『名探偵コナン』から考えるイマヌエル・カントの道徳
今回も前回同様、『名探偵コナン』を見ていた時に気になった言葉について深掘りしていくことにします。
--大部分はカントについてなので、名探偵コナンを知らない人でも十分楽しめると思います--
人を助ける
困っている人がいたら助ける
誰もがこのこと(原則?道徳?ルール?マナー?義務?)を知っていると思います。
しかし、いざ困っている人に遭遇したら、行動を戸惑ってしまいます。勇気が出ない。色々考えてしまうのです。
助けなくてもいい理由を自分の中で探してしまいます。
「相手は助けを求めていないかもしれない」
「今、忙しいから、、」
「悪いことをしている人だし、みんなの迷惑になってるし、」
などなど。
利己的なのです。ここで、利他的になれということでもありません。(のちに解説します。)こういう方は多いと思います。
そんなマインドを変えるきっかけになる、今回紹介する2人の言葉や思想を見ていき、「人助け」や「道徳」について考えていきましょう!!
工藤新一「論理的な思考は存在しない」
舞台はアメリカ・ニューヨーク。工藤新一と毛利蘭がNYで遭遇した通り魔(??)を助けたときの新一の言葉です。
まずは、そんな作中屈指の名言を見ていきましょう!
〜ストーリーの流れ〜
毛利蘭と工藤新一は工藤有希子(新一の母)に連れられ、ニューヨークへ。有希子が女優だったこともあり、ブロードウェイで人気だったミュージカル「ゴールデンアップル」の楽屋と舞台裏を訪れます。
そして、例の如く事件が発生。ヒースという男性が殺されてしまいます。その後、何だかんだ事件は解決、犯人(ローズ)も捕まります。
この事件が起きる前に、、
蘭はローズ(犯人)が事故で死にそうになるところを助けます。
〜事件発生・解決〜
そんな蘭に向かって警察に連行されるローズから一言。
(このときは、英語が聞き取れなくて、何を言われたのか理解していません。が、のちに勘づくことになります…)
ローズが連行。有希子も事情聴取を受けに警察へ。新一と蘭はタクシーでホテルに向かいます。
タクシーに乗ってる最中、蘭はシャロンからもらったハンカチを風に飛ばされてしまい、タクシーを降り、新一と廃ビルの中に入ります。
シャロンのハンカチ、、、
蘭は冒頭にシャロンから言われた言葉、そしてローズから言われた言葉(英語)を回想します。
そして、蘭は気づいてしまいます。
蘭は「あのときローズを助けていなければ、ヒースの命が奪われることはなかった。」と自分を責めてしまいます。
そんな蘭は、「人助け」というものを疑うようになります。
なんで、助けたんだろう…なんで…
そんなことを考えて歩いていると、今度は階段で通り魔と出会ってしまいます。
蘭は拳銃を向けられてしまいます。
そのとき、手すりが壊れ(階段の手すりが錆びていた)通り魔は階段から落下。
「どうしよう、私のせいだ…あの時私が彼女を助けたばっかりに…ヒースをあんな事に…私のせいだ、私の」
蘭はさっきまで、こんな葛藤をしていたのに通り魔を助けるのです。(助けることができるのです。)
そんな通り魔から、蘭と新一へ向かって、
「何故だ?どうして俺を助けた?いったいどうして?」
そこで、この名言です。
通り魔に向けられたこの言葉に、蘭はローズの件での葛藤から救われます。
蘭を救ったこの言葉、そして我々読者にも学びを与えてくれます。
そしてそして、もう1人作中でこの言葉に大きく感銘を受けた人がいるのです。また、この後の物語全体に大きく影響を及ぼすことになります。一体、誰でしょうか??(誰も何も、この場には3人しかいないですからねえ…)
ぜひ本編を!!
イマヌエル・カント「それが義務だからだ」
先の工藤新一の言葉を聞いて、イマヌエル・カントの道徳論が連想されました。それでは、カントの思想を紐解いていきましょう。(私なりの解釈です)
イマヌエル・カント(1724~1804)
カントについては、大学の授業で何回か触れ、『純粋理性批判』、『実践理性批判』をざっと見たぐらいですが、彼の道徳に対する考えに感銘を受けたので、言語化していきたいと思います。
カントが現代に及ぼしている影響は少なくありません。
今日において、私たちに人権があるのはカントのおかげであると言われています。それもカントの義務論、道徳論からきています。
なので、カントの立場でのトロッコ問題は功利主義を批判し、5人の代わりに1人を犠牲にすることを認めません。(人を手段として扱っているから)
道徳的かどうかは動機で決まる
カントはその行動が道徳的であるかどうかは、「動機」によって定まるとしました。
どういうことでしょうか。例を見ていきましょう。
パン屋の店主を例にします。不慣れな客、例えば子供が1人でパンを買いにきました。店主は子供に普段の売値より高値をふっかけることもできます。しかし、子供から騙し取ってると他人に知れ渡ってしまい商売に悪影響が出てしまうと考え、子供に普段の値段で売りました。
子供に普段の値段を請求する。店主がした行動は正しいですが、店主の振る舞いは私利(自分の評判を保つため)のためであり、動機が不正なので、この行動に道徳的な価値はありません。
「普段通りの価格で提供することが義務だから(正しいから)」という動機で振る舞うことが、道徳的価値を持つ行動であると言えます。
わかりやすいですね。
では、同様に「人助け」のシーンで見ていきましょう。
厳しい基準ですね笑笑。
どういうことでしょうか。
利他的な人の人助けをする理由は「相手のため」、「相手も自分も良い気持ちになるから」と、かなり真っ当なものに感じます。
しかし、
カントの言う「道徳的価値のある行動と見なせる動機」はこれです。
「それが義務だから行う」
こう見ると、2つはやはり違うことがわかると思います。
ここで、カントは前者にフォローをします。
正しいこと(人助け)をして喜びを得ても、道徳的価値が損なわれるわけではない。重要なのは善行が喜びをもたらすかではなく、そうするのが義務だからという動機で善行をすることだ。
義務の動機を正しく理解するためには、それを同情や思いやりといった感情から切り離して考えるべきだということです。
こう考えると先の新一(そして、おそらく蘭の行動も)は、カントの言う道徳的価値のある行動であるといえます。
新一の名言は次のように見なすことができると考えます。
うん。いけてますね。「論理的な思考が存在していない」のですもん。これは、「義務」であることを示していると思います。
蘭の行動についても吟味してみましょう。蘭が人助けをした理由が言葉としては描写されていないので、推測をします。蘭が人助けをした2つのシーンを両方とも、考えている時間がなかったという特徴があります。(青山先生はここまで考えているのだろうか。)
シーン1
舞台の天井に吊らされた衣装(鎧)が落下します。(おそらく落下まで2秒もないでしょう。)そのすぐ下にはローズがいます。このときローズの着ている衣装が何かに絡まってしまい、彼女は身動きが取れなくなっています。つまり誰かの助けが必要。それを見て、すぐ蘭がダッシュで助けます。
シーン2
手すりが壊れて通り魔が落下します。コンマ数秒の世界。瞬間的な判断です。
その人が可哀想とか利他的とかそういったことを考えている余裕はありません。脊髄反射のスピードです。
義務だからする
納税をする。これと一緒です。
より、蘭も新一と同様でカントから尊敬されそうですね。
カント「蘭くん、新一くん。君たちの行動は道徳的価値のあるものだ」
なお、2人はこの回に限らず作中で何回も人助けをしています。本当に尊敬しかない高校生です。
純粋実践理性
「人助けはそれが義務だから行う」と見てきました。
では、なぜそれが義務だと言えるのでしょうか。
それに答えるためにまず、「定言命法」というものについて吟味していきましょう。
カントは理性が意思を決定する方法として2つの方法があるとしました。
ここで、理性について補足を。
ここで、カントは私たちは必ずしも理性のみに基づいて行動をするわけではないことを認めています。つまり、感情が支配的になることもあるということです。
*ア・プリオリとは「生まれながらにして」のこと。理性は先験的に定まるとして、カントは「経験論」に対抗しました。
2つの方法とは、仮言命法と定言命法です。それぞれ見ていきましょう。
1, 仮言命法
理性を道具として扱います。Xが欲しいならば、Yをせよというもの。例えば、「会社の評判をあげたいなら、顧客に誠実に対応しなければならない。」
・条件付きの命令
モチベーションのない社員は、顧客に誠実に対応しなくても善いことになります。
2, 定言命法
ほかの動機をともなわずに、それ自体として絶対的に適応される実践的な法則のことを言います。「定言的」とは無条件のこと。
・無条件(どんなときでも)の命令
(上の例では)つねに顧客に誠実に対応しなければならない。
「定言命法に従って行動している時のみ、私は自由に行動している。」
状況がどうであれ、私は常に同じ行動を取れます。つまり、行動の決定要因は自分のみになります。(仮言命法では、外部依存)
この「行動の決定要因は自分のみ」こそが自由である(自律的)とカントは言います。神の時代が終わった当時を考えると、自由であることがより一層わかりますね。
つまり、「喉が渇いたときに好きなジュースを飲めることはカントの指す自由ではないのです。」ジュースを飲むとき、私たちは自由(自律的)に行動しているのではなく、「喉の渇きという外部が課す命令」に服従しているにすぎないのです。
恐ろしい。
つまり、「なぜ人助けが義務だと言えるのか」に対する答えは、
「定言命法で定められたから」です。
まだ、腑に落ちませんね。
定言命法でどのように定まるのでしょうか?
これは、定言命法で新たに格率(行動の理由となる規則や原理のこと)を定めるときのルールです。
つまり、それを全員に当てはめてもOKな原則のみが有効であるということです。
例えば、「嘘をついてもよい」という格率を作ったとします。それは原則として有効ではありません。なぜなら、世界中全員がそうなったときに世界は崩壊するからです。
普遍化によって道徳的でない原則はすべて淘汰されるのですね。
つまり、「なぜ人助けが義務だと言えるのか」に対する答えは、
「全員に当てはめ可能な定言命法で定められたから」です。
かなりいいです。でも、もう少しだけ疑問が残ります。
全員が同じ道徳法則を選択する保証はどこにあるのか?
長くなりますが、わかりやすいので全て引用します。
なぜ、全員が同じ道徳法則を選択するのかわかりましたか?
そうなるのが宿命だからです。
どういうことか。
人間が理性(純粋実践理性)をア・プリオリに持っているからです。
ア・プリオリ(意味: 生まれながらにして)に持っているので、生まれた後の経験に関係なく定まるものです。
つまり、全員同じ理性(純粋実践理性)を持つからです。
そうなった場合、誰が普遍性の試験(全員にとって当てはめ可能であるかどうか)をやっても同じ判断結果となります。また、それによって淘汰を繰り返すと特定の(普遍的な)定言命法しか残らないのです。
難しければ、「全員が同じ道徳法則を選択する。普遍性試験で淘汰されるから」と覚えてくれてokです。
補足説明 〜読み飛ばしてください〜
「全員が同じ種の理性を持つとはどういうことか。ア・プリオリとは」についてカントの著書『純粋理性批判』を用いて説明してみます。
こう考えたとき、なんで人間全員同じものが見えているのか。(りんごはみんなりんごと見える)という疑問が浮かびます。
それは、
人間は何かの物事を認識する際に必ず先天的(ア・プリオリ)な受け取りパターンを利用していて、そのパターンが共通だからです。
そのパターンが共通である理由はそれがア・プリオリだからです。
ア・プリオリについて少しわかっていただけたでしょうか??
また、パターンを利用して認識しているので、対象と認識にギャップがあることがわかると思います。つまり、人間は対象自体には到達できないのです。(到達できないので、神がいるかどうかはわからない)
などなど『純粋理性批判』の詳細は機会があれば。
瞳の中の暗殺者「好きだからだよ」
新一が蘭を助ける理由
ここでは、少し『名探偵コナン』の奥深さ、工藤新一のかっこよさについて紹介します。
『瞳の中の暗殺者』は2000年に公開された劇場版『名探偵コナン』シリーズの第4作目の作品です。
この映画では、蘭は事件に遭遇し記憶喪失になり、自分の名前すら思い出せない状態に陥ってしまいます。
そんな中、コナンは事件解決と蘭のために、蘭を連れて犯人から逃走しつつ、犯人に真相を突きつけていきます。
自分のために必死に頑張るコナンを見て、(コナンを知らない)蘭は、
「ねぇ、どうして?」
「どうして君は、こんなにも私の事を守ってくれるの?」
それに対して、コナン。
工藤新一の人を助ける理由はこうでした。
「人が人を助ける理由に論理的な思考は存在しねーだろ?」(義務だから)
しかし、彼が毛利蘭を助ける理由だけは違うのです。
「好きだから」
誰にでも手を差し伸べて助ける工藤新一でも、命を懸けて守り抜くのは蘭だからなのです。
いいですね…
これを見たカント「称賛と奨励に値するが、尊敬には値しない」
映画を見てるときの私の心の中にいるイマヌエル・カントはこう呟きました。(嘘です)
ちなみに、カントは「生涯独身」でした……
カント「嘘はどんな理由があろうとも不正である」
この映画でもう一つ好きな言葉があります。
映画ラスト、小田切警視長が自分より先に真実を解明したコナンに対して「君はいったい…」と言います。それに対するコナンの返事です。なんかカッコいいですよね。
「Need not to know」
この言葉は作中で警察の隠語として使われていました。
蘭が記憶喪失になった大変な状況で、コナンと毛利小五郎が事件に関する情報を聞きにいくと、「Need not to know」と白鳥警部はコナン達に真実を話してくれません。
そのときの怒りを含んだ、皮肉も少しあるアンサーがコナンのさっきのセリフでした。
ここで、もう一度コナンのセリフを眺めてみます。
「ただの小学生」、嘘ですね。
他にもいろいろ。まず、中身は高校生ですからね。
もちろん、Need not to know ですから、文脈的そして意図的に嘘をついています。それを踏まえた上で、ここではカントの「嘘」に対する考え方を見ていきましょう。
カントは『道徳形而上学原論』で、嘘は不道徳な行為の最たるものとしています。カントは「嘘」に対して、かなり厳格な態度をとるのです。
そもそも、「嘘をついても良い」という定言命法に普遍性(全員に当てはめてもOK)はないので、「嘘をつく行為」は道徳的ではありません。
ここでは、「例外」について吟味します。
何度も言いますが、カントにとっての道徳は結果ではなく、原理と関わる問題なのです。
「つねに例外なく適用される神聖な理性の法則」
先に紹介した「定言命法」に由来します。定言命法、つまり(自分だけでなく、全員に採用してもらいたいと思える)原則に無条件に従って追求することです。
これは、先の利他的な人助けの例もですが、もっともな目的だからという理由で例外を設けていたら、無条件に適応されるという(カントの)道徳法則の性質が破綻するからです。
厳しすぎますが、言いたいことはわかります。
なので、このコナンのセリフを聞いたカントは「今、嘘をついた。普遍性のない定言命法であり、道徳的価値のない言動である。嘘に例外は一切認めない。」とコナンを批判するでしょうね。
カントとの映画鑑賞は楽しめなそうです笑笑
おまけ
ちなみに、この映画のすごいところを一つ紹介すると、映画ポスターに伏線が張られていたことです。コナンの眼鏡に映る犯人の利き腕に注目です。
まとめ
人を助ける理由
「義務だから」(普遍的な定言命法)
これだけです。この結論に至るまでを一緒に追ってきました。納得して頂けたでしょうか。
この納得が自信につながり、自信が行動につながると思うのです。
とても長く、脱線の多いこの文章を最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
誰かの人生を少しでも変えることを願って、終わりとします。