【 Care’s World case 13 私の居場所が“誰かのために”へと繋がる 〜 You + Coffee 末吉裕子さん 〜 / -前編- 】
“ケアすることは、生きること”
そんなテーマでお送りしているCare’s World。
今回の主人公は、末吉裕子さん。
重複重度障害(水頭症 ※1 およびダウン症 ※2)のお子さんがいらっしゃり、同じような境遇を抱える親御さんが気軽に話ができる居場所づくりのため『You+Coffee』という場を不定期に開催されています。
今回はその背景などについてお話を伺っていこうと思います。
Care’s Worldについてはこちらから。
現実を見れていない(?)私
裕子:私は同じ職場で出会った夫と長男・次男・長女の5人家族です。そのうち次男は産後に水頭症・ダウン症と診断され、日常生活において介護が必要な状態になっています。
18年前、産後すぐの次男はミルクを全く飲まず、さらに黄疸(※2)が酷くなっていたので、大きな病院へ赤ちゃんだけ緊急搬送されたのをうっすら覚えています。
検査やらしているうちに1ヶ月。主治医から病気のことを告知されたのですが、泣き崩れるといったこともなく、私は現実を何となく受け入れるぐらいしかできませんでした。
本当は心の中で「泣けばいいのに…」と思った部分もあったけど、目の前の現実を一つ一つ受け入れていくだけ。看護師さんからはかなり心配されていたと聞いています。だって、笑うこともなかったし、返事もつっけんどんだったし…。告知後は手術も続き、赤ちゃんだった次男を抱っこするのに半年ぐらいかかりました。
裕子:当時、3歳だった長男は生まれつき体が弱く、肺炎などでよく入院していました。保育園の送迎もあったので、正直、心が休まる暇はありませんでした。毎日必死だったので、当時の記憶はあまりないと思います。
ただ、これだけは言えます。「頑張った、私」「そして、まだ頑張っている」って。夫とは「子供が3人ほしいよね」と話していましたが、次男の病気のこともあり、話し合いました。結果「次に生まれてくる子に病気があったとしても、一緒に頑張ろう」と決意し、長女が誕生します。
その後、今後の暮らし方や働き方について考え、夫婦揃って転職することにしました。実は、次男の病気について告知を受けた際、主治医に「私、この子(次男)を看ながら働けますか?」と尋ねたのですが「お母さん、現実がみれていませんよ」と言われたんです。でも、それを鵜呑みにできなくて「いや、絶対働ける!」と思い、転職後も仕事を続けました。
頼る勇気をもち、解していく
裕子:長男と長女には私から「次男は障がいがあるんだよ」と説明をしたことはありません。自然と一緒に遊んでいましたし、ご飯を食べさせたり、オムツを変えたがったりと、普通に兄妹としてコミュニケーションをとっていました。それはとてもありがたかったです。
苦労したのは、周囲の人たちに私たちの置かれている状況をどのように伝えればいいか、でした。まず、どこから説明したらいいのかわからない。一部分だけ切り取って伝えても誤解を招く可能性がありますし、全てを伝えても長すぎて理解を得られないかもしれない。状況を理解してほしいけど、だからといって「大変だね…」という言葉がほしいわけでもないんです。
私自身、人に対して無意識にバリアを張るクセがあるからか、周囲にうまく話せずにいました。そんな誰にも吐き出せないことをブログで発信する時期もありました。今、読み返すと「毒吐いているな〜」と感じます(笑)。「わかってくれ!」という気持ちが強かったんだと思います。自分がまとめた内容を本にしてくれるサービスもあり、自分用に本にもしました。
裕子:ブログを書いていた時期の写真を見ると「誰も私に触れないで!」「私、一人で生きていけます!」「誰の助けもいりません」といったオーラを纏っているのがわかります。
そんな私が人を頼るようになったのは、仕事と家庭と介護をこなすのに限界を感じたからです。両親や専門職の方にヘルプを頼み、そこからプライドの高かった私の思考と心が解れました。世界は優しい。こうやって自分の世界は広がっていくんだ。頼る勇気を振り絞り、一歩踏み出したことで、そんなふうに感じました。
何より、私にとって当時の居場所は仕事だったんです。介護や子育てのために家の中にずっといることは無理でした。だから「外に出たい」「仕事をしたい」と思っていたんだと思います。
それでも気持ちがイライラする日もありました。そんな時は、イライラを笑いに変えたり、家族と距離を置いたりして自分をほぐしてきました。昔の私に何か伝えるなら「ガチガチだよ、もうちょっと手を抜いてみたら?」と伝えたいです。
(後編へ)
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