【 Care’s World case 07 全ては繋がる。自己表現を通し、つくりだす自分たちの空間。 〜 HUNKA くぼやままさこさん 〜 / -前編- 】
“ケアすることは、生きること”
そんなテーマでお送りしているCare’s World。
今回の主人公は、熊本県水俣市を拠点に夫婦で『HUNKA』の屋号で音楽やシルクスクリーンプリントなどを用いた表現活動、個人ではイラストレーターをされているくぼやままさこ(hunka.m)さんです。
Care’s Worldについてはこちらから。
過去の自分も、今の自分も、受け入れて前へ
まさこ:イラストレーターとして活動をしていますが、水俣に関わるまではプライベートで絵を描くレベルでした。プロになるためではなく、衝動的に描いたり、自分を癒やす術、としてです。
福岡の大学に在学中は「空間をつくりたい」と思い、インテリアや建築を学んでいました。その後、東京へ行き、楽しく過ごしていましたが、いろんな出来事が重なり、鬱になってしまったんです。
仕事を辞めて、何もしていない時期は、病気療養をしていました。お家で寝ていたり、通院したり、カウンセリングにいったり。正確には「何もしていない」というか「何もできなかった」状態でした。
そんな中でもできたことが刺し子や編み物という「手を動かし、創作すること」でした。さほど意味はなく、ただただ感情もなく「創作する」という動きに癒やされていました。
創作する中で、絵を描くことも続けていたのですが「あー私の絵は一般的に上手くなくて、人に褒められるようなものではないらしい」と自覚していたので、誰にも見せませんでした。人に見せる必要性がない。そう感じていたからでした。
自分のケアで描いたものを人に見せたりするのは他人には関係ないし、迷惑かな、評価を求めるのはエゴかな…。そんなふうに当時は思っていました。絵を描くことは大好きだったので、幼い頃はスケッチ大会などには積極的に参加していました。
まさこ:結婚を機に水俣に移住したのですが、水俣との関わりはそれより前からで、12年前ぐらいになります。
当時、熊本の環境系のNPOに関わっていて、結婚式や葬式で使用され廃棄するような蝋燭くずと保育園で使って小さくなってしまったクレヨンをリユースしてカラフルなキャンドルを作る取り組みを行っていました。
それで水俣との繋がりができ、現地の人から水俣病の背景を初めて聞きました。学生時代に学んだ教科書では悲しい部分しか載っていなかったので、その前後のこと、様々な変遷を経て、今の美しい海や日々の暮らしがある。それを知った時、純粋に「すごい…」と思いました。
その時の私は、2~3年ぐらいひどい鬱の状態が続いていました。「社会復帰したい」という前向きな気持ちがありつつも、鬱に対する世間の目が気になっていたんです。
そんな自分も自分だ、過去の自分も、今の自分も受け入れて肯定しないと、前に進めない。無かったことにしてしまうと、色々と辻褄が合わなくなってしまう。そう思っていたタイミングでもあったので、なお一層感銘を受けたのを覚えています。
はじめは、水俣もそういう負の出来事を乗り越えて今があるんだなぁ、と感銘を受けたけど、実際に水俣に住んでみたら、水俣病の問題は終わっていないし今もなお考えていきたいことがたくさんありました。
それで、水俣病のことを勉強したり、考えたり、環境学習の案内もするようになり、HUNKAとしても、こういったこともテーマにして形にしていきたい。そう思い、現在も活動を続けています。
それが“私の普通”
まさこ:水俣に足を運ぶようになり、Uターンや移住をして、地域を盛り上げようとしている同世代の人たちとも知り合うようになりました。
気がつけば、月に一回が、週に一回通うようになるほど、水俣に引き寄せられるようになっていました。そして、通っているうちに、夫の木下くんと出会ったんです。
そんな中で、周りの人から「まちゃこ(※)は考えすぎなんだよ」と言われることがよくありました。ひどい時は「マイナスなオーラがうつるから、近づかないで」と言われたこともありました。正直「そう言われてもな…」と思ったこともあります。
変えようと思ってもなかなか難しいし、それが私の普通だよな、それでいいよな、と気が付いたら、楽になりました。
だって、それが私の性質だし、それでやっていくしかないんだから。そう思えるようになったのは割とつい最近です。それこそ、仕事でイラストを描くようになってからかもしれません。
まさこ:夫と始めた音楽も、そんな自分を思いっきり表現できることの一つだなと思っています。
「もっとおもしろいことしたいけど、周りの目が気になる…」「もっと自分を出したいけど、いまさら…恥ずかしい」「上手くないとやってはいけない気がして」と、エネルギーを溜め込んでしまっている人が多い気がして。
そういった鬱屈とした雰囲気や流れを変えたいな、みんなと楽しみたいなと思って「まず進んで恥をかいてみよう」と思いました。そんな気持ちで毎回ステージに立っています。
音楽はずっと好きだったけど、何もキャリアもありませんでしたし。それでも「音楽をカタチにしないと、このままじゃ死ねない」と思ったんです。そう奮い立たせ、一歩踏み出せたのは夫の存在が大きかったです。
(後編へ)
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