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シューマンのバッハ、楽譜のこと

私は18歳の、まだジャン・パウルに熱中していたころ、はじめてシューベルトを聴いた。新たな生活が始まった。シューベルトとベートーヴェンが行き先を照らしてくれたものの、バッハはまだ黄昏の中にあった。私は常にバッハに熱心にとりくんできた。

ロベルト・シューマン:自伝的ノートより

シューマンがバッハの無伴奏チェロ組曲のピアノ伴奏の作曲に取り組んだのは、1853年の3月から4月にかけてのことだった。
すでにヴァイオリンの為の無伴奏ソナタとパルティータ全曲のピアノ伴奏版がブライトコプフ社から出版されることが決まっていたが、チェロ組曲の方はそもそも原曲が一般に知られていないせいか、なかなか出版先が決まらなかった。
その年は9月に新星ブラームスの突然の訪問に見舞われたりなどして、自分が大変だったこともあったかもしれない。しかし、ブラームスが帰った後、シューマンは今度はキストナー社にチェロ組曲の出版を打診した。
キストナー社はヴァイオリンの為の無伴奏作品のモリークの手によるピアノ伴奏版(抜粋)を出版していたことからも脈があると考えたようだが、やはり「バッハのチェロ組曲?」というわけで出版には至らなかった。

そこでシューマンはさらに手を加えて、12月と翌1854年の1月に組曲の1,3,4,6番の4曲をデュッセルドルフで初演した。(この時にピアノを弾いたのがシューマン自身か、もしくはクララであったのかは定かではないらしい。)
その翌月にはもう、シューマンはライン川に向かって走っていったわけなので、このチェロ組曲のピアノ伴奏はシューマンの最後の仕事の中の一つに数えられるという訳である。
しかし今現在、それらは全て失われてしまっている。
その顛末について、少し書いておきたい。

時は流れて1860年、世間の関心はバッハの器楽作品にも集まり始めていた。無伴奏チェロ組曲も、まだコンサートの定番という位置にはなかったものの、その存在は徐々に知られており1866年には大チェリストのグリュッツマッハーが「演奏会用」として大胆な超絶技巧アレンジを加えた無伴奏組曲を発表することになる。
そんな中、シューマンのピアノ伴奏版の存在も知られるところとなり、ライプツィヒのシューベルト社がクララに出版を促す手紙を書いてきた。
ロベルト・シューマンが他界して4年、エンデニヒの療養所に持っていって最後まで大事にしていた無伴奏チェロ組曲の出版…。それが果たしてどのような意味を持つことになるのか、確証を持つことが出来なかったクララはヨアヒムに相談の手紙を書いた。

ヨアヒムはブラームスとよく話し合い、一緒に全曲を演奏してみた(ヴィオラで?!)その結果として「出版は見送った方がいいだろう」という返事をクララに送った。
その理由の最大のものはそこにある「バッハらしくない個性」と「作曲家としてのロベルト・シューマンの評価への影響」ということであったようだ。
すでに全曲出版の広告も出していたシューベルト社は、クララから出版差し止め依頼の手紙を受け取ることとなった。
それは残念なことであったというべきだろうか。

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ここでひとつの想像をしてみたい。
もしこの時にシューマン編のピアノ伴奏版が出版されていたとしたらどうなっていたのだろうか。

ヴァイオリンの無伴奏作品については、ピアノ伴奏版の演奏がより広まる中、ヨアヒムが懸命に無伴奏版を演奏し続けたおかげもあって、オリジナル作品の評価が損なわれることはなかった。しかし、まだそれほど演奏されていたわけではないチェロ組曲については、事情が違っていただろうと思われるのである。つまり、当時の一般的な価値観からすれば、ピアノ伴奏版のほうがよりポピュラリティを獲得できたであろうということ。それに対抗するチェリストが存在したかどうかということ。つまり、バッハの音楽をそのままに深く愛し、技量的にもヨアヒムに匹敵するチェロのソリスト、という意味である。いた可能性はあるが、そのとき仮にシューマン編が評判となって広まってしまったとすれば、バッハのオリジナル版が演奏される機会はさらに遠くなるであろうことは容易に想像できたであろう。そのせいでのちのカザルスの出番が無くなっていたとすれば、なかなか大変なことである。数年後に出版されたグリュッツマッハーの超絶技巧版のことを考えてもそのリスクは大きかったはずで、まだ時期尚早であるとヨアヒムとブラームスが判断したのは無理のなかったところではないだろうか。
さらに、まだブラームスの評価も定まっていない世の中で(ドイツ・レクイエムの登場はまだ8年も先のことである)、シューマンが「バッハ作品の編曲者」として認知されてしまうリスクも考えなくてはいけない。仮に、のちにブラームスが得ることになった強大な影響力を持ってしても、音楽におけるポピュラリティの力は圧倒的なものであったであろう。
シューマンは先に彼のオリジナル作品の存在によって、後世に語られるべき大作曲家である。それはヨアヒムとブラームスの意見の一致するところであり、そのためには彼の作品の扱いには慎重になるべきであろう。
このことは例えば大作曲家グノーについての「アヴェ・マリアの作曲家である」という認知について考えてみれば、自分にでもなんとなく理解できるような気がするのである。

失われたはずのシューマン編、第3番 ハ長調の楽譜が見つかったのは1980年代のこと。ユリウス・ゴルターマンというシュトゥットガルトのチェリストが1863年に書き写したもので、広く知られているドッツァウアー版の無伴奏チェロ組曲全曲の楽譜の中に挟み込まれていたとのことである。

バッハの無伴奏チェロ組曲への評価およびそのポピュラリティが揺るぎのないものになっている現在、さらにいえば作曲家ロベルト・シューマンの評価がもはや唯一無二のものとなっている現在、かつてヨアヒムとブラームスがしたであろう心配をする必要は、もうないのではないだろうか?

この作品をバッハの音楽として聴くか、それともシューマンのバッハ研究の結実として、他のシューマン晩年の作品との繋がりの中で聴くか。
音楽の純粋な楽しみに加えて、これからの音楽の聴き方、聴かれ方をうらなう意味でも大変重要な側面をはらんだ問題作の登場である。

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2024年3月16日(土) 20:00開演
「ストリング Unstopped - C」
チェロ:山本裕康
ピアノ:諸田由里子

https://www.cafe-montage.com/prg/240316.html

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