カフェ・モンタージュ

京都・御所南のあるカフェの形をした劇場です。 https://www.cafe-montage.com

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最近の記事

Holbergの時代から

京都府立図書館でノルウェー文学の祖といわれるホルベルクの書いたものを何か読もうと思ったら「デンマーク文学作品集」という本しか見つからない。 1380年から1814年まで、ノルウェーはデンマーク王の統治下にあった。 つまり、ほぼ500年にもわたってノルウェーはデンマークだったらしい。 そんなに単純なことではないかもしれないけれど、ハムレットはそんなまだ大国であった時代のデンマーク王子の話なのだ。 そのハムレットの死に際にデンマーク王に名乗りでるフォーティンブラスはノルウェーの

    • 飛行先としての「1920」

      近代ベルギーを代表する作曲家ジョゼフ・ジョンゲンは1873年生まれ。 つまり生誕150周年?とはいえ、フルートとピアノだけで演奏時間が30分に迫る大作を聴くことの出来る機会が、たやすく生まれるわけではない。 ジョンゲンのフルートソナタは1924年、パリ音楽院のフルート科教授であるルネ・ルロワのために書かれたが、1925年2月の初演はラヴェルの独立音楽協会においてルイ・フルーリーの演奏で行われた。 同じコンサートではモーリス・ドラージュ作曲の「7つの俳諧」がジャーヌ・バトリの

      • 個人の判断

        2023年3月13日にマスク着用の必要性についての基準が「個人の判断が基本」となったことについて、では自分はどう判断するのかと考えました。 いざ「自由」と言われてしまうと、どのように受け取ればよいのか?自分で判断したところで、それは勘違いだと言われてしまわないだろうか?と思うと、色々確認をしたくなってきます。 ともかく、「脅威は去った」ということが事実でない限り「個人の判断」を基準にするという方針は理屈があわないわけで、それでは困ります。 そもそも脅威とはなんだったのか

        • 知りすぎていた男。

          作曲家パウル・ヒンデミットは、彼が生きた時代そのものを代表する巨匠である。 1895年に生まれ、20歳でフランクフルトのコンサートマスターになった頃に世界大戦に巻き込まれ、戦争で父を亡くしたあと、作曲活動が表ざたになってから、ヒンデミットは常に時代の中心にいた。 1921年、ドナウエッシンゲンの現代音楽祭が誕生したとき、彼は既にそこにいた。1922年、始まったばかりのザルツブルク音楽祭において現代音楽の集まりがあったときにも、やはりそこにいた。 32歳にしてベルリンの作曲

          言葉を乗り越えて、詩の世界へと

          シューマンの第3番を聴くことは、本当に難しい。 この作品の中には、音楽の歴史上最大の難関であるベートーヴェンの第14番が巧妙に組み込まれているのだから。 ベートーヴェンの弦楽四重奏曲 第14番 op.131 その第4楽章に置かれたイ長調の変奏曲がもたらす静かな混乱は、多くの人の目を、生きながらにして真白に塗り変えていった。 シューマンはその変奏曲と同じイ長調で弦楽四重奏曲 第3番を書いた。 第1楽章の第1主題が提示されたすぐあとにさっそく訪れる断絶のモチーフは、音楽一般が

          消え去らない熱風

          1845年に書かれたメンデルスゾーンのピアノ三重奏曲 第2番 作品66の冒頭は、ピアニッシモではじまる。 これが、メンデルゾーンがスコットランドで触れた"オシアン"の空気を表現しているのだ・・といわれても、いまいちピンとこないのはおそらく自分がこの作品を実演で聴いたことがないからかもしれない。 そもそも"オシアン"とは… ? オシアンというのは、ロマン派を席巻していた伝説ブームを象徴する古代スコットランドの英雄の名前で、ゲーテもシューベルトもその魅力のとりことなっていた。

          故郷に還るドヴォルザーク

          まさにそうでしかない、このような言葉をドヴォルザークはアメリカを去る直前に、プラハの自分の弟子に書き送っている。 ドヴォルザークがアメリカを去ったのは、彼が故郷を愛するゆえのホームシックからだといわれている。それも、まさにそうなのだろう。 しかし彼にとっての「ホーム」、つまり故郷とは何だったのか。 信仰深き人間としてのドヴォルザークの故郷はチェコであった。 そして、作曲家としてのドヴォルザークの故郷はブラームスであった。 二つの故郷は、はじめから相入れないものであった

          これまでのお願いと、これからのこと

          これまでに様々なお願いをしてきました。 そのお願いの象徴としてマスクの着用ということがありました。 何の不安も症状もない健康な人までもが、社会を少しずつ機能させる過程におけるしばらくの間の応急処置として、「うつらない」ではなく「うつさない」という考え方でマスクを着用するということが広まったことは、間違いではなかったと今でも思います。 しかし、その応急処置が長引いていつのまにか「人を思いやる」という、人のそれぞれが大事にしてきた気持ちと置き換えられてしまうことに対しては危惧

          日本初演のお話:ツェムリンスキー 弦楽四重奏曲 第2番

          ツェムリンスキーの弦楽四重奏曲 第2番が日本で演奏されたという記録が見つからない、少なくともこの10年の間は…と書いたところ、さっそく情報を寄せてくださった方がいた。 1999年、伝説のハレー・ストリング・クァルテットによるカザルスホールでの演奏会。 そして、昨日の演奏会の終演後、客席にいらしたお客様から、「一度、2011年にフェニックスホールで聴きました」とまた情報が寄せられた。 11年前… 震災の年とのこと、あのモルゴーア・クァルテットによる大阪ザ・フェニックスホー

          ツェムリンスキー:弦楽四重奏曲 第2番

          なぜこのような作品が誕生したのか。 この長大な作品を何度も繰り返し聴きながら考えていた。 この作品に関しても、作曲家ツェムリンスキーに関しても、読むことの出来る情報は驚くほど少ない。 シェーンベルクが「いずれ、おそらく私が考えるよりも早く、彼の時代が来る」と書いたように、ツェムリンスキーのリバイバルを目論んだ動きはこれまでにもあったらしい。 まずは生誕100年である1971年以降のこと。1960年代から沸き起こったマーラー・リバイバルの勢いが「彼の友人であるツェムリンスキー

          歌曲集「”死の死”の」 - 日本語訳

          Ⅰ 死と悲惨の幻想 ある夜明け近くの薄明のなか 私は湿った霞のかかる野を進んだ 露を冠し、霧をまとい 深刻な悩みを道しるべにして 道しるべは、地の深淵の縁へと誘った 死が立ちこめ赤みを帯びて光るその深淵から 悲惨が手から手へと痛みを掬っていた 私に、そして全ての人々に さらなる痛みをもたらすために 死と悲惨は日が昇るまで 呪うがごとき作業を続けていた 日の出の光を目にして 泣きながら私はその場を離れた 消し去ることの叶わない痛みを胸に 我が身に分け与えられた罪をあがな

          名前は、フェリックス

          新海誠作品の地上波連続放映があった、今のタイミングでしか書けないようなことを書きたい。 映画『君の名は。』はボーイ・ミーツ・ガールのお話であると紹介されることが多いけど、主人公の二人が出会う物語ではない。 ではどのような話かというと、彼らは「すでにどこかで出会っていたかも知れない」という物語だ。 すれ違っただけでお互いを意識してしまった二人が、すでにどこかで出会っていたとすれば、それはいつどのようにしてだろう。その答えは、さっきまで見ていたはずの、でも思い出せない夢の中に

          ヴァントゥイユのソナタ

          むかしむかしのこと 、といってもカフェ・モンタージュを始めてから2年目くらいのことだったかと思うけれど、コンサートにいらしたお客様のひとりから一つのメールが届いた。 そのお客様が誰だったのか、名前もメールの内容も(おそらくコンサートの感想?)忘れてしまったけれど、ひとつだけ覚えているのは という内容のメッセージだった。 まず、ヴァントゥイユのソナタとは何だろう。 調べてみると、プルーストの「失われた時を求めて」の中に出てくる架空の音楽作品のこと、とのことだった。 架空と

          メトネル「ソナタ・ロマンティカ」― 秋元孝介さんに聞く

          昨年の7月1日、ひとつのコンサートがありました。 終演後、大きな感動とともに、とてつもない喪失感が自分の中に沸き起こってきました。 しまった、知らなかった、時間はもう戻ってこない、取り返しのつかないことをしてしまった… 知ってしまった時にはじめて「知らなかった」と気がつき、失った時に初めて「持っていた」ことに気がつく。その時に聴いたメトネルの『忘れられた調べ』という作品は、大きな喪失感を「忘れていた」という言葉に置き換えてくれる優しさにはじまり、「思い出す」ことで得ることの

          マルティヌーは語る

          マルティヌーについて果たしてどのように説明すればいいのだろう。 彼について紹介されている文章を読んでも、いまいちピンとこない。 チェコに生まれ、 幼少から音楽の才能を発揮し、 10代で作曲を始めて やがてドビュッシーに憧れるようになり、 パリに行って新古典とジャズに染まり、 パリのカフェで会った当時ボストン響指揮者のクーセヴィツキーに見出され 1932年には『弦楽六重奏曲』がクーリッジ財団の一等賞を授与され 68歳の生涯で実に400を超える様々な形式の音楽を作った。 作曲

          その男、ヒュッテンブレンナー

          金融業を営む貴族の家系に生まれ、オーストリアの継承問題から勃発した戦争に際して、女帝マリア・テレジアのもとにイギリスからの軍資金をもたらし、戦後のマリア・テレジア政下で貨幣の鋳造を任されて、その利益の3分の1の保有を許され、製糸工業と縫製工場を創設し、オーストリアにはじめてブラウアーポルトギーザーのワインをもたらし、マリア・テレジア通貨の長期かつ広範囲な流通による莫大な富も相まって、当時のもっとも裕福な人の一人に数えられたヨハン・フォン・フリース。その末息子であるモーリッツ・