肘頭骨折術後 骨内異物除去術

10/3 僕は左肘に入っているワイヤーを抜く手術をした。執刀は僕の担当医のN先生。名前もすべても可愛い先生で 優しくて整形(救命)の先生たちのなかで一番好きだった。

手術の何日か前
「そのぬいぐるみ(僕が抱いているぬいぐるみ)ってなんのキャラクターなの?」
「『Needy Girl Overdose』っていうゲームのキャラクターなんです」
「そうなんだ~あとで調べてみよ」
という会話があった。

手術当日 手術室に入ると「Internet Yamero」が流れてて僕はびっくりした。
N先生は僕が好きな「Needy Girl Overdose」のゲーム内BGMや「Internet Yamero」や「Internet Overdose」を流してくれた。

この手術は局所麻酔だったからBGMをずっと聞けて幸せだった。何回も手術をしたけれど 楽しかった手術はこれだけ。N先生 ありがとうございます。

リハビリの日々

僕は基本午前中にリハビリをしていた。当時僕は寝たきりで勿論自力で車椅子に移れない。
そこでリクライニング車椅子を最大までリクライニングして 僕の背中にバスタオルを敷き 3人くらいで僕の身体を持ち上げて移乗していた。この瞬間が僕は楽しかった。(ストレッチャーも同様)
でも坐骨神経痛(当時はわからなかった)でずっと座っていると脚が激痛になって辛かった。みんな僕が坐骨神経痛とはわからなかったから不思議がっていた。回診で「もしかしたら」と先生は言ったくらいだった。

リハビリは作業療法と理学療法をしていた。作業療法で僕は基本的におりがみを作業療法士さんと一緒にやっていた。理学療法では理学療法士さんと脚をまげたり 座位をとったりしていた。
でもリハビリは作業療法20分+理学療法40分だった。(たしか)

そこでリハビリのほかにやっていたのがCPMだった。
CPMというのは脚を乗せて角度を設定してスタートボタンを押すと機械が動き 脚が曲がる。それを午前1時間 午後1時間やっていた。
そのほかにも骨折の治りを早くする超音波装置のセーフスという機械も両腕 左足2か所にあてていた。こうなると毎日が時間に追われる日々だった。僕はかなりしんどかったけれどそれ以上に僕の担当となる看護師さんが大変だった。

精神状態悪化

初めの頃は「リハビリ頑張っておうちに帰ろう」「帰ったら家族と一緒にお寿司食べに行きたい」とポジティブに考えていた僕だが 左足荷重制限で全く歩けず寝たきりの生活が続いて 次第に精神状態が悪くなっていた。
僕は元依存相手に「帰ったらメジコンとレスタミンで死ぬの」と言った。そうすると「もう辛いからやめてくれ」と返信してきた。
でも1回 夜に通話をしてくれたことがある。そのとき障害が持つ人専用のマッチングアプリの「IRODORI」を教えてもらった。その「IRODORI」のおかげで僕の人生は変わることになる。(それは「天使は感動する」を読んでください)

精神状態が悪くなったことで神経科の担当医のW先生とは話す時間が増えた。長いと1時間くらい話していたことがある。
話すことが多すぎて僕はiPhoneのメモに話したいことをまとめてW先生に見せた。
「デエビゴだけだと 眠れないんです」と話すと「ルネスタ」という眠剤を出してくれた。
僕が「リハビリで聴覚過敏になって辛いからメイラックス(ベンゾジアゼピン系の安定剤)を朝食後に出してほしい…」というと「ベンゾは…うーん…」と悩みつつ 最終的には出してくれた。
僕は急性期病院にいる先生でW先生を一番信頼していたし Likeの意味で好きだった。
リハビリ病院転棟前 W先生と「一緒に写真を撮りたいです リハビリがんばるから!」というと先生は「現金だなぁ。誰にも見せないという約束だよ」と言って応じてくれた。わがままを聞いてくれてありがとうございます。その写真は今でも宝物です。会いたいです…異動してないといいな…。

転院前日

転院する病院から「受け入れます」と言ってくれて僕の転院日が決まった。僕は嬉しくていろんな看護師さんに「転院するんです」と話した。けれどそれは次第に不安になっていった。
転院前日もW先生が来てくれてお話しはしたものの 僕はすごく不安だった。まだこの病院にもいたかった。
僕は「ベッドから落ちて けがをしたらまだこの病院にいられる」という身勝手な理由でベッド柵を頑張って外し 落ちようとした。でもちょうどシャワーの準備をしに来てくれた看護助手さんが見つけてくれた。僕は泣いてしまった。「シャワー入れる?」と聞いてくれて僕は「はい」と答えた。最後の特浴をしてもらった。
シャワーから帰ると ベッドの位置が窓際に寄せられていた。

転院当日

僕は家族が家から持ってきてくれたパジャマに着替えさせてもらって ストレッチャーに移乗させてもらった。いろんな看護師さんが見送ってくれたし 同室のYさん Hさんも応援の言葉をかけてくれた。
僕の一番好きな看護師さんのTさんがエレベーターに乗るまで見送ってくれたのがすごく嬉しかった。

僕はストレッチャーの上で3か月ぶりに外の空気を吸った。飛び降り自殺未遂をしたのは8月の終わりで 転院するのは11月中旬。もう季節がかわってしまった。
一般病棟編終わり。

リハビリ病院編

リハビリ病院とは

急性期病院は基本3か月しかいられない決まりがある。
それにリハビリの時間は限られている。だから「リハビリ病院でリハビリをたくさんしてね」ってことでリハビリ病院に転院することが決まっていた。

リハビリ病院の候補はいくつかあった。僕の条件は「リハビリ病院」「精神科・心療内科がある」。そうなると日本にかなりある(と思う)リハビリ病院でも候補は4つしかなかった。
そのなかで僕はK病院にきめた。僕が勤めていた薬局でもK病院の処方箋を持ってくる患者さんがいたし。

でも僕は重症で受け入れ拒否になるかもしれなかった。受け入れしてくれても最初は個室じゃないといけなかった。
・リクライニング車いすじゃないと無理
・尿カテをしてる
・寝たきり
という理由だった。でも最終的には受け入れてくれた。ほっとした。

リハビリスタッフは数人いるけど 担当となる人がいる。僕の場合は
担当の作業療法士さんはAさんという男性
担当の理学療法士さんはMさんという女性(でも松本さんは諸事情で休職してしまい 途中からIさんという女性になった)
僕は人見知りだから最初はおどおどしていたけど しばらく経つと心を開いておしゃべりしながらリハビリしていた。

転院当初

最初のうちはリハビリ病院に慣れなかった。
夕食は5時半でそこから寝るまでが長かった。
当時僕に出されていた頓服は「ジプレキサ」という薬でその薬は数年前飲んだ時 2日くらい寝てしまう副作用があった。それに体重が増加することで有名な薬で僕は絶対に飲みたくなかった。
(その後普段飲んでいる「ルーラン」という薬に変更してくれた。)

僕は毎日泣いていた。毎日急性期病院に戻りたいと思い 神経科の担当医のW先生と一緒に撮った写真を見ていた。元依存相手にもよく「さびしい」「かなしい」「泣いてる」とLINEを送った。そのたびに「よしよし」と返事をしてくれた。1回通話をしてくれたこともあった。

ある日 ベッド柵が右側が外れていた。
僕はベッドから落ちてしまおうと考え(なんでそういう考えになったのかわからない)あの手この手をつかってベッドから落ちた。当然のことながら体の言うことがきかなかった。僕は最終的にiPhoneのアラームを鳴らし看護師さんを呼んだ。看護師さんたちはびっくりしていた。とても迷惑なことをしてしまった。ごめんなさい…。
その結果 僕は監視カメラ付きの個室に移動することになり ベッド柵も必ず4柵つけられるようになった。Aさんは「もうベッドから落ちたらだめですよ」と手を握ってくれた。

その次の日くらいに「僕の右ひじに穴が開いてワイヤーが見えている」ということをAさんが見つけた。僕は急性期病院に介護タクシーで搬送されることになった。
ストレッチャーで処置室で待っていると 整形(救命)のT先生が来てくれた。T先生は僕の足の手術をしてくれた先生で僕に「毎日来てあげるよ」と言ってくれた先生だった。
「ワイヤーが出てるから ここで抜こうか」と局所麻酔をかけて 一気にワイヤーを抜かれた。音にすると「ずるっ」という感じ。麻酔をかけたのにもかかわらず激痛だった。この処置は骨内異物除去という。(左ひじは急性期病院に入院中の10月3日に行っていた)
数日間 右ひじが激痛でごはんや歯磨きややりにくかった。

リハビリ

最初の頃は左足荷重制限があって立つこともできずにベッドの上でリハビリをしていた。12月上旬荷重制限が解除されて僕はAさんに支えてもらいながら歩行車につかまって立った。ナースステーションの前で立ったらみんなに「すごいね!」って言ってくれた。

僕は手術の後遺症で坐骨神経痛だから車椅子は大嫌いだった。(ずっと座ってると脚が激痛になる)
でもリハさんたちは「お外行きませんか」と僕をよくお外に連れて行った。外の空気は気持ちよかった。
あとはデイルームに大きなテレビがあって そのテレビはYoutubeが見れた。僕はリハさんたちと僕の好きな櫻坂46のMVとかをよく見ていた。「ダンスすごいね」とか話してた。

最初はリクライニングの車椅子だったけれど しばらくすると自走式の車椅子になった。自分で車椅子を動かせることが嬉しかった。相変わらず坐骨神経痛は辛かったけれど。(坐骨神経痛はまだよくなっていない。おそらくお尻のボルトを抜けばよくなると思っている)

リハビリ中盤

このころ? 急性期病院でお友達になったHちゃん(Xを通じて仲良くなった)もこの病院に転院してきて 一緒にお話しするようになった。

僕は「紅白に櫻坂が出るからそれをデイルームのテレビで見たい」とよくリハさんに話していた。でも正直 厳しいかなと思っていた。当時はまだ寝たきりだった。紅白まで一か月しかなかった。
一応 貸出のIpadでテレビは見れるので(無料WIFIもあるからyoutubeも見れる)ダメだったらそれで見ようと思っていた。

でもやっぱり大きなテレビで見たいから僕はリハビリを頑張った。
「歩いてみたい」と言ってリハさんと一緒に平行棒で歩いた。僕は後遺症で左足が感覚麻痺していて歩くのが難しいからオルトップという装具をはめて歩いた。最初は平行棒を少し歩くだけで疲れてしまった。ずっと寝たきりだったから体力がかなり落ちていた。でも慣れてくると病院の廊下を歩行車で歩けるようになった。

車椅子の移乗も抱えてもらうやり方から トランスファーボード(黒くて車椅子移乗のための板)を使って滑るやり方になり 最終的には支えてもらわなくてもできるようになった。

その頃には尿カテも取れた。最初の頃は尿瓶だったけれど 見守りありでトイレに行くことができるようになり シャワーの練習もした。
自分も まわりの人たちも 僕の急成長にびっくりしていた。これなら紅白はテレビで見れる!と感じていた。

そして大晦日。
就寝時間は午後9時だけど大晦日は特別に夜更かしOKだった。
櫻坂は午後8時前に出ることが分かっていたからそれにあわせて僕はデイルームに行った。見た感想はとてもかっこよかった。推し(田村保乃ちゃんという子)はとてもかわいいとかっこいいを兼ね備えていてわー!ってなった。衣装すごくかっこよかった…。また見たい…(紅白専用衣装なのか一度しか見てない)。

退院が近づいて

リハビリ病院も基本3か月しか入院できない。僕は11月に転院したから2月までしかいれられない。僕は焦りを感じていた。まだ歩行が不安定だったから。(特に杖)

Aさんに不安を打ち明けると「一週間でこれだけできるようになったから大丈夫だよ」と言ってくれた。Aさんにはよく話を聞いてもらっていた。
僕が不安定になったとき 1階の誰もいない待合室で長く話を聞いてくれたり お外で話を聞いてくれたのは忘れられないし Aさんの前で泣いたこともある。それだけ信頼してた。

退院直前 僕はかなり不安定になっていた。リハビリするときは着替えるというルールがあるけど僕はそれができなくなっていた。でも僕が調子悪いのをみんな知っていたから何も言わないでくれた。
車椅子でよく廊下をぐるぐるしていた。薬が欲しいとiPhoneのメモに「ルーランがほしい」と書いて見せたりもした。看護助手さんに「調子が悪い…」というと僕の髪を三つ編みにしてくれた。

2月には リハ室でみんなでホットケーキパーティをしたり Aさんと一緒にお菓子作り(調理訓練)をした。すごく楽しかったし ホットケーキや作ったお菓子美味しかった。

家族指導という「退院した後の自宅の過ごし方」というのを家族に教える大切なことがあった。杖での歩き方 お風呂の入り方 坂道の歩き方などをAさん Iさんが母親に実技で教えていた。母親は歩いている僕にびっくりしていた。母親は僕が飛び降りてから寝ている姿しか見ていなかったからだ。

そんなある日のこと 当時の依存相手にLINEとXをブロックされた。「もう支えられない 限界だから」という理由だった。僕はMさんという好きな看護師さんの前で大泣きし「もう誰とも会いたくない」といった。Iさんは来てくれたけど 僕が調子悪いのが分かってリハビリをやめてくれた。
僕は薬をためて元依存相手の誕生日に死のうと考えてるのを心理士さんに話した。なぜ話したのかはわからない。たぶん心のどこかで助けてほしかったのかもしれない。結果として主治医に話がいき 親にも伝わって大事になった。
Aさんは長く話を聞いてくれたし自分の過去の話も教えてくれた。
僕が死んだらリハさんたちの努力が無駄になってしまう。僕は生きようと思えるようになった。ありがとうございます。

Aさんとのおでかけ

Aさんとは3回おでかけ(外出訓練)をした。
1回目は病院近くのセブンイレブン。僕はそこで抹茶のしろくまを買った。
2回目は電車に乗って大きな公園。噴水がきれいだった。Aさんは「みんな仕事してるのに 僕こういうところにいていいのかな」と笑いながら僕に話した。僕は公園近くのファミマでメロンパンを 病院近くのセブンイレブンでしろくまを買った。
退院前日 Aさんとバスに乗る訓練をした。行ったのはイトーヨーカドーだった。ヨーカドーに入っていたLOFTでミッフィーのハンカチを買った。母親の誕生日プレゼントだった。あとはシャトレーゼであんみつを買った。とても楽しかった。

退院日

父親が車を運転してくれて 両親が迎えに来てくれた。お礼を言って病院を後にした。Aさんと一緒に行ったイトーヨーカドーで介護用の靴も買った。

K病院の看護師さん リハさん 看護助手さんたちはみんな優しかったです。先生とはちょっと波長が合わなかったけれど…。

人工関節を入れたら リハビリが必要だからもしかしたらまた入院するかもしれない。入院は嫌だけど AさんとIさんに会いたいな。

退院後の生活

外は歩行車 家の中では杖で生活している。(諸事情で今は 車いすと松葉杖。それについては「今の僕」を読んでみてください)
介護なしには生活できない。介護してくれる両親には感謝しかない。

・坐骨神経痛(ずっと座ると激痛)
 ⇧今後ボルトを抜く手術でよくなる可能性あり
・左足 下垂足の可能性(感覚麻痺 歩行困難)
・外は歩行車 家の中は杖使用 左足装具使用(歩行困難)
・しゃがめない(バランスを崩して転ぶ)
・介護用シャワーチェア使用
・家の中で手すりが必要
・リクライニングベッド使用(起き上がれない)
・スカート 靴(左)などが履けない(足が曲がらない)
・転ぶと一人で起き上がれない
・乗り物に一人で乗れない
・靴も履けないので一人で外出できない

主な後遺症

今は3か月1回 急性期病院の整形外科(救命)に通っている。担当医はN先生。

前書きにも書いたけれど 飛び降り自殺は失敗するとかなり辛い思いをする。というより 自殺そのものが失敗するとかなり辛い思いをすることになる。だからする人が減るようにと思ってこのノートを書きました。

長々としたノートを読んでくださりありがとうございました。

おまけ

点滴やお薬まとめ

8.31
沈降破傷風トキソイド 0.5mL
ソルアセトF輸液 500mL
セファゾリンNa点滴静注用1gバッグ 生食100mL付
硫酸Mg補正輸液1mg/Eq/mL
セファゾリンナトリウム注射用1g
テタノプリンIH静注250単位 250国際単位
生食注シリンジ 10mL
ヘパリンNa注5千単位/5mL 5,000単位
ミタゾラム注射液10mg 2mL
フェンタニル注射液0.5mg 0.005%10mL
オメプラゾール注射用20mg
アセリオ静注液1000mgバッグ 1,000mg100mL
トラネキサム酸10%10mL注射液
生理食塩液 50mL
生食溶解液キットH 100mL

9.1
ヘパリンカルシウム皮下注5千注U/0.2mLシリンジモチダ 5千U
K.C.L.点滴液15% 20mL
プロポフォール500mg50mL注射液
ロキソプロフェンNa錠60mg
デエビゴ錠5mg
ランソプラゾールOD錠15mg
ペロスピロン塩酸塩錠4mg
スインプロイク錠0.2mg
カロナール錠500
ピコスルファートNa内用液0.75%
ツムラ大建中湯エキス顆粒(医療用)
酸化マグネシウム原末

9.2
ネグミンシュガー軟膏
マグミット錠330mg
プロペト
ソルデム3A輸液 500mL
ブドウ糖注射液 5%100mL

9.3
プリンペラン注射液10㎎ 0.5%2L
パントール注射液500mg

9.4
グリセリン浣腸液50% 150mL
ロピオン静注50㎎ 5mL

9.7
マグコロール酸68%分包50g
キシロカイン注ポリアンプ1% 10mL

9.8
ノルアドリナリン注 0.1%1mL
ワントラム錠100mg

9.10
セレコキシブ錠100mg

9.12
グルコンサンK錠5mEq カリウム

9.20
デエビゴ錠10mg

10.2
エスゾピクロン錠1mg

10.14
メトクロプラミド錠5mg

11.4
プレガバリンOD錠75mg

11.20
ミヤBM細粒

11.12
フェルビナクテープ35ng

11.13
ロフラゼプ酸エチル錠1㎎

2.14
トラゾドン塩酸塩錠50mg

4.3
ツートラム錠50mg
メコバラミン500ug

同じものは省いています

点滴だけで診療報酬明細書がかなり分厚くなったそうです。

手術経歴

8/31
左肘頭開放骨折 骨盤輪骨折 左大腿骨頚部骨折 左足関節骨折
洗浄デブリードマン 創外固定 観血的骨折整復術 直達牽引 経皮鋼線固定
上顎前歯部歯槽骨骨折 右下顎骨骨体部骨折 左下顎骨骨体部骨折

9/3
骨盤多発骨折(両側仙骨骨折)
腰椎骨盤後方固定術

9/7
ひだり寛骨臼骨折
骨折観血的手術

9/13
左脛骨天蓋骨折
観血的骨折壁復術

9/28
左足関節不安定症 外側靱帯損傷
経皮的鋼線刺入術(足関節固定術)

10/3
左肘頭骨折術後
骨内異物除去術

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右肘頭骨折術後
骨内異物除去

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