カフェ・モンタージュ

京都・御所南のあるカフェの形をした劇場です。 https://www.cafe-mon…

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京都・御所南のあるカフェの形をした劇場です。 https://www.cafe-montage.com

最近の記事

「不在」の存在証明、永遠の三重奏

― いまこそ話しておくが、ヨハネス、 わしは君の心の中を深く見通していて、その中にある危険な ― 恐ろしい秘密をみとめていたんだよ。 すなわち、いつなんどき危険な火炎をあげて爆発し、容赦なく周囲のありとあらゆるものを舐めつくす、沸騰している火山をだ。 ― おお、先生、この僕をあつかましくも愚弄し、おもちゃにする権利が、あなたに与えられているのでしょうか。僕の心を理解することが出来るなんて、あなたは運命ででもあるのですか。 __________ 上の会話は、ロベルト・シュ

    • はじまりの三重奏

      忘れたい、忘れよう。 そう願う時期が長くなることで、その一つの記憶が色々な時間と繋がってしまい、結果として、忘れるべきことの中にだけ生きてしまうということを、想像したことはないだろうか。 1830年、詠み人知らずの小さな主題が20歳のロベルト・シューマンの日記に書きつけられた。翌1831年、ロベルトの師ヴィークの12歳の娘クララがその主題による『ロマンスと変奏 op.3』を作曲して、ロベルト・シューマンに献呈した。翌1832年、ロベルトはその主題を使って変奏曲を作曲し、師ヴ

      • 失われた時を 見出すとき - J.ブラームス

        ブラームスが若き日に書いたピアノ三重奏曲について、ずっと不思議に思っていたことが、少しずつ明らかになってきた。 ブラームスは1889年、56歳の時にひとつのピアノ三重奏曲を書いた。 その作品は、21歳という若き日に書いたピアノ三重奏曲に手を加えたものだということで、作品番号がそのままop.8として出版されたために『ピアノ三重奏曲 第1番 op.8』(1889) としてのちの世に残されることとなった。 『ピアノ三重奏曲 第2番 op.87』(1882) と『ピアノ三重奏曲

        • 喪失の上に立つ、ボードレール

          いま、世の中から失われてしまった感情。 もう思い出すことの出来ないものについて考えている。 思い出すことが出来ないという事は、それを失ったという事にも気が付かないということなのだろう。だから自分は、悲しみを捨てて、今日を生きることが出来る。だから今日を生きることは、言い知れぬ罪悪感をずっと抱え続け、育てていくこととも言えるのかもしれない。見て見ぬふりはもうしたくない、と思った時に、ボードレールがこちらを見下ろしているのがみえた。 ところで「トリスタン和音」をご存知だろうか

        「不在」の存在証明、永遠の三重奏

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        • ブラームス「始まりの三重奏」
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          「読書会」?

          11/25の公演「ベートーヴェン捏造」では、本編である、著者のかげはら史帆さんのレクチャーのあとに参加自由の「読書会」を開催いたします。 その「読書会」ではいったい何をするの? というところを、ここでご説明いたします。 以下の2部構成を予定しています。 第1部 『ベートーヴェン捏造 - 名プロデューサーは嘘をつく -』を読んで 主人公のアントン・シンドラーが「会話帳改ざん」したときの心境とその理由について、大胆な推理が『ベートーヴェン捏造』の中に展開されています。 こ

          フンメルに捧ぐ

          1821年1月25日、シューベルトの作品がウィーンの楽友協会ではじめて聴かれた。ギムニヒの歌唱、ピアノはシューベルト自身(もしくはアンナ・フレーリヒ?)で作品は「魔王」であった。 同じ年にシューベルトはピアニストもしくはヴィオラ奏者として楽友協会に登録された。同じくピアニストとして登録のあったリーベンベルクと知り合ったのはこの頃のことではないかとされている。フンメルの弟子で腕の立ったリーベンベルクはピアノの作品を書いてくれないかとシューベルトに頼んだのであるが、その願いは果

          あなたがここにいてほしい

          「インヴェンションとシンフォニア」は、もともとは『クラヴィーア手帳』に掲載されていて、そこでは「前奏曲と幻想曲」というタイトルが与えられていた。 この『クラヴィーア手帳』には「ヴィルヘルム・フリーデマン・バッハのための」という但し書きがしてある。つまりバッハの長男フリーデマンのチェンバロ学習のために編まれた曲集だということだ。 『クラヴィーア手帳』の冒頭には1720年と書かれている。その時フリーデマンまだ10歳!長男の英才教育のために編まれた60を超える作品の中には、のち

          あなたがここにいてほしい

          バラードの年、荘厳ミサの年

          ゲーテとシラーのいわゆる「バラードの年」といわれている1797年のこと。 21歳のアブラハム・メンデルスゾーンはみずからの銀行設立を決断してパリに向かった。その途中でイエナに立ち寄ったアブラハムは、友人ツェルターが彼に託していた歌曲集を詩人シラーに手渡した。 シラーがその楽譜をゲーテに見せたところ、ゲーテは興味をひかれたようであった。なぜなら、そのツェルターという作曲家から送られたゲーテ詩の12の歌曲の楽譜を、少し以前にゲーテは受け取っていたばかりであったからである。 ゲー

          バラードの年、荘厳ミサの年

          シューベルトの「西東詩集」

          カップのサイズや、飲み口が厚かったり薄かったりで、コーヒーの味が違う!という主張を始めたのはどこの誰なのだろう。 「そんな違いはない」と反論するのは自由だ。 「違い」はコーヒーなどという黒いものを飲む人間の感覚と思考のあいまいさが生む誤謬であって、マイセンであろうが清水焼であろうが、味そのものは同じなのである。そのことに文句はあるだろうか。 そこにきて「味とはなにか?」である。 終わりなき観念論が開始された18世紀、味は「味そのもの」であるというさっぱりした思考に、味は「

          シューベルトの「西東詩集」

          プロメテウスの音楽とチェロ

          まずは形なのである。 はじめに人形をつくり、その人形を人間にする。 ベートーヴェンの『プロメテウスの創造物』には、そう書いてあるそうだ。 プロメテウスは絶対神ジュピターの子である。 プロメテウスは泥から人形をつくり、その心に灯をともした。 ところが、泥人形が野蛮な動きを見せたので、プロメテウスは芸術神アポロンのいるパルナソス山に泥人形を同行させた。 アポロンは女神たちに泥人形の教育を任せた。 心の灯に情感を備えさせるため、女神たちはまず音楽と舞踏を泥人形に教え、そし

          プロメテウスの音楽とチェロ

          ブルッフの新作

          作曲家マックス・ブルッフは1838年、つまりブラームスより5年後に生まれ1920年、つまりブラームスより23年あとに死んだ。 ドビュッシーが死んだ1918年、80歳のブルッフにベルリン大学から神学と哲学の名誉博士号が贈られた。その授賞式の翌日、ベルリン音楽院の芸術アカデミーにおいてコンサートが催された。その場でブルッフを讃える演説をしたのが音楽院長のヘルマン・クレッチュマルだという。 ヘルマン・クレッチュマルは、言わずと知れたトーマス・マンの「ファウスト博士」に登場するク

          交響的時間

          ブラームスのチェロソナタ 第2番 op.99を聴く公演に、この作品が交響的だからという理由で「シンフォニック・タイム」というタイトルを付けた。 このチェロソナタの冒頭には、直前に書かれたブラームスの交響曲 第4番の冒頭がまったく違う形であらわれている。 旋律が逆転しているだけあって、この二つの雰囲気はまったく異なる。 ゆったりと雲のたなびく空を見るような交響曲 第4番に比べて、チェロソナタはいきなり地震警報が鳴り響くような強い切迫感を突き付けてくる。この点ではむしろ交響曲

          Holbergの時代から

          京都府立図書館でノルウェー文学の祖といわれるホルベルクの書いたものを何か読もうと思ったら「デンマーク文学作品集」という本しか見つからない。 1380年から1814年まで、ノルウェーはデンマーク王の統治下にあった。 つまり、ほぼ500年にもわたってノルウェーはデンマークだったらしい。 そんなに単純なことではないかもしれないけれど、ハムレットはそんなまだ大国であった時代のデンマーク王子の話なのだ。 そのハムレットの死に際にデンマーク王に名乗りでるフォーティンブラスはノルウェーの

          飛行先としての「1920」

          近代ベルギーを代表する作曲家ジョゼフ・ジョンゲンは1873年生まれ。 つまり生誕150周年?とはいえ、フルートとピアノだけで演奏時間が30分に迫る大作を聴くことの出来る機会が、たやすく生まれるわけではない。 ジョンゲンのフルートソナタは1924年、パリ音楽院のフルート科教授であるルネ・ルロワのために書かれたが、1925年2月の初演はラヴェルの独立音楽協会においてルイ・フルーリーの演奏で行われた。 同じコンサートではモーリス・ドラージュ作曲の「7つの俳諧」がジャーヌ・バトリの

          飛行先としての「1920」

          個人の判断

          2023年3月13日にマスク着用の必要性についての基準が「個人の判断が基本」となったことについて、では自分はどう判断するのかと考えました。 いざ「自由」と言われてしまうと、どのように受け取ればよいのか?自分で判断したところで、それは勘違いだと言われてしまわないだろうか?と思うと、色々確認をしたくなってきます。 ともかく、「脅威は去った」ということが事実でない限り「個人の判断」を基準にするという方針は理屈があわないわけで、それでは困ります。 そもそも脅威とはなんだったのか

          知りすぎていた男。

          作曲家パウル・ヒンデミットは、彼が生きた時代そのものを代表する巨匠である。 1895年に生まれ、20歳でフランクフルトのコンサートマスターになった頃に世界大戦に巻き込まれ、戦争で父を亡くしたあと、作曲活動が表ざたになってから、ヒンデミットは常に時代の中心にいた。 1921年、ドナウエッシンゲンの現代音楽祭が誕生したとき、彼は既にそこにいた。1922年、始まったばかりのザルツブルク音楽祭において現代音楽の集まりがあったときにも、やはりそこにいた。 32歳にしてベルリンの作曲

          知りすぎていた男。