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宗教とは

全てのものには神様が宿っている「八百万の神」という考え方をなんとなくどこかで耳にしたことがあるような気がするけれど、その言葉からイメージされる神様はめちゃくちゃ日本人っぽいビジュアルをしている気がしないだろうか。イエスキリストの名を聞いて、織田信長みたいな見た目を思い浮かべる人はいないだろうし、神社に行って「神様お願いします!」って言いながら金髪の青い目をした人間を思い浮かべることもないだろう。

調べればほとんどのことが手の中に出てくる時代になってもなお、人は目に見えないものに拠り所を求める。

神様とはなんなのだろう。仏様とは、何者なのか。


はじめに

文化庁の調査によると、現在トータルで2億1000万人ほどの信者数が各宗教団体から報告されている。その内訳は、神道系約1億860万人、仏教系約9350万人、キリスト教系約220万人、その他約960万人である。日本の人口は約1億2500万人程度なのに、なぜか人口よりも多く信者と呼ばれる人がいることになる。一方、世論調査のデータを見ると日本人で「なんらかの宗教に入っている」と回答している人は1割ほどで、人数にして約1000万人ちょいということになる。

データで見るともう何が何だかって感じだが、宗教に無縁な私のInstagramで集めた結果や日常生活を送っている上での体感でいくと、世論調査のデータの方が信憑性が高いような気がする。(添付画像アンケート回答者100名)

「宗教と政治の話はするな」「宗教と野球の話はするな」などと教えられることがあるくらい、日本では話題としてタブー視されている宗教だが、そういった背景も考えると日本人の1割が特定の宗教を信仰しているというデータの方が正しかったとしても、それは決して少なくないのではないだろうか。


SNSビジネスやマルチに引っかかる奴ら、なんでなん?

春は出会いの季節。
出会いは良い効果をもたらすこともあれど、一転その人の人生を大きく狂わせてしまうこともある。マルチ商法にハマっていく人やギャンブルなどにハマっていく人を見るたびに、何でそんなことが起こる?とついつい思ってしまうが、自分がそうならない保証は無いし、目先のおいしい話に食いついてしまうこと自体はあり得る話だと思うのでついつい哀れみの目を向けてしまったりする。

弁が立つ、特別なように見える人間にまんまと飲み込まれていく「特別になりたい人たち」を、もう何人見てきただろうか。

最近では、いわゆるフェミニズムやヴィーガンなども日本で普及してきているが、その中には本当にそれが訴えたいことの本質なの?と思ってしまうほど過激なものも見受けられる。誰かのそれっぽい言葉の上澄みを鵜呑みにして、それの真偽や実態を確かめないままに声を上げることは、時に本来伝えたいことが伝わらないどころかマイナスに作用してしまうこともある。

共有と強要は、同じようで全く違うものであるということを理解しないままに自分たちの主張を押し通そうとする姿は、決して大衆に受け入れられるものではないだろう。

それでも、主に若年層がそういった過激な主張とともに自己の確立を求めていく背景には、「人と違う何かにならなければいけない」といった、他者の承認やなんらかの活動に依存しなければ成り立たない「満たされなさ」が存在し得る。


迷子

何が正しいのか分からない、自分が分からない、という状態に陥ることはよくあることだと思う。自己啓発本や、成功者の名言などをまとめた本などが売れ続けるのはそれが理由だろう。先人や成功者が言っていることはなんとなく的を得ている気がするし、人生の教科書とまでは言わずとも、誰かの生き様に自分を反映させてみたりすることもあるのではないだろうか。

マルチ商法が息長く続いていったり、やたらと過激なソーシャルな活動が目立ったりするのは、そういった本が売れていくのと近いような気がする。自分の中に無い答えを、自分の内側ではなくどこか外に求めているような、そういった感覚。

なんでだろうな〜と考え始めてからここに至るまで5分くらいだったが、私はここまで考えて、

「日本人もしかして宗教あった方が上手くいくのでは?」

と感じた。

教祖を作って、それが全て正しいと信仰することは独裁を生みかねないという懸念や、統一した思想を持たせる危険性ももちろん理解しているが、それでも。目に見えない情報と生きる時代の指標として、宗教について学ぶことは割とアリな気がする。


ヒントとしての宗教

もう少し噛み砕いていく。

アリなのでは?とか言いながら別にそもそもナシじゃない話なので、私が今更ドヤ顔で書き殴ることでもないのかもしれないが、日本人の不安定さや他者依存が強い性質は、宗教と結びつけて考えるには充分な要素を満たしているように思えてしまう。

例えば、私の知り合いに日本人のクリスチャンがいる。キリスト教系の学校に行って普通に生活していた結果クリスチャンになった、という日本でなんらかの宗教を信仰している(信仰しているとまでは言わなくても親しみがある)人の中では最も多いパターンではないか。

彼女は愛という言葉をやたら多用するし、聖書の言葉を用いて私に指摘をすることもあった。「神の教え」としてまとめられている聖書に根拠はなく、なんとなく良いことっぽいけどそれが本当に良いことなのかどうかは受け手に委ねられている場合がほとんどだ。それでも、世界で1番売れている本が聖書であることからも分かるように、多くの人がその教えを自分の中の軸として信じている。

おそらく、他の宗教もそういった様相なんだと思う。

自分の中で判断を迷った時や、自分がブレそうな時、一つの指針が比較的明確に存在する宗教的な考え方は、自己の確立の過程で他人からの見られ方を気にしすぎてしまう日本人的な国民性を助けるにはポジティブな役割を果たしそうだ。


次の普通を作ること

私は政治を横目に見る生活をしているのだが、政治と宗教はやはりどこか似ている。政教分離という言葉がなぜ存在するのかも、その2つの類似性を見れば納得してしまうほど関心のベクトルが近いように思う。

私たちがすでに生きている「これからの時代」は、なんとなくタブーだから触れちゃいけない、として日の目を見なかったものが意図せず目の前に現れてくる。政治も、宗教も、性の話も、どんなに偉い人たちが知られたくなくても、どんなに自分が知りたくなくても、ふとした瞬間に流れ込んできてしまうことがある。

そして同時に、世の中でなんとなくタブー視されていたものに自分の手で触れに行くことができる時代でもある。「なんとなくダメ」なものは、その時代の「なんとなく偉い人」たちが「なんとなく知られたくない」ことで、「なんとなく知らなくても生きていける」ことだったりする。

全てに目を向けることが良いことだとは思わないが、今あらゆることが、「なんとなくタブー視されているからダメ」というバリアから解放されつつあるように思う。同性愛だって、愛が本能なのであれば50年前には確実に存在していたはずなのに、その単語が市民権を獲得したのはつい最近のことだ。きっともう私と同じ様な年代の人間は、友達が同性愛だとか異性愛だとか、特に気にせず付き合えるようになってきているのではないか。

時代とともに移り変わる「当たり前」や「普通」の広がりは、特別な人をマイノリティーにしてしまうのではなく、ひとりひとりが特別なんだということを自覚するために存在するべきであって、普通の枠が広がることで己の存在が小さくなるようなことは無い。多くの若者が年を重ねるたびに世界が広がったように感じているのに、自分だけ何者にもなれていないような気がしてしまうのは自己の確立が追いついていないだけなんだと思う。

そういった自己の確立の手助けの手段として宗教が存在するのであれば、ハマらない程度に嗜んでみるのも良いのでは無いだろうか。熱烈な信者には失礼な話に聞こえるかもしれないが、無宗教を標榜する日本だからこそ、都合良く宗教を使うことも悪いことではないだろう。

きっと、普通じゃない場所に次の普通は待っているような気がする。

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