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フンメルに捧ぐ

1821年1月25日、シューベルトの作品がウィーンの楽友協会ではじめて聴かれた。ギムニヒの歌唱、ピアノはシューベルト自身(もしくはアンナ・フレーリヒ?)で作品は「魔王」であった。

同じ年にシューベルトはピアニストもしくはヴィオラ奏者として楽友協会に登録された。同じくピアニストとして登録のあったリーベンベルクと知り合ったのはこの頃のことではないかとされている。フンメルの弟子で腕の立ったリーベンベルクはピアノの作品を書いてくれないかとシューベルトに頼んだのであるが、その願いは果たして翌年にハ長調の「さすらい人幻想曲」として叶えられたのであった。

シューベルトが規模の大きなピアノソナタを3つ立て続けに書いたのは1828年、体調を悪くして友人ショーバーのところから兄フェルディナントの住居に居を移してすぐの9月のことであった。

第1番 ハ短調、第2番 イ長調、第3番 変ロ長調

3つの大作を出版社のハスリンガーに送ったとき、シューベルトはこれらの作品をリーデンベルクの先生であるフンメルに献呈したいと申し出ていた。

1827年の3月、ベートーヴェンが死ぬ少し前の時期にシューベルトはフンメルに会っていたという。楽友協会の重鎮であったフンメルにはそれまでにも世話になったことがあったかも知れないが、最後の作品となった3つのソナタが献呈されるというには、おそらくその1827年の邂逅が重要なものであったからなのではないか、というのが今ここから書こうとすることの本題である。

フンメルは10歳にもならない頃、2年間をモーツァルトの家で過ごした。
1787年と1788年、つまり最後の交響曲そして最後のピアノ協奏曲をモーツァルトが書いている、その横にフンメル少年は立っていたわけである。出来立ての作品をピアノで演奏するモーツァルトの横にも立っていたであろう。

それからおよそ40年後、巨匠フンメルは1825年から1828年にかけて、モーツァルトの晩年のピアノ協奏曲と交響曲を室内楽合奏、そしてピアノ独奏用に編曲していた。度々ウィーンを離れてパリやロンドンに招かれたその地で、自作とともに師モーツァルトの作品を紹介するという目的もあったのであろうか。

毎晩なんらかの交響曲やピアノ協奏曲が方々で演奏されている今となってはあまり想像できないことであるが、シューベルトが生きていた時代には交響曲や協奏曲などの規模の大きな作品を聴く機会というのは、名作と評判の作品でも、ウィーンやロンドンにおいてさえもなかなかあるものではなかった。だから、モーツァルトの名作を知るにも人はピアノや室内楽に編曲されたものに頼るほかなかったということである。
(シューマンがベルリオーズの「幻想交響曲」の有名な批評を書いたのも、フランツ・リストが編曲したピアノ独奏版の楽譜を参照しながらのこと。1830年の作曲から5年後のことであった。)

幼少の頃に師の演奏を聴いた記憶もあるのか、「フンメル版」はただ原曲を移し替えたというだけでない独特の魅力に溢れている。

例えばこれは有名なト短調の交響曲 K550のピアノ独奏版。

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このピアノの響きはなんだろう!?

聴いたことがあると感じるのは、おそらくこの部分の響きである。

シューベルト:ピアノソナタ 第21番 第1楽章 第2主題変形

そして、この主題は同じ作品の第4楽章に形を変えて現れるが、こちらはよりモーツァルトの主題を切り詰めた形に見える。

シューベルト:ピアノソナタ 第21番 第4楽章 第1主題

もう一度、フンメル編のモーツァルト ピアノ独奏版を

フンメル編 モーツァルト:交響曲 第40番 第1楽章 第1主題

いずれもbbの変ロ長調(シューベルト)とト短調(モーツァルト)。
1827年3月、もしかしたらシューベルトはフンメルから、当時ほぼ完成の域にあったモーツァルトの交響曲およびピアノ協奏曲の独奏版コレクションの提供を受けたのではないだろうか?その返礼としての献呈という行為ではないだろうか?ということがここまで書いてきたことの主題である。

シューベルトの後期の作としてはどこか風変りに感じられていたピアノの響きがここに由来するかもしれないという仮説は、実はシューベルトの第19番 ソナタ ハ短調とモーツァルトのピアノ協奏曲 第25番 ハ長調を比べて聴いていいたときに初めて思い浮かんだ。その間にはベートーヴェンのピアノソナタ ハ長調「ワルトシュタイン」が横たわっている。

音楽作品のルーツを探るときに、まず同じ調、次に同主調もしくは平行調の作品で「関連のありそうな」ものを探っていくことになる。

関連?
・シューベルトの最後の3つのソナタはフンメルに献呈された。
・フンメルはモーツァルトの弟子。
・シューベルトとフンメルが出会った1827年、そしてソナタが作曲された1828年は、フンメルがモーツァルトの後期作品の編曲作業をほぼ終えようとしていた時期に重なる。

その間にはベートーヴェンの死(1827年3月26日)が横たわっている。

シューベルトのソナタとフンメルとモーツァルトについて、昨日思いついたばかりでまだまだこれからのことを今日書いてしまうのは無理があると思いながらここまで書いてきた。

フンメルに捧げるはずの3つのソナタは、結局ハスリンガーが出版する前にシューベルトが死に、フンメルも死んだ2年後の1839年に別の出版社ディアベッリから出版されるにあたり、ディアベッリに楽譜を預けたロベルト・シューマンに捧げられる形となった。
このことを不満に思う人もいるみたいだが、シューマンとて1832年にフンメルから激賞されたことが作曲家としての歩みのはじめであったのだから、まったく故のないことでもなかっただろうとだけは書いておきたい。

シューベルトとベートーヴェンとの関連については研究が進んでいるようだけれど、モーツァルトとなるといまだ読めるものが少ない。フンメルを手掛かりに、どこまで行くことが出来るかわからないけれど、ひとまず今日はこれだけが精いっぱいである。

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2023年10月24日(火) 20:00開演
「インサイド・シューベルト」
F.シューベルト・ピアノ作品全曲シリーズ VOL.24

ピアノ:佐藤卓史

https://www.cafe-montage.com/prg/231024.html


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