見出し画像

叙事詩 - 二人のメトネル

音楽は歌から生まれたのか、もしくは律動から生まれたのか。
その答えは、音楽とはそもそも何かというそれぞれの考えによって、それぞれに導き出されるたぐいのものである。

メトネルにとって、それは歌であったらしい。
というのは、彼がソナタ「エピカ」を書き始めたころに出版された評論集『ミューズと流行』(1935)に彼自身の言葉でこのように書かれているからである。

はじめに歌ありき。
はじめにその歌を歌った人は純真で、もちろん諸要素の選択について考えもしなかっただろうし、諸要素を考え出したわけでもない。
語りえぬものがひとりでに語られたのだ。それでも歌は作られた。つまりすでに歌の諸要素となっていた個々の音から組み立てられたのだ。

しかし、語りえぬものについて歌い出した人は一人ではなかった。

ニコライ・メトネル『ミューズと流行』(高橋健一郎訳)より

この本におけるメトネルの思考は「もともとあるもの」と「そこに引き寄せられるもの」という二つの項、いいかえれば「先験的」なものと「経験的」なものを行き来する哲学の弁証法のような、説明するにも根気のいるものなのでここではあまり追わない。

メトネルには兄がいて、メトネルの経験的な思考はかなりの部分においてこの兄の経験と並走しているようである。
この兄メトネルはメトネルと哲学は共有しながら、さらにニーチェのスーパー・エゴに押し進んでいくような人で、のちにロシアの象徴派を代表する詩人となるベールイに出会い、カント、ニーチェ、ワーグナーについて共に語るうちに、ベールイがシュタイナー(有名なシュタイナー教育の人)に心酔し始めるとそれについていって、全面的に賛成出来ずとも「ダンス」は良いなどと思ったり、エゴを推し進めてユングの所に多い時には週5日も行って、さんざんニーチェの話をしてまるで「ツァラトゥストラ」のようだと評された兄メトネルの身振りは伝説のように語り継がれている。

ところでさきほどダンスといったが、当時のロシアではダンスの熱狂が哲学的高みに達していて、イザドラ・ダンカンとタンゴを並べて、タンゴにフロイト的解釈を加えた『芸術とセクシュアリティ』という本が1914年に出版されるなど、ロシアの知識人の間ではいわゆるポップ・カルチャーと古典芸術が自然と融合していたようなのである。
ディアギレフが『芸術世界』から音楽や絵画のイベントに深く関わるうちにバレエ・リュスが立ち上がり、その熱狂はすぐにパリにも伝染していった。

メトネル自身はいわゆる前衛からは距離をおいていたといわれているが、知識人の間に広まっていたポップ・カルチャーについては、

何世代にもわたる創作、匿名の作者たちによる創作、正確な年代の分からない創作、非常に自然な流れで次第に催眠術にかけるかのようになされてきた創作 ― これらの創作の神秘を前に、我々現代人は過去のあらゆる偉大な大家たちがそうしてきたように跪くしかない。

同上『ミューズと流行』より

というメトネルの思考に沿った「非常に自然な流れで次第に催眠術にかけるかのように」なされた、現在・モダニズムの発露だと捉えていたのかもしれない。
自分がメトネルについて少しずつ調べ始めたころは、「保守的」だという描写ばかりが目立っているように思えたメトネルだが、色々と読みながらその時代に当てはめて考えるうちに、何につけ選り好みが激しいということは確からしいけれど、むしろかなりモダンな人だった可能性が高いと感じるようになってきている。

ロシア革命の後、1925年つまり映画『ミッドナイト・イン・パリ』に描かれているようなあの熱狂の時代のパリに降り立ち、メトネルはそこにおよそ10年の間居住していた。
その最後の年、1935年にメトネルの兄が38ページにもわたる長い長い手紙をメトネルに送ってきた。ユングとニーチェを語り尽くし、ムッソリーニにナポレオンの残像を見たり、ヒトラーにとってのメフィストになるのかと夢想していたこの20年間が全て無に帰し、自分にはもう死ぬことしか残っていないと、兄メトネルはいうのである。

メトネルは翌年にパリを離れてイギリスに移住し、そこで兄メトネルを迎えたが、二か月もたたない6月に兄メトネルはチェコの温泉に行くと言い出し、その温泉のあとで訪れたドレスデンで倒れて精神病院にはいった。
兄メトネルは過去と現在を混同して延々と語りはじめ、ナチスによる独墺協定締結の日である1936年7月11日に、そのまま死んでしまった。

メトネルは兄から38ページの長い手紙を受け取ったその年から書き始め、3年後に完成したヴァイオリンソナタに『エピカ(叙事詩)』と題をつけて、「我が兄エミーリイの想い出に」と書き添えた。

メトネルによる音の叙事詩は、悲劇的であるよりはむしろ明るく、でも情熱と郷愁がない交ぜになった舞踏を聴いていると、確かに過去と現在を区別する感覚が自分から失われていく…。兄メトネルは、その唯一の研究書であるリュングレン著の『ロシアのメフィスト』を読む限り、およそ現実離れした一生を送った強烈な人間であったようだ。

そんな兄メトネルからの38ページの手紙の中に何が書いてあったのか。
「死ぬことしか残っていない」という一言以外に、その手紙について参照できる資料を見つけることは出来なかった。

語りえぬものがひとりでに語られ、歌はつくられた。

50分におよぶ「エピカ=叙事詩」と題されたヴァイオリンソナタは、その手紙に対するメトネルからの返信ではなかったか。

メトネルは「この本は誰からも 理解されないどころか、読まれることもないだろう」と言いながら、パリを離れる寸前の1935年に、ラフマニノフの助力を得て『ミューズと流行』を出版した。

その序文の冒頭
メトネルはロマン派の詩人レールモントフの詩を掲げた。

その歌の響きは若い魂の中で言葉はないまま、
しかし生き生きとしている。
そして世界で長い間天使の心は苦悩し
不思議な望みに満ち
そして天使の心にとって物憂い地上の歌は
天の音に取って代わることができなかった。

― レールモントフ

ニコライ・メトネル『ミューズと流行』(高橋健一郎訳)より


・・・・・

’24年11月19日(火) 20:00開演
「エピカ」
黒川侑 violin
秋元孝介 piano

https://www.cafe-montage.com/theatre/241119.html


いいなと思ったら応援しよう!