リストとクララの1838年
面白いと思っていることがひとつある。
1824年にシューベルトが大きなピアノソナタを作った。
演奏には最高度の技巧を持つ二人のピアニストが必要、ということで一般の愛好家向けではないということなのか、シューベルトの生前には出版されなかった。
1838年、つまりシューベルトの没後10年にあたる年、ウィーンではちょっとしたシューベルト再発見の動きがあった。その一役を担ったのがフランツ・リストである。ウィーンでツェルニーに師事し、おそらくはベートーヴェンにも少し演奏を聴いてもらったリストが1823年にパリに移ってから時は流れ、世代を代表するヴィルトゥオーゾとなったリストがウィーンに戻ってきたのが15年後、つまり1838年のことなのである。
リストはシューベルトの歌曲をピアノ独奏用にアレンジしたものをウィーンに持ち込み、たちまちに大きな話題をさらった。出版社のディアベッリはすぐに出版の手はずを整えた。
もうひとり、その前年1837年の秋からウィーンに来て音楽の都を騒がせていたピアニストがいる。
それはベートーヴェンの熱情ソナタを見事に演奏し、皇帝フェルディナント1世から王室付きヴィルトゥオーゾの称号を授かったクララ・ヴィーク、その時まだ18歳であった。その演奏を聴いた文豪グリルパルツァーは一編の詩を書いてクララに捧げた。
さて話が変わるが、シューベルトが死んでから、シューベルトの兄フェルディナントの協力でシューベルトの遺作を少しずつ出版していたディアベッリは、1837年の年末にシューベルトが1824年に書いた未発表の大ソナタを"Grand Duo"として出版するにあたって、その楽譜をクララに捧げるという形を取った。
いまウィーンで一番話題のピアニストに「シューベルト(故人)が捧げた」という形式で出版されたということは、今の感覚ではあまりしっくりこないことではある。当時、このようなベートーヴェンのごとき大作の作曲家としての「シューベルト」という名前が充分に浸透していなかったということだろうか。知らない人からすれば、あのクララ・ヴィークに捧げられた優れた作品だと思って楽譜を購入し、なるほどクララ・ヴィークしか弾けないような途方もない大作であると思い、シューベルトという人が作曲したらしいと人に尋ねるなどして調べてみると、10年前に死んでいた…。まさかそんな道筋でこの作品に触れた人がいたとは思われないが、1838年当時、今日ベートーヴェンに比するとされる作品のほとんどはまだ出版されておらず、シューベルトがどのようにしてモーツァルトやベートーヴェンの次に来る大作曲家として認知されていったか、その黎明期の出来事と思うととても感慨深い。
ディアベッリは出版後の自筆譜は不要と思ったらしく、18歳のクララにそのまま譲渡した。
その音楽の法外な内容に面食らったクララは一か月ほど譜面を凝視したあとで、1838年2月にロベルト・シューマンにその自筆譜を送った。ロベルトの方はといえば、新しく書いたピアノ曲『ノヴェレッテン』をクララに送ったのと入れ違いに届いたその作品を見て、やはり驚いたに違いない。
1838年4月、ウィーンに到着したフランツ・リストを誰よりも待ち望んでいたひとりがクララであった。というのは、献呈騒動のあった1837年の年末にクララは「リストはもういつ来てもおかしくないけれど、まだ来ません。」とロベルトに書き送っていて、ロベルトもその返事で「リストがシューマンの作品をとても高く評価した」という内容の手紙を入手して自分でわざわざ書き写したものをクララに送っていた。というわけで、はじめは3月までの予定だったウィーン滞在を1か月延ばした末に、ようやくしてリストがウィーンに来た!というわけなのである。
18歳のクララは早速リストの演奏会に行き「あの演奏に比べると、自分はなんだか初心者みたい。早く立ち直れるといいけれど」とうなだれながら「リストにあなたの『謝肉祭』を演奏したらとても褒めてくれた、作品のことも!」とはしゃいだりもした。リストはクララの弾く『謝肉祭』を、あたかも自分が一緒に演奏しているように体を振りながら聴いていたそうである。
その後、クララの演奏を聴いて感嘆したリストは、何度も会い、演奏しあい、一緒にピアノ連弾などもしたという。果たしてその連弾作品の中にあの"グラン・デュオ"もあったのかどうか、何の記録も残っていない。
「ロベルト、あなたが彼(リスト)にまだ会っていないなんて、とても残念!」と18歳のクララはロベルトに書き送った。
さて、ここで少し想像してしまったのだが、もしディアベッリによるシューベルト『グラン・デュオ』の出版が少し遅れて、リストのセンセーション(シューベルトの歌曲パラフレーズが大いにうけた)の時期に重なっていたら、もしかしたらこの作品はリストに捧げられていたのではないか…?
もしそうなっていたら、歌曲のパラフレーズに留まらず『さすらい人幻想曲』の協奏曲バージョンや、ドイツ舞曲のファンタジー集『ウィーンの夜会』を出版するほどのシューベルト・フリークであったリストは、この巨大な作品をどのように扱ったであろうか?いまより有名になっていたか、もしくは…。
ところで、この投稿のトップに使用した二人の肖像はどちらも1838年のウィーン滞在中に描かれ、おそらくは一般向けに販売されたものである。
肖像画の下部には出版した会社の銘があって、クララはディアベッリ出版社、リストはハスリンガー出版社、ということは、今でいえばクララはディアベッリ社の専属アーティストのようなものであったのだろうか。たしかに1838年に作曲されたクララの『ウィーンの思い出』op.9はディアベッリ社からその年に出版されている。だとすれば、シューベルトの名前とクララの名前の両方が大きく掲示されていることは、クララのファンにはシューベルトを、シューベルトのファンにはクララを推すことになり、ディアベッリとしては両得で理にかなったことだったのかとも思われる。しかし、リストが1838年にウィーンに持ち込んだ『12のシューベルト歌曲』も、最初に書いたようにやはりディアベッリ社から出版されているのである…。
ともあれ、シューベルト『グラン・デュオ』はクララの手からロベルトに渡り、そこから事は大きく動いて、1838年6月の「新音楽時報」の『シューベルトのデュオと3つの新しいソナタ』という記事となって、世間の広く知るところとなった。おそらくは記事にするからといって出版社ディアベッリとなんらかのやり取りがあったのだと思われるが、シューベルトの最後の3つのソナタがこの記事の執筆時点でディアベリからの提供でシューマンの手にあった事実には改めて驚かされる。そして、その10月にはロベルト・シューマン自身がウィーンに赴き、シューベルトの兄フェルディナントを訪問→交響曲『グレート』の発見という、ダイナミックな時代が到来したのである。
時代を遡ると全ては必然のように見えることではあるけれど、そうではなかったかもしれないもう一つの時間との大きな分岐点がここにはあるように思われるのである。果たして、この『グラン・デュオ』がのちにブラームスにどれほどの大きな影響を与えたかということを見るとすれば、なおさら、ロマン派の大空が凝縮された末に単音のハ音で集結するこの作品の運命から、逃れようがないことを思い知るのである。
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「グラン・デュオ」- F.SCHUBERT
2024年6月14日(金)20:00開演
佐藤卓史 ピアノ
中桐望 ピアノ
https://www.cafe-montage.com/theatre/240614.html
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