マガジンのカバー画像

創作の糧(皆様の気になった記事を紹介)

98
ライティングや創作のヒントになるような記事。特に再読したい記事をスクラップしています。素晴らしい記事を集めています。ご参考になれば幸いです。
運営しているクリエイター

#エッセイ

【エッセイ】初代ローマ皇帝アウグストゥスの最期の言葉

初代ローマ皇帝アウグストゥスの最期の言葉をずっと不思議に思っていました。 最期の時、友人に「私がこの人生の喜劇で自分の役を最後までうまく演じたとは思わないか」と尋ね、「この芝居がお気に召したのなら、どうか拍手喝采を」との喜劇の口上を付け加えたといわれています。 皇帝と名乗るからには、王よりも偉く帝国を統治していて、とても厳つい人間のイメージがあります。だから、ローマの国作りが喜劇の舞台で、アウグストゥス自身が喜劇役者で上手に国民を笑わしている姿は想像しにくいからです。

言葉はどこに

ボードレールは、「詩人が一人の批評家を含まないことは不可能だ。私は本能にのみ導かれる詩人たちを憐れむ。私は彼らを不完全なものと思うのだ」と言葉をのこしたし、「哲学について勉強するのではなく、自分で哲学しようとすれば、哲学でも芸術論でも同じことだ。丁度、あなたが彫刻を作るのと同じだ。それは、哲学論文風にではなく、詩のようにしか表現出来ないものだ。ぼくら文筆家にとって、言葉は粘土のようなものだ。それをこねあげて、真実に迫る。それは詩人の仕事です」と矢内原伊作が言うと、ジャコメッテ

星野くんの「二塁打」/道徳に反して成功した人を評価すべきか

ご存じですかね、星野くんの二塁打。 道徳の授業で取り上げられていたらしいので、ご存じの方も多いかもしれません。わたしの記憶には凄く、薄く。通っていた小学校では取り上げられていなかったか、もしくは道徳の授業が退屈で聞いていなかったかで、どこかで聞いたことあったかもなー、レベルでした。 舞台は旧制中学での甲子園をかけた野球の試合の一幕でして、授業では、監督の指示に従わなかった星野くんは正しいか否か、みたいなことがテーマになることが多いようです。 要約はこんな感じ ・1 R

絵描きからの問題です

突然ですが、これは何を描いたのだと思われますか? 絵は観る人の自由。 受け取り方や、その時の感情で、その姿は変化する。 それで正解!なのです。 この作品は、破壊好きの絵描き自身が大切にしている、もう一つの作品なのです。 一応、思い浮かべて描いた、一つのモチーフが存在します。 この子、どの場所でお披露目しても、観る人の頭上に???が飛び交うようで、必ず必ず必ず、「何?」と訊かれます。 大きな絵の混沌は、分からないという事自体が理解されても、F0サイズの小さな絵は、何とか理解

金曜日の随筆:江戸時代の三俳人

また運命を動かしていく金曜日がやって来ました。2021年のWK26、水無月の肆です。本日は、俳句の歴史をさらっとなぞった後、江戸時代の三俳人について纏めます。 『俳句』になったのは明治時代『俳句』は、季語の含まれた五・七・五(十七語)の定型詩です。『俳』という字には、「こっけいなこと、おどけ。(小学館デジタル大辞泉)」という意味があり、俳句を読む人は『俳人』と呼ばれます。 『俳句』とは「俳諧の発句」の前後を取った略語で、明治時代に正岡子規(1867/10/14-1902/

「千年前の言葉の生まれ変わり」に出会った話

言葉は生き物だ。 次々に生まれて、しれっと変化して、ひっそりと死ぬ。 もちろん、私とて生き物であることには違いないので、日々変化しながら生きている。 言葉の世界で生きる自分の変化として大きかったのが、「若者言葉が分からなくなった」のを自覚したこと。 中高生が通う塾で働いているため、身近には若者言葉が溢れている。 生徒が授業の感想を書く紙があるのだが、そこには個性豊かな若者言葉が並ぶ。 そして、いつからかそれについていけなくなった自分を自覚した。 今までは、若者言葉(含:

古本は、タイムスリップだ。 

わたしは古本が好きです。 買う本のほとんどが、じつは古本。 安い、というが1番の理由です(^^) でも、もうひとつ理由があって、 古本は、タイムスリップだと思うんです。 深田久弥の「日本百名山」。 2年ほど前に古本屋で買いました。 後ろを見ると、消費税がない。 奥付を見てみましょう。 「昭和53年11月27日発行  昭和62年11月25日18刷」 消費税は平成元年に導入されたから、まだこの頃は表示されていないんですね。 初版は昭和39年ですが、著者の深田久弥は、百名

俳句をしないひとの意見

わたしのまわりの家族、友人は、誰も俳句をしない。 俳句をはじめて1年くらいは、先生に評価された俳句、句会でたくさん褒められた俳句を、家族のグループLINEに送っていた。 すると必ず、「どういう意味?」と聞かれる。最初のうちは、がんばって説明していたが、だんだん面倒くさくなってきて、LINEに送ることをやめてしまった。 年会費はわたしが払うから、自分の所属している俳句結社「蒼海」に入らないかと家族を誘ってみたりしたが、「面倒くさい」「恥ずかしい」「無理だ」などと言って断ら

自分の感受性くらい自分で守ればかものよ。

詩人茨木のり子氏の詩、「自分の感受性くらい」の一節。 自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ 初めてこの詩に触れたとき、衝撃を受けた。 自分が鈍くなっていくこと、 ぎすぎすしていくこと、 目指すところと離れていくこと、 すべてを「何か」のせいにするな、という詩。 厳しい… 厳しいけども。 納得。 人のせいにしたり、環境のせいにしたり、時代のせいにしたりして、「仕方がない」って言いがちだけれど。 何を「感じ」て、何を「感じない」かは、自分で選べることなんじゃないだ

誕生日を過ぎても(4/20の夢)

誕生日。かつてあんなに楽しみにしていた日が、なんとなく煩わしくなってしまったのはいつからか。 それでも、60の還暦を皮切りに、人は再び誕生日を祝い事にする。生まれ変わって0からやり直すのなら、100歳だってまだ40の壮年か。 そうなると、91で亡くなった祖父も、まだまだ人生やり直すことを考えても可笑しくはないのだ。例えば私(の夢)の中ででさえ。 朱色の折りたたみ傘で、雨の中を祖父母宅へ。傘を玄関でたたみながら、この傘は母が昔持ってたような傘だと思い出す。玄関に貼ってあったか

大人げのない文人たち

 文章が人格をあらわすとすれば、書き表したものは年相応の経験が反映されて然るべきだ。若書きという言葉があるように、若い頃は思いが表現に先行して筆が滑りがちになる。私自身、若いころは論理性のかけらもない、わけのわからない文章ばかり勢いで書いていた。若い芸術家であれば舌鋒鋭く、感性を思うがままにぶつけることができる。しかし、尖ったロックミュージシャンも、中年壮年になればたいがい、やさしく丸い音、愁いを帯びた歌詞に変わってくるものだ(多少の例外はあるだろう)。同じように、ものを書く

掛け算

濁る恐怖に未だに控えめな私は 奥底からやってくる不自然に疑問を持つようになった。 理解出来ない頭の中を撫でて可愛がる。 穏やかな月を眺めていた時私は掛け算をした。 私と月を掛けたくてまた解けない問題に遭遇する。 髪の毛からはネクタイが生えてきて ご満足前の表情を浮かべている。 空気は冷たく人通りの少ないデカイ公園に辿り着いた。 まだ17時なのに上を見上げても下を見下げても暗い。 壮大に緑に囲まれ木からは月の明かりが灯す。 歩いていたら現代の風を感じられる。 さようならと手を振

「クリエイティブ」のこと

 今回は、「クリエイティブ」に関する文章を書きました。夢大の経験をもとにしています。拙文ですが、最後まで楽しんでいただければ幸いです。 4月より北海道大学の学生となった。読者の皆様には、これからもよろしくお願いいたします。  さて、私は高校生の頃、利根沼田夢大学という活動をしていた。よく地元でも、高校でも「なにそれ?」と聞かれた。そして僕はその度に説明に苦労したものだ(聞いてみたら、一緒にやってきた一つ下のスタッフも「説明できないっすよね」と言っていた。同感)。  僕としては