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無くしたアクセサリーとの別れかた

居着いてはいけない
武術でよく使われる言葉で、これを私は日常生活の中でも事あるごとに思い出します。

武術における〈居つき〉を私なり解釈すると、“平静を失い判断停止状態に陥ること”“その場の展開について行けず反応や身動きが取れなくなること”とでもいったところでしょうか。

それを普段の生活に当てはめるなら、〈居着かない〉のは、“状況や感情に飲み込まれない““距離をおいて俯瞰する”、大まかにまとめると“執着しない、固定観念にとらわれない”といった感じです。

身体について興味を持ち、あれこれと本を読み漁り、いくつかの場所に出入りするうちに、気づけば自分の中に、そんな考えが深く浸透していきました。


今ではこの考えは私の大きな支えであり、どれほど何かに夢中になったりのめり込もうと、そこに取り込まれて自分を見失わない、ということは極めて重要に思えます。
何ものにも振り回されず平静を保っていられれば、さまざまなことが上手く進むからです。

たとえばちょっとした失敗をした際も、むやみにそれを引きずらず、すぐに気持ちを切り替え、次の手を考えるよう努められます。
私は想像力が暴走しがちで、あらぬことにまで気が回ってしまうタイプのため、自分で負の連鎖を切るのはとりわけ大切なことです。

何らかの出来事の影響を受け、そちらに引きずられている際も、ああ、いま居着いている、と気づいた途端、冷静さが戻ってきます。

他にも有効な考え方や言葉はあるのでしょうが、私にとって〈居着く〉というのは“足がその場に固定され、動きたいのにどうしようもなくなっているさま”を連想させ、身体的な理解も含め、よりリアルで捉えやすいのです。


つい最近も、特に不注意だったわけでもないのに、立て続けにアクセサリーをふたつも無くしてしまう、というショックな出来事がありました。

ひとつは小指にはめていたピンキーリング、ひとつは左耳のイヤリングです。
どちらも毎日のようにつけていた、お気に入りの品でした。

とりたてて高価なものではないにせよ、耐熱ガラスを使い、職人さんが手作りした一点もので、同じ品は世界に一つとしてありません。

それが気づかないうちに離れていき、もう見つけようもないというわけです。
もちろん悔しくはあるのですが、あまりみっともなく惜しむことがなかったのは〈居着かない〉という考えがあったためです。

二度と見つからないとわかっているのに、いくら騒ぎ立てたり落ち込んでもどうなるものでもなし。
あの小さく綺麗なガラスのアクセサリーたちは、人に気づかれることもなく、きっと誰かの靴の下で砕けてしまったに違いない。
それは悲しくはあるけれど、つかの間、私の手元で愉しみを与えてくれたのだから、それを喜び記憶しておけばいい。
そんな風に考えて、心を落ち着けることができました。


物も人も、出会うも別れるも時があり、私たちがそれを決めることはできません。
それならば、去ったものを無闇に嘆くより、静かな感謝を捧げている方がいい。
負け惜しみでなくそう思えたのは、私がひとつの感情に浸りきったり、〈居着く〉ことを良しとしなくなったためです。

そうすると、心が凪のように静かとまでは言えないまでも、いろいろなことがずいぶんと楽にもなります。

それに、大切なアクセサリーをふたつ失ってもなお、私はまだ美しい品を持っています。
今はそれらを大切にし、いつかそれらの品々とも別れがくるまで、存分にそれを愉しむことが、失ったものをただ惜しむよりよほど良いでしょう。

ある対象に見境のないほどの愛情を注ぐ、スラブ的な激しさへの憧れもあるにせよ、やはり私には東洋的な中庸、居つきを避けるあり方の方が好ましい。
小指で光る、繊細なカッティングの施されたガラスの指輪を見つめながら、そう思います。

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