「フィガロハウス」のモーツァルト
何も起こらず、ただ過ぎていくだけの時間は、存在しない。
ベルリンのイツィヒ家にて、ザラ、そしてその姉妹であるベラとファニーは、それぞれ若き日にバッハの息子フリーデマンや、バッハの弟子キルンベルガーなどに教育を受け、一族でバッハの音楽を共有してきた。
姉妹はそれぞれに結婚して名前が変わった。
・ザラ・レヴィはベルリンで著名人が集まるサロンを開き、のちにベルリンのジング・アカデミーがバッハ復興の中心となる礎を作った。
・ベラ・ザロモンもジング・アカデミーの創設からその活動に寄与し、のちにアカデミーの一員となった自分の孫フェリックス・メンデルスゾーンに『マタイ受難曲』の楽譜をプレゼントした。フェリックスがその復活初演を果たしたのはそれから5年後のことである。
そして、
・ファニー・アルンシュタインは1776年にウィーンに行き、翌年に同じくベルリンからウィーンに来たスヴィーテン男爵の音楽サロンに出入りして、ウィーンの古楽愛好のサークル(ここでは便宜的に"バッハ・サークル"と呼ぶことにする)の一員となった。
モーツァルトがそのスヴィーテン男爵の家に出入りするようになったのは1782年のことだと言われている。モーツァルトはその前年の8月からウィーンの中心街のある集合住宅に暮らしており、その家主の名前は"アルンシュタイン"といった。
お分かりだろうか。
つまり、フェリックス・メンデルスゾーンの祖母の妹ファニーが、モーツァルトの大家さんであったということなのである。
ウィーンの"バッハ・サークル"に属していたのはファニーだけではない。のちにベートーヴェンの重要なパトロンとなるリヒノフスキー侯爵、宮廷最高位の裁判官ブラウン、宰相として最高の権力を誇っていた宮廷大臣カウニッツ、そして「啓蒙」の旗手ゾンネンフェルス、、
こう書いていると、若いモーツァルトの周りに強力な有力者たちがそんなにたくさんいたのかと驚かれるかもしれない。しかし、おそらくは逆の見方をしなければいけないのだ。つまり、彼ら、偉大なバッハの音楽に引き寄せられて集まった選ばれし人たちの目線の中心に、バッハに並ぶことの出来るおそらく唯一の芸術家、あの天才モーツァルトが鎮座していたのである。
少し時間を遡ろう。
スヴィーテン男爵がはじめてモーツァルトに会ったのは1768年、まだ12歳のこの天才が父とウィーンに来て、若きヨーゼフ二世(当時27歳、皇帝となってからまだ3年目)の依頼で歌劇"La finta semplice" K.51(純真なふりをする娘)を書いた時で、この作品の上演実現に助力したという。マリア・テレジアの右腕かつ、ここからいわゆる「ヨーゼフ主義」が台頭する"啓蒙"の立役者であり、劇場文化の近代化に多大な影響を与えたゾンネンフェルスも、おそらくはそこにいたのではあるまいか。
『純真娘』の原作は当時最高の喜劇作家といわれたゴルドーニ、台本は宮廷詩人コルテッリーニという最上のプロダクションが皇帝の手から直々に12歳の作曲家に与えられたのである。そして、このゴルドーニ=コルテッリーニのプロダクションが、後年『フィガロの結婚』のボーマルシェ=ダ・ポンテ(稀代の喜劇作家 & 宮廷詩人)のプロダクションとして実現したと考えると、事はすでにここから始まっていたのかもしれないとも思えるのである。
結局この『純真娘』は劇場側から拒否されて上演が出来なかったそうだが、音楽の選り好みの激しいあのスヴィーテンがこの作品を気に入っていたということの意味を決して軽く考えることはできない。
その9年後、1777年にモーツァルトは父の元を離れ、母とともにパリに向かった。その途中で父の故郷であり従妹マリア・アンナ(通称ベーズレ)のいるアウグスブルグに立ち寄ったというのだが、その年の始めに、まさにそのアウグスブルグの大聖堂で結婚式を挙げてその地で演劇人としての名をほしいままにしていたのが、のちに『魔笛』の作者となるエマニュエル・シカネーダーである。無類の演劇好きであったモーツァルトがこの時にシカネーダーと会った記録はない。ほどなくモーツァルトはパリに向かい、翌1778年、パリで話題となっていたボーマルシェ作の舞台『セビリアの理髪師』の劇中歌である「私はランドール」の主題によるピアノのための変奏曲を書き、その年にパリで出版された。演劇好きのモーツァルトがこの時にボーマルシェに会った記録はない。
2年後、1780年の夏からシカネーダーが演劇一座を率いてザルツブルクに逗留。モーツァルトと親交を深めた。モーツァルトはその翌年の1781年3月、実に13年ぶりにウィーンに向かったのである。
ここで話と時代を戻そう。
1784年、バッハ・サークルがさらに広がりを見せた時期に、モーツァルトはのちに「フィガロハウス」と呼ばれることになる、ウィーンの街のど真ん中にある大きな家に移り住んだ。
その年末に入会したフリーメーソンとのつながりも加わって、モーツァルトに注がれる目線の強さは、想像を絶するものであっただろうと思われる。
その同じ年、1784年にパリで初演を迎え、一世を風靡した演劇作品。
それが、ボーマルシェ作の『フィガロの結婚』であった。
ウィーンにもその評判が届いた『フィガロの結婚』は、1785年1月まずモーツァルトの盟友シカネーダーによってドイツ語での上演が計画されたが、皇帝から上演の許可を得ることが出来ず、予告されていた初演は中止となった。
それから1か月と経たないうちに、今度はモーツァルト自身が王室付きの作家ダ・ポンテに近づき、『フィガロ』オペラ化の提案を持ち掛けたのだという。
モーツァルトがどのような意思をもって『フィガロ』を作曲したのか。
ここまで書いたからには、何かの必然をここに見出したい気持ちもある。
「フィガロハウス」にいる間、モーツァルトは自作の作品目録以外に、自分についてのことをほとんど書き残さなかった。
1787年4月、死に向かう床にあった父レオポルトに一通の手紙を出した。
その月末、モーツァルトは「フィガロハウス」を出て郊外に引っ越した。
翌5月の末、父レオポルトが死んだ。