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【個性的でない個性的な文章の書き方】俳句的を読んで(2章-5.6.7のまとめ)

 引き続き、「思考の整理学」の著者、外山滋比古先生の「俳句的」のまとめである。今回は5項「視点」、6項「よむ?」、7項「点と点」についてのまとめである。

 ここで、小生の心に深く刻み込まれている句をご覧いただきたい。

かげろうや目につきまとうわらひ顔 小林一茶

 この句は「陽炎(かげろう)」、「付きまとう」、「笑い顔」という語のかたまりで、できた句である。それぞれの言葉を単体で見ると、どちらかと言うと「プラス」の意味合いに感じ取れるものが多い。

 しかしこの句が書かれた書簡には、この句の前書き(句の内容を補足する文言)が付いている。それは

「みどり子の二七日の墓」

である。みどり子とは嬰児。3才ぐらいまでの幼児のことである。

つまりこの句は「死んだ幼子のための墓参り」の句なのである。

 二度と見ることのできない死んだ実の子供の笑い顔。一茶はその絶望をマイナス的な意味合いの言葉を使わずに、表現しきった。

 これが俳句の神髄である。そして、本項では、この一茶の句のような、悲しいことを悲しい言葉を用いず、表現する方法として「言語的ポアンティイスム」を紹介している。

 短詩型文芸に携わる人たちには、特に読んでいただきたい箇所である。


・子規に捨てられた俳人「加舎白雄(かやしらお)」から学ぶこと(5項P73)

(優れた句を残しながらも、子規の目指した西洋文学的な俳句の価値観と相対する、芭蕉的な句風を誇っていたため、閑却されていった俳人加舎白雄の存在を著者は『白雄の秀句』という本で知る。その上で記述する)

 私はかねてから子規が視覚の詩人であったことに注意していた。そのために耳の詩が近代から失われていることを惜しむ気持ちをもっている。『白雄の秀句』を読んで、この俳人が耳の詩人であることに気づく。子規が扱いかねたわけが、それなりに分かったように思われる。和語の多いのは、耳の詩人の本質にかかわりをもつ特色であろう

中略

 明治からの俳句の歴史が子規に始まっていることには異論があるまい。近代俳句の歩みは少しずつ子規から離れる道をたどってきた。新しい可能性を求め求めてようやく”現代俳句”を探し当てたと思ったら、そこに忘れられた俳人がいた、というのは歴史の皮肉である。子規にすてられた白雄が、子規を越えようとする俳句にとって、 きわめて、近代的に感じられるのは不思議でも何でもないはずだが、やはり、びっくりする。われわれは自然に対して新しい目を向けると同じように、作品、伝統にも絶えずとらわれることのない澄んだ視線を注ぐようにしなければなるまい。
くらき夜はくらきかぎりの寒哉 白雄
とし四十蜩の声耳にたつ 白雄
行雲や秋のゆうべのものわすれ 白雄

・短詩型文学を散文的に読んではいけない(6項P77)

(第二芸術論のおかしさを感じながらも、何処がおかしいのか上手くわからないでいた著者。20年が過ぎて、ふとその原因に思い至る)

 このごろになって、ようやく、そのおかしさの依ってきたるところは、案外、俳句の読み方にあるのではないか、と思うようになった。外国語の活字をにらんで読む。――これはおそらく読みの極限状態であろう。わからなければ、辞書を引く、注釈を参考にする、文法の助けもかりる。とにかく、活字を攻めていって何とかわかる。頭で読むほかない。これはつまり散文の理解の仕方である。局外に立った人間の読み方である。俳句でこういう読み方をすれば疑問は雲のように湧いてくるだろう。そもそも何を言っているのかもはっきりしない。これで独立した表現と言えるだろうかという疑問も生まれるかもしれない。第二芸術どころではない。われわれにとって外国語の読み方が最も先鋭な意識に支えられていて、その限りでは知的にもすぐれた読みの方法である。それを俳句に適用したところに悲劇があった。
 それというのも俳句の読み方がはっきりしていないからである。どうしていいかわからないから、つい、散文の読み、外国語の読みを流用してしまう。目と頭だけで分かろうとする。それが俳句にとって、いかにひどい仕打ちになるか、考えられなかったのではあるまいか。

・もともと文字とは「ことばの影」(6項P78)

 活字印刷になれきってしまったわれわれは、詩歌に対してあまりにも近代読者的でありすぎるように思われる。もともと文字はことばの影のようなものである。影だけをどれだけ忠実に追ってみても、本体をとらえることはできない。散文は影と実態が一致しているから、文字面からでも心を汲むことができるが、詩歌では心に響くものがなければ、何もならない。ひょっとすると、俳句は読んではならないのかもしれない。

・詩歌において強すぎる自我はマイナス(7項P79)

 俺が俺がという俺などは個性としても上々のものではなさそうである。自分を抑えに抑えて、しかもおのずから光を放たずにはおかぬのが、本物ではあるまいか。

・個性を感じさせない個性の表現法「言語的ポアンティイスム」(7項P80~81)

 個性を感じさせない個性の表出の方法があるに違いない。そう考えているうちに、ポアンティイスムこと点描画法のことが思い浮かんだ

中略

 点描画法でポツンポツンと色の点を相互に適当に離しておくと同じように、鮮やかな言葉と言葉とを、対比的に、しかし、ある程度接近して並べると、それぞれの語が単独にはもち得ない新しい情緒を発する。また、それぞれの語をもっていないある光輝を感じることもできる。用いられているのは自然の非情の事物を指示する語であっても、これが前後の対比的な語と相互に作用し合うと、独特な情緒効果を出すことができる。

中略

 別の言い方をするならば、客観によって主観を表わす方法論のひとつが、この言語的ポアンティイスムということになる。たとえ、どんなに悲しくとも、十七音の字面に悲しさが顔を出しては、俳句らしさは死んでしまう。外見的にはどこにも悲しさや、それに類する言葉の姿が見えないでいて、一見いかにも、花鳥風月に遊んでいるようでありながら、しかも、空間から惻々たる哀愁が迫ってくる、というのが俳句の叙情である。

・ちょこっと解説

①バイオリンの音が美しく聞こえるのは、弦の微かな震えを共鳴箱が増幅させているからである。俳句も一語一語が発する言葉の震えは小さいが、読み手の心に、調律された状態で届くと、何倍にも震えが増幅されて響く。これが俗にいう、感動する俳句である。俳人はこの「言葉の震えの増幅する調律」を句作の中で行っているのである。

②本項では、個性的であることがあまりよくない風に書かれているが、それはあくまで、俳句における個性のことで、実生活とは違うことをご留意いただきたい。

・「俳句的」前回のまとめ記事


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