「不在」の存在証明、永遠の三重奏
― いまこそ話しておくが、ヨハネス、
わしは君の心の中を深く見通していて、その中にある危険な ―
恐ろしい秘密をみとめていたんだよ。
すなわち、いつなんどき危険な火炎をあげて爆発し、容赦なく周囲のありとあらゆるものを舐めつくす、沸騰している火山をだ。
― おお、先生、この僕をあつかましくも愚弄し、おもちゃにする権利が、あなたに与えられているのでしょうか。僕の心を理解することが出来るなんて、あなたは運命ででもあるのですか。
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上の会話は、ロベルト・シューマンが愛読していた、E.T.A.ホフマン作『牡猫ムルの人生観』に登場するアブラハム師と作曲家ヨハネス・クライスラーによるものである。
師シューマンにそのようにしてからかわれたのかどうかは不明だが、若きヨハネス・ブラームスは自分のことを"クライスラーJr."と呼ぶようになっていた。
1853年の9月末、ヨハネス・ブラームスがデュッセルドルフのシューマン家を訪れたのは、偶然とも運命ともいえる。
かつて、シューマンに作品を見てもらいたいと願いながら叶えられなかったあの時から、シューマンと自分とは縁がないと思い込んでいたという。そのブラームスがどうしてシューマンを訪ねることになったのだろうか。
1853年、ヴァイオリニストの親友レメーニと演奏旅行をしていたブラームスは、6月にワイマールのフランツ・リスト邸を訪れた。そこで半月ほどを過ごした後、ブラームスはゲッティンゲンにいたヨーゼフ・ヨアヒムを訪ね、その夏のほとんどをヨアヒムと過ごし、ときどき一人で徒歩旅行をしていた。
9月のはじめ、その徒歩旅行の一環でボン近郊のメーレムに行き、のちにドイツ銀行となるシャフハウゼン銀行の頭取であるダイヒマン家の城を訪ねた。
クララ・シューマンやリストも訪れたことのあるその城で、ブラームスはシューマンの作品をたくさん知ることとなり、すでにほぼ完成していたピアノソナタ 第1番の手直しをした。そのあと、ライプツィヒにでも行こうと思っていたブラームスは、ダイヒマンの妻リッラの強い勧めもあって、9月末、デュッセルドルフにシューマンを訪ねることになったというのである。
シューマン家で過ごしたあと、12月から翌1854年の1月にかけて書き上げた『ピアノ三重奏曲 ロ長調』の最後に、ブラームスは《クライスラー.Jr》の作曲と書きつけた。
シューマンがライン川に身を投げたのは、その翌月のことである。
なぜそのようなことになったのか、シューマンの内面を覗くことは自分には許されていない様に感じている。しかし、まだ20歳であったヨハネス・ブラームスにとって、その衝撃がいかに大きなものであったかと考えることが、この『ピアノ三重奏曲 ロ長調』の行く末を考えるうえで、避けて通れないことのようにも思うのである。
この『ピアノ三重奏曲 ロ長調』はベートーヴェンの歌曲集『遥かなる恋人に』の第6曲「この歌を、受け取って」の旋律のヴァリアントで始まり、その旋律を二人(ピアノとチェロ)で歌い、その上から誰かの声(ヴァイオリン)が降り注ぐところからはじまる。それはかつてロベルト・シューマンが幻想曲 op.17の中で、まだ17歳であったクララに宛てて引用した旋律でもあった。
第4楽章にこの旋律がそのまま登場することから、冒頭の主題がそのヴァリアントであることが了解できるのであるが、この主題が形を変えながら上昇し、発展するかと思われたところに突如、高いところから奈落に転がり落ちていくような音型があらわれ、周囲の様子は一変する。
どこの世界に来たのだろうか?
バッハのフーガやモーツァルトの断片のような音型を踏み越えて、楽しげな新しいメロディーがピアノで提示される。
スコットランドかどこかの民謡のようなこの旋律が、おそらくはクララ作曲の『ロマンスと変奏 op.3』つまり「クララ・ヴィークの主題」のヴァリアントでなのである。
ロベルトとクララの運命を結びつけた旋律。
もしこれがそうだとすれば、ブラームスはいつ、どの段階でこの主題の意味を知ったのだろうか。
『ピアノ三重奏曲 第1番』の中では、シューベルトのハイネの詩による歌曲『海へ』の旋律も引用されている。
まだブラームスがシューマン夫妻に導かれて「新しい道」を歩きだす、確信に満ちていたであろう時期の作品であるにも関わらず、《クライスラーJr.》の名前で書いたこの作品の中で、彼はすでに3人の行く末の全てを知ってしまっているようにも感じられるのである。
シューマンがライン川に身を投げたあと、クライスラーはブラームスのオルター・エゴ(別人格)となった。
それはブラームスがこの6月に生まれたクララの息子フェリックスのために書いた変奏曲を仕上げていた時期のことであった。
この変奏曲の主題はちょうど1年前の6月に、クララがロベルト・シューマンの誕生日プレゼントとして書いたのと同じ主題、つまりロベルト・シューマンの『色とりどりの小品』の中の主題であった。
ブラームスはこの作品のそれぞれの変奏に"Kr"そして"B"という印をつけた。
クライスラーとブラームスの影、そこにある涙。
そして8月12日の聖クララの日に第10変奏を新たに書き、その一番最後に、
あの「クララ・ヴィークの主題」をそのままの形で見事に織り込んだ上で、
というタイトルをつけてクララに捧げた。
受け取ったクララは、昨年ロベルトのために自分が書いた変奏曲の譜面を開き、その最終変奏に「クララ・ヴィークの主題」を加えて書き換えた。
ブラームスとクララが作曲した変奏曲は、どちらも
と題されて、1854年の11月に2つ同時にブライトコプフ社から出版された。
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その後、ブラームスはこの変奏曲を手直しする機会が2回あったという。
1回目は1875年、ブライトコプフ社がすでに有名になったブラームスの初期ピアノ作品集を出版するというので、校訂を頼まれたときのこと。
2回目は1888年、ジムロック社がブラームスの初期作品の版権をブライトコプフ社から買い取り、やはり校訂を頼まれたときのこと。
いずれの機会にもブラームスは「少し書きかえたい」という気持ちでいたらしいが、結果として大幅に手を加えることはなかった。
しかし、2回目のジムロック社の依頼は思わぬ方向に事が進んだ。
その翌年ブラームスは、あの『ピアノ三重奏曲 第1番』を完全に書きかえてしまったのである。
ブラームスはまずクララにあてて
そして出版社ジムロックには
と書き送った。
「新しい方」の三重奏曲の登場は物議を醸しだした。
評論家のハンスリックは「もう以前の作品には戻れない」と書き、初演をしたチェリストのポッパーは「書き直してこんなに素晴らしくなるんなら、僕の作品も全部書き直してほしい」とブラームス本人に言った。
半面、ブラームスが何かにつけて作品の感想をきいていたヘルツォーゲンベルク夫人は「私の中の何かが、この書き直しに対して抗議しています」と書き送ったし、ヨアヒムは冒頭の自分のパートが削られてチェロの演奏を黙って聴かされるせいかどうか、ともかく機嫌を損ねたという。
「新しい方」の初演はヨアヒムではなく、弟子のフーバイが担当した。
しかし、ここまで長く書いてきたのは、「古い方」と「新しい方」のどちらが良いかどうかなどというためではない。
今日、私たちはほぼ例外なく「新しい方」から聴き始めているはずである。
そして「古い方」を聴いたときに、そのあまりの違いに少なからずショックを受けるはずだ。
そして「古い方」を聴いた後にもう一度「新しい方」を聴いたとき、そこにあるものの輝かしさと素晴らしさに気づくと同時に、この作品がそれでもなお背負っている哀しみの大きさに初めて触れることが出来るという、そのことを表明したいからこそ、この記事をここまで書いてきた。
三重奏の冒頭、かつて「古い方」では二人が歌う『この旋律を、受け取って』のメロディーに、上から誰かの呼ぶ声があった。
でも、いまはたった二人しかいない。
あの上からの声は誰のものであったのか、「新しい方」では、ヴァイオリンはかつての独立した声によってではなく、二人の歌う旋律に影のように寄り添う形で登場する。
ロベルト・シューマンはもういない。
そして、クライスラーJr.もそこにはもういない。
そこに「不在」であることを表現する手段として、ブラームスは「新しい方」の三重奏曲を書いたのではないだろうか。
嘗てあったものを、一度完全に捨て去ることによって、それは新たに探し求められ、そして永遠に刻まれるのだとすれば、ブラームスが「新しい方」で残酷なまでに捨て去った「遥かなる恋人」は、私たちの中に永遠に生きるということなのかも知れない。
・・・・・
しかし、「売れないだろう」とブラームスに言われてしまった出版社ジムロックは、果たして「古い方」をどうしたのだろうか。
あとは、
いつかこの作品がどちらも演奏されて、
私たちが聴くということに託されている。
・・・・・
2024年1月25日&26日 20:00開演
「始まりの三重奏」
メルセデス・アンサンブル
https://www.cafe-montage.com/prg/24012526.html
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