見出し画像

私にとっての留学と、"当たり前"

アメリカの大学生活も、3年目に入りました!(実は3年目ももう半分終わろうとしているけれど。)

日本語だったらもっとわかるのに、もっと発言できるのに。1年目は、クラスの内容が面白い分、100%理解できない、考えたことをそのまま伝えられない自分がもどかしく、「なんでわざわざアメリカに来ちゃったんだろう」と思うことも少なからずありました。

そんな必死に過ごしていた日々を経て、生活や英語に慣れていくうちに、留学をしてよかったなと心から思えるようになりました。自分がコントロールできないことばかりで予定が手からぽろぽろこぼれているような気持ちになる日本の生活と比べても、自分の時間を自分のために使える今の生活が気に入ってきています。

そんなタイミングで、2年間の留学を通して形になった私にとっての留学の意味をまとめておきたいと思います。

留学の意味を改めて考え直したきっかけ

きっかけは、同じ海外大学進学用の塾に通っていたあむちゃんの書いた記事「なぜ日本ではなくアメリカの大学に進学する必要があったのか。」を読んだことでした。(あむちゃんが所属する、海外大学のリアルを配信している団体シェアブロードが運営しているメディアはこちら

高校生の時、面談準備の原稿や奨学金の応募書類に散々書いた”私の留学の動機”と、実際にアメリカで生活をする中で得ているものが少しずれていることには気づいていたけれど、それがまだ言語化できていないモヤモヤを、改めて思い出しました。

それから何日か経った今日、そのモヤモヤが私の中で昇華されずに残っていたのか、留学を通した私の経験が突然言葉になったので、今の留学生活を最大限に意味のあるものにするために、また将来の自分のためにも、忘れないようにまとめておこうと思います。現在留学中の人で同じような気持ちを抱えている人がモヤモヤと向き合うきっかけや、これから海外留学を考えている人の参考に、ちょっとでもなれば嬉しいです:)


私にとっての、留学の意味

私が留学をしてよかったなと心から思える理由は、3つあります。

①当たり前だと思っていたことが当たり前でないことに気づかされる機会に多く出会えること
②当たり前ではないことに気づいた上で、それに関する価値観や考え方を取捨選択するために、自分の判断軸を持つことが求められること
③環境に関わらず見過ごしていた"当たり前"に気づく力と、物事を自分の軸で判断する習慣が身についた(き始めた)こと

これらについて1つずつ、私の経験を交えながら説明したいと思います。(ここから出てくるのはインディアナ州のとっても田舎な大学に通う一個人の経験談なので、アメリカ全体がこう!と言っているわけでも、日本はこう!と言っているわけでもありません。)


自分の中の当たり前が、当たり前でなくなる瞬間

①当たり前だと思っていたことが当たり前でないことに気づかされる機会に多く出会えること

アメリカの大学で生活する中で、自分の中の当たり前が通用しないことに気づく瞬間が多くあります。海外で多くの人が経験すると言われる「カルチャーショック」も、その一つだと思います。

私が経験したカルチャーショックの例で言うと、寮だけではなくフロアさえも性別で分かれておらず、自分の隣の部屋に男の子4人が住んでいたことや、ビュッフェ形式の食堂で、口に合わなかったり食べきれなかったご飯をなんの躊躇もなくゴミ箱に捨ててしまうことなど。どちらももう見慣れてしまった光景ですが、初めて遭遇した時はかなり驚きました。

「カルチャーショック」とはくくらずとも、文化や歴史を背景とした価値観や考え方の違いには、今でも日々遭遇します。

アメリカの文化の中で私が素敵だなと感じるものの1つが、家族を大切にする文化です。昨年や今年のアメリカ人のルームメイトは、毎日のようにお母さんと電話をしていたり、悩みや心配事はすぐに両親、兄弟に相談していました。また、母の日や父の日には、自分と両親のツーショットがインスタグラムに多く投稿されます。

このように、それはどうなのかな?と思うものから、素敵だなと思うまで、生活を通して様々な違いに出会います。


当たり前に対する考え方の変化

②当たり前ではないことに気づいた上で、それに関する価値観や考え方を取捨選択するために、自分の判断軸を持つことが求められること

自分の中の当たり前が必ずしも当たり前でないと気づいてしまうと、自分の行動を「当たり前だから」「常識だから」でくくることができなくなってしまいます。今まで当たり前だと思っていた行動や習慣、考え方を継続するために、自分なりの理由が必要になってしまうように思います。

今まで当たり前ではなかった価値観や考え方に出会った時にも、それらに対応するために自分の判断軸を持つことが求められる気がしています。

そのような理由から、それまで当たり前だと思っていた自分の考え方や価値観が、アメリカに来てから変わった例は多くあります。


例えばタトゥーに対する考え方。私の大学には、アメリカ人に限らずタトゥーをしている学生が多くいます。大切な家族への想いや自分の信念をタトゥーに込めている人もいれば、ファッションとして楽しんでいる人もいたりと、彫る理由も様々です。アメリカに来る前の私は、タトゥーに対しても少なくとも何らかのネガティブなイメージを持っていたように思います。しかし、タトゥーに対するそのようなイメージが当たり前ではない環境に来たことで、自分が持っていたタトゥーのイメージについて考えさせられ、今はもうネガティブなイメージはありません。


また、女性の立場についての関心度も、日本にいた頃と比べて高くなりました。

アメリカに来て私が驚いたことの一つは、社会における女性の立場について、多くの女性が何かしらの意見や疑問を持っていることです。自分が所属するソロリティ(日本語訳は、女子社交クラブ。私のソロリティには70人程が所属していて、1つの大きな寮で共同生活をしながら交流を深めたり、ボランティアや社会貢献のための募金活動を目的としたイベントを企画したりする)のワークショップで、ソロリティの一員として、女性として、そして地球市民としてどのように行動すべきか、といった内容を扱いました。

そこで、"What makes you mad as a woman?"(女性として怒りを感じることは?)といった問いかけに関して、自分が話したパートナー含め多くの友達が、様々な女性の立場に関わる多くの問題(賃金の不平等や、能力を正当に評価されないこと、女性のステレオタイプによって特定の立ち振る舞いが社会から期待されていることなど)を挙げ、さらに"That makes me really mad!"(それに関してすごく怒ってる!)と怒りの感情を表していました。普段そのような会話をしているのを見たことがなかった友達も含め、多くの人が女性の立場について自分なりの意見を持ち、さらに怒りを感じていることに驚きました。

私は高校2年生の時に、ある大学のロースクールのオープンキャンパスで、女性に対する法律の不平等に関するワークショップを受けたことがあります。男女どちらかの名字を選ばなくてはいけない現行法や、実際に男性の名字を選ぶ確率が圧倒的に高いこと、すでにキャリアを積んでいる女性にとって名字を変えることで不利益が起きてしまうことなどを学んだ上で、現行法を変えるべきか否かをグループで話し合う、といったような内容でした。最終的に大多数のグループが現行法を変える必要がない、という結論を出し、当時の自分も「そんなに大した問題じゃなくない?」という感想を持っていました。

アメリカでのワークショップに参加しながら、社会における女性の立場に無関心な人が多くいることが当たり前だと思っていた過去の自分を思い出し、私は女性として、女性の立場についての自分なりの意見を持っている人でありたいと思いました。


大学生活の中で最もショックだった出来事は、自分の人種に関する教養の無さに気づいた瞬間です。

2年生の春学期、キャンパス内で、人種差別を含む事件が1週間の中で5回ほど起きる出来事がありました。アフリカンアメリカン(黒人)を指す差別的な呼び方が男子トイレに落書きされていたり、ある生徒が人種差別として捉えられる態度をとってしまったり。インパクトの大きな出来事が続いて、デモが行われたりもしました。そんな中で、人種問題は自分が理解していたよりももっと根深くて、学校で学んだ歴史や知識は本当に表面的なものであることに気づきました。

その事件の直後は、アフリカンアメリカンの友達が、元気がなさそうなことはわかってもなんと声をかけたらいいかわからず悩みながら、何かできることはないかと、教養の必要性を感じて自分なりに調べたり、一連の事件への思いを話してくれる友達から話を聞いたりしていました。

このような一連の出来事の中でも、一番ショックだったのは、潜在的な人種差別の度合いを調べるテスト(興味のある方はこちらからどうぞ:Project Implicit)の結果でした。

このテストは、自分自身を人種差別主義者と定義するかどうかではなく、自分に潜在的に存在する人種差別度合いを測るもので、一般的なアンケートでは測れない潜在的な意識を測るために開発されました。

大まかに説明すると、このテストは、ランダムに出てくるアフリカンアメリカン(黒人)の人の顔、ヨーロピアンアメリカン(白人)の人の顔、ポジティブな言葉、ネガティブな言葉を、指示通りに分別するというものです。最初の指示は「アフリカンアメリカンの顔またはネガティブな言葉が出てきたら右、ヨーロピアンアメリカンの顔又はポジティブな言葉が出てきたら左のボタンを押す」、次の指示は「アフリカンアメリカンの顔またはポジティブな言葉が出てきたら右、ヨーロピアンアメリカンの顔又はネガティブな言葉が出てきたら左のボタンを押す」、このようにテストは進み、回答速度やミスの回数が分析されます。

自分の頭の中で関連させやすい組み合わせの回答速度は早く、ミスの回数も少なくなりますが、反対に関連させにくい組み合わせの回答速度は遅く、正確性も低くなるので、その結果を基に、特定の人種に対する無意識的なポジティブ又はネガティブなイメージを測ることができるとされています。

Implicitテストの一画面より。Copyright © IAT Corp.

私がショックだったのは、このテストを受けて、自分が潜在的に人種差別主義者であるという結果が出たことです。一連の事件を受けて、大学側が主催したワークショップで受けた今回のテスト。それまでの事件で、人種について考え、心が痛んでいた、そう思っていた自分のことを、恥ずかしく思いました。

人種についての問題を考えなくとも生活できてしまった日本で何の気なしに見ていたテレビ番組やドラマ、それらに意図していない形で隠れていた人種に対するステレオタイプや、日本で使われる「外国人」という言葉が、多くの状況で、ある特定の人種を指していたりすることに気づき、自分の"当たり前"が当たり前だと思い込んでしまうことの怖さを感じるとともに、一つの考え方や価値観に執着せず、新しいものにアンテナをはり、それを自分の判断軸を持って取捨選択することの大切さを改めて感じました。


"当たり前"を疑う習慣

③環境に関わらず見過ごしていた"当たり前"に気づく力と、行動や判断に対して自分なりの動機・理由を考える習慣が身についた(き始めた)こと

私が、留学をしてよかったと思う最大の理由は、自分の中の"当たり前"を疑い、自分なりの動機や理由を持って行動することを心がけるようになれたことです。

①自分の中の"当たり前"が当たり前でないことに気づかされ、②それに対応するために自分の判断軸を持つことが求められる環境での生活を通して、このプロセスを環境に頼らずともできるようになっている、少なくともその方向に向かっている、気がしています。


自分の中で、この変化がわかりやすく表れているなと思うのは、卒業後の進路についての考え方です。

就職先を探しながら自分が今一番重視しているのは、その会社で働きながら自分の仕事と会社が大好きだと心から言えそうか、というところです。中学高校と、部活も委員会も自分の意思ではなく友達に流されるままにメジャーな選択をしがちだった私と比べると、しっかり考えた上で、正規留学生(4年制の海外の大学に進学した学生)の中でメジャーと言われる就職先とは違う道を進もうとしていることが、かなり思いきった進路選択です。高校生の時には働くことさえも嫌で、できれば寿退社して余生を働かずに過ごしたいと思っていた自分には、想像もついていない未来だと思います。

その決断を「当たり前だから」「みんなそうだから」で終わらせずに、自分なりの理由・動機を持つことが、私が大切にしたい価値観です。なので決して、メジャーな選択肢が悪いと言っている訳ではなくて、自分なりの理由があればそれこそ私が思う自分の判断軸で決断した道、だと思いますし、逆に当たり前じゃない選択も、その選択の理由が「当たり前じゃないから」では意味がないと思っています。どんな選択や行動においても「当たり前だから」「常識だから」というところで思考停止せず、その"当たり前"を疑い、自分なりの理由を持つことが、自分の人生を生きる上で価値があることなのではないかな、と思います。


正規留学の道は日本でまだメジャーではないので、「主体的な選択」として捉えてもらえがちです。高校2年生の私は、難関大と言われる大学をなんとなく目標としながらも、受験勉強に対するモチベーションが持てず、でもすごいって思われたくて、そこまで勉強せずに済むだろうと予想したアメリカの大学進学への道を選びました。

そんな安易な動機で留学を決意してしまった私は、周囲から期待される「主体的な正規留学生」とははるかにかけ離れていましたが、アメリカの大学での生活を経てやっと、主体的な一歩を踏み出す準備ができたかなと思います。

アメリカの大学への進学をサポートしてくれた友達、先生、そして両親に感謝して、あと半分残された大学生活もかけがいのないものにできますように。

2018/10/21 大門史果

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?