カフェ・モンタージュ

京都・御所南のあるカフェの形をした劇場です。 https://www.cafe-mon…

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京都・御所南のあるカフェの形をした劇場です。 https://www.cafe-montage.com

最近の記事

失われずに、失われている音楽の話

ビーチボーイズの『スマイル』というレコードが、この世にあるはずであった。 、あるはずであった…? ビートルズの『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』とならんで稀代の名盤といわれるビーチボーイズのアルバム『ペット・サウンズ』の次の作品として、1967年に発売が予告されたにも関わらず、ついに発売されずじまいになった、まさに幻のレコードがその『スマイル』なのである。 レコード会社としては予告していたアルバムの発売延期は想定外ということなのか、急遽『スマイル』

    • 音楽のように、読む、プルースト

      フォーレ研究の第一人者ネクトゥーもこう言っているのだから、フォーレの没後100周年に、いまこそプルーストを読むべきだと思った。 フォーレの音楽を追体験する、そのつもりでプルーストの文章を読む。 そのようなことが可能だとすれば、プルーストの文章をここで誰かと共有することで、フォーレの音楽をも同時に共有できるのではないか。 音楽を聴かずして、音楽を共有する。 空想にすぎないことでも、プルーストの文章に対するアプローチの方法、もしくは小さな手がかりのひとつでも見出すことが出来る

      • 「フィガロハウス」のモーツァルト

        何も起こらず、ただ過ぎていくだけの時間は、存在しない。 ベルリンのイツィヒ家にて、ザラ、そしてその姉妹であるベラとファニーは、それぞれ若き日にバッハの息子フリーデマンや、バッハの弟子キルンベルガーなどに教育を受け、一族でバッハの音楽を共有してきた。 姉妹はそれぞれに結婚して名前が変わった。 ・ザラ・レヴィはベルリンで著名人が集まるサロンを開き、のちにベルリンのジング・アカデミーがバッハ復興の中心となる礎を作った。 ・ベラ・ザロモンもジング・アカデミーの創設からその活動に寄

        • サリエリと陰謀

          モーツァルトの歌劇『フィガロ結婚』が1786年に初演される際に、モーツァルトの父レオポルトが書いた有名な手紙がある。 その陰謀を企んでいるのがサリエリだとして、モーツァルトとサリエリの敵対関係を象徴する一例として名高い手紙である。 しかし、この手紙をいま一度ドイツ語で読んでみると、また違う想像も浮かんでくるのである。 直訳すると 「彼(モーツァルト)が成功すればそれはすごいことだ。というのは、そのことに敵対する強力な陰謀団がいることを私は知っているから。サリエリと彼を支持

        失われずに、失われている音楽の話

        マガジン

        • ブラームス「始まりの三重奏」
          3本

        記事

          リストとクララの1838年

          面白いと思っていることがひとつある。 1824年にシューベルトが大きなピアノソナタを作った。 演奏には最高度の技巧を持つ二人のピアニストが必要、ということで一般の愛好家向けではないということなのか、シューベルトの生前には出版されなかった。 1838年、つまりシューベルトの没後10年にあたる年、ウィーンではちょっとしたシューベルト再発見の動きがあった。その一役を担ったのがフランツ・リストである。ウィーンでツェルニーに師事し、おそらくはベートーヴェンにも少し演奏を聴いてもらっ

          リストとクララの1838年

          スクリャビンは違う

          「地続きのロシア」という記事を書いたことがある。その時に感じていたことが、今回スクリャビン初期作品をまとめて聴くという機会を得て、よりはっきりしてきたと感じている。 ロシアというのは、時間軸を置き換えることで古くも新しくもある国だ。 京都もそのようなところがあるといえば、どうだろうか。 京都は世界大戦を、なんとなく回避した街なのだろうかという印象がある。 自分は生まれていなかったわけだし、何もわからない中での印象には違いない。でも、京都の人と戦争の話をすればそれは「応仁の

          スクリャビンは違う

          シューマンのバッハ、楽譜のこと

          シューマンがバッハの無伴奏チェロ組曲のピアノ伴奏の作曲に取り組んだのは、1853年の3月から4月にかけてのことだった。 すでにヴァイオリンの為の無伴奏ソナタとパルティータ全曲のピアノ伴奏版がブライトコプフ社から出版されることが決まっていたが、チェロ組曲の方はそもそも原曲が一般に知られていないせいか、なかなか出版先が決まらなかった。 その年は9月に新星ブラームスの突然の訪問に見舞われたりなどして、自分が大変だったこともあったかもしれない。しかし、ブラームスが帰った後、シューマン

          シューマンのバッハ、楽譜のこと

          「不在」の存在証明、永遠の三重奏

          ― いまこそ話しておくが、ヨハネス、 わしは君の心の中を深く見通していて、その中にある危険な ― 恐ろしい秘密をみとめていたんだよ。 すなわち、いつなんどき危険な火炎をあげて爆発し、容赦なく周囲のありとあらゆるものを舐めつくす、沸騰している火山をだ。 ― おお、先生、この僕をあつかましくも愚弄し、おもちゃにする権利が、あなたに与えられているのでしょうか。僕の心を理解することが出来るなんて、あなたは運命ででもあるのですか。 __________ 上の会話は、ロベルト・シュ

          「不在」の存在証明、永遠の三重奏

          はじまりの三重奏

          忘れたい、忘れよう。 そう願う時期が長くなることで、その一つの記憶が色々な時間と繋がってしまい、結果として、忘れるべきことの中にだけ生きてしまうということを、想像したことはないだろうか。 1830年、詠み人知らずの小さな主題が20歳のロベルト・シューマンの日記に書きつけられた。翌1831年、ロベルトの師ヴィークの12歳の娘クララがその主題による『ロマンスと変奏 op.3』を作曲して、ロベルト・シューマンに献呈した。翌1832年、ロベルトはその主題を使って変奏曲を作曲し、師ヴ

          失われた時を 見出すとき - J.ブラームス

          ブラームスが若き日に書いたピアノ三重奏曲について、ずっと不思議に思っていたことが、少しずつ明らかになってきた。 ブラームスは1889年、56歳の時にひとつのピアノ三重奏曲を書いた。 その作品は、21歳という若き日に書いたピアノ三重奏曲に手を加えたものだということで、作品番号がそのままop.8として出版されたために『ピアノ三重奏曲 第1番 op.8』(1889) としてのちの世に残されることとなった。 『ピアノ三重奏曲 第2番 op.87』(1882) と『ピアノ三重奏曲

          失われた時を 見出すとき - J.ブラームス

          喪失の上に立つ、ボードレール

          いま、世の中から失われてしまった感情。 もう思い出すことの出来ないものについて考えている。 思い出すことが出来ないという事は、それを失ったという事にも気が付かないということなのだろう。だから自分は、悲しみを捨てて、今日を生きることが出来る。だから今日を生きることは、言い知れぬ罪悪感をずっと抱え続け、育てていくこととも言えるのかもしれない。見て見ぬふりはもうしたくない、と思った時に、ボードレールがこちらを見下ろしているのがみえた。 ところで「トリスタン和音」をご存知だろうか

          喪失の上に立つ、ボードレール

          「読書会」?

          11/25の公演「ベートーヴェン捏造」では、本編である、著者のかげはら史帆さんのレクチャーのあとに参加自由の「読書会」を開催いたします。 その「読書会」ではいったい何をするの? というところを、ここでご説明いたします。 以下の2部構成を予定しています。 第1部 『ベートーヴェン捏造 - 名プロデューサーは嘘をつく -』を読んで 主人公のアントン・シンドラーが「会話帳改ざん」したときの心境とその理由について、大胆な推理が『ベートーヴェン捏造』の中に展開されています。 こ

          フンメルに捧ぐ

          1821年1月25日、シューベルトの作品がウィーンの楽友協会ではじめて聴かれた。ギムニヒの歌唱、ピアノはシューベルト自身(もしくはアンナ・フレーリヒ?)で作品は「魔王」であった。 同じ年にシューベルトはピアニストもしくはヴィオラ奏者として楽友協会に登録された。同じくピアニストとして登録のあったリーベンベルクと知り合ったのはこの頃のことではないかとされている。フンメルの弟子で腕の立ったリーベンベルクはピアノの作品を書いてくれないかとシューベルトに頼んだのであるが、その願いは果

          あなたがここにいてほしい

          「インヴェンションとシンフォニア」は、もともとは『クラヴィーア手帳』に掲載されていて、そこでは「前奏曲と幻想曲」というタイトルが与えられていた。 この『クラヴィーア手帳』には「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのための」という但し書きがしてある。つまりバッハの長男フリーデマンのチェンバロ学習のために編まれた曲集だということだ。 『クラヴィーア手帳』の冒頭には1720年と書かれている。その時フリーデマンまだ10歳!長男の英才教育のために編まれた60を超える作品の中には、のち

          あなたがここにいてほしい

          バラードの年、荘厳ミサの年

          ゲーテとシラーのいわゆる「バラードの年」といわれている1797年のこと。 21歳のアブラハム・メンデルスゾーンはみずからの銀行設立を決断してパリに向かった。その途中でイエナに立ち寄ったアブラハムは、友人ツェルターが彼に託していた歌曲集を詩人シラーに手渡した。 シラーがその楽譜をゲーテに見せたところ、ゲーテは興味をひかれたようであった。なぜなら、そのツェルターという作曲家から送られたゲーテ詩の12の歌曲の楽譜を、少し以前にゲーテは受け取っていたばかりであったからである。 ゲー

          バラードの年、荘厳ミサの年

          シューベルトの「西東詩集」

          カップのサイズや、飲み口が厚かったり薄かったりで、コーヒーの味が違う!という主張を始めたのはどこの誰なのだろう。 「そんな違いはない」と反論するのは自由だ。 「違い」はコーヒーなどという黒いものを飲む人間の感覚と思考のあいまいさが生む誤謬であって、マイセンであろうが清水焼であろうが、味そのものは同じなのである。そのことに文句はあるだろうか。 そこにきて「味とはなにか?」である。 終わりなき観念論が開始された18世紀、味は「味そのもの」であるというさっぱりした思考に、味は「

          シューベルトの「西東詩集」