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映画「ガタカ」の感想をちょっと真面目に書いてみる


先日、夢から目が覚める瞬間に「ガタカ」という声が頭の中ではっきりと聞こえた。そういえば、そんなタイトルの映画があったような気がする。ということで、その日の午後にさっそく観てみることにした。

ざっくりとあらすじ。

遺伝子操作により優れた才能を持って生まれた「適正者」と、自然妊娠によって生まれた「不適正者」に分けられた世界。不適正者として誕生したビンセントは、生まれながらに大きなハンデを負いながらも、いつかこの窮屈な地球から抜け出すため宇宙飛行士になることを夢見ている。

ふたつ年下の弟アントンは適正者であり、ビンセントとアントンはよく度胸比べとして遠泳をした。生まれつき虚弱なビンセントはいつも負けていたが、ある日アントンに勝利し、それを機にビンセントは家を出る。

憧れの宇宙局「ガタカ」で清掃員として働くビンセント。いつかは自分も局員にと願うが、どれだけ努力を重ねたところで、不適正者である自分には決して叶えることのできない夢だった。そしてある日、ビンセントは悲運に見舞われて適正者としての能力を失った元水泳会のスーパースター、ジェロームと出会い、彼になりすますことを決意する。

血液、尿、頭髪などの生体IDをジェロームは日々、ビンセントに提供する。ジェロームとしてガタカの局員になったビンセントは、それらを使って毎日行われる生体認証を潜り抜け、タイタン探査船の宇宙飛行士として選ばれる。同僚のアイリーンとの間にも愛が芽生えはじめていた。

しかし探査船の打ち上げを前にして、ガタカ内で殺人事件が起こる。現場を訪れた際に落としたまつげを拾われ、殺人の容疑者となってしまうビンセント。不適正者であることが露呈すればすべてが終わる。宇宙へ旅立つ夢を叶えるため、ビンセントはジェロームやアイリーンの手を借り、正体を隠しながら捜査をすり抜けようとする。


ここから感想。大いにネタバレ。

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「適正の世界に不適正の僕が現れないように」

これは作中のビンセントの言葉。ガタカ内に不適正者である自分の存在を表すものを決して残してはならないため、ビンセントは毎日垢をこすり落とし、爪や抜け毛を焼却炉で処分する。ガタカは適正者にのみ許された場所だからだ。

宇宙飛行士になるという途方もなく遠い理想。「遺伝子的に適さない」という自分では変えようがない個性のために、どれだけ努力しても夢に手が届かないという苦しみ。不適正者であるビンセントの生きづらさは、わたしにもよくわかる気がする。生まれ持った性質に抗うということは、自分の運命に抗うことと同じであり、目指す理想に相応した苦痛を抱えることになるのは当然のことだろう。

映画を見ていて一番息がつまったシーンといえば、アイリーンと一夜を共に過ごしたビンセントが、翌朝、枕に自分の髪の毛がついているのを見つけ、恐怖に似た表情を浮かべる場面。

そっとベッドを抜け出して全裸のまま海へ向かい、そこらにあった石で必死に体の垢をこすり落とすビンセントの姿は、哀れといえばそうだし、滑稽といえばそうなのだけれど、愛する女性の前であっても不適正者である自分を「あってはならないもの」としてしか扱えないビンセントの孤独を思うと切なくなった。映画の中では孤独についてはあまり描かれていないけれど、ビンセントの顔つきを見れば、彼の中に深い悲哀や孤独が潜んでいるのがわかる。

また、ビンセントに生体IDを提供するジェロームは適正者であるが、彼は優れた遺伝子を持つはずが水泳会で銀メダルであったことに苦悩して自殺を図り、下半身不随になる。

「自分は優れた存在であらねばならない」、これは適正者としての重荷であり苦しみだと思う。生まれつき優等な存在であるはずの自分が何かに破れたり、失敗したり、ほかと比べて劣っているわけにはいかないのだ。

それはビンセントの弟アントンにしても同じことで、彼も子供の頃に不適正者である兄に遠泳で負けた自分を認められないという気持ちをずっと抱えてきたのだろうし、アイリーンにしても、どれだけ優れていても心臓に問題があるというただひとつの欠点だけで、自分は適正者として不完全であると悩んでいたようだ。適正者には適正者の背負う重荷がある。

自分に絶望し、おそらく適正者として生きることにも疲れたジェロームは、不適正者でありながらその運命に抗い続け、どんな努力や犠牲や苦労をも厭わず夢を追い求めるビンセントに対して憧れや嫉妬を抱き、同時に自分自身の夢を託してもいた。ジェロームにとってビンセントはもはや分身とも言える存在だったのだろう。親が子供に夢を託すように、彼は「もうひとりの自分」としてのビンセントに、運命を超えることを望んでいた。

終盤、宇宙へと旅立つビンセントを見送ったジェロームは首に銀メダルをかけ、焼却炉へ入りスイッチを入れる。炎に包まれるジェローム。彼の銀メダルに刻まれていたのは水泳をするふたりの人間の姿だった。それは遠泳をするビンセントとアントンのようにも見える。

ビンセントとアントンの遠泳は何を意味していたのだろう。それは、まったく違う性質を持って生まれてくる人間たちが、自分の存在のあり方に悩み、必死で自分自身を認めようと、生きる意味を証明しようと運命に挑み、神に抵抗する、そんな哀れで愛しい人間の生きる姿を隠喩しているのかもしれない。その過程で人は競い合ったり、差別したり、傷つけあったりするわけだけれど、誰もがこの世界という海をもがきながら泳いでいて、その苦痛を比較することは本来できないはずだ。

ところでわたしには10年近くお世話になっている臨床心理士の方がいるのだけれど、この前こんなことがあった。

「自分は中卒だし、同性愛者だし、精神障害者だし、今は無職だし、どれだけ普通から逸れていくんだろうと思うと怖い。自分は少数派の人間だ」というような弱音を、わたしは話した。すると先生は、「すべての面において少数派なわけじゃない。たとえば五体不満足の人からすればあなたは多数派だ」と言った。

この話を振り返ってみると、多数派を適正者、少数派を不適正者と言い換えれば、映画ガタカに登場する人物たちとこの現代に生きるわたしたちが全く同じ悩みを抱えていることがわかる。

わたしはある一側面では少数派かもしれない。また別の一側面では多数派かもしれない。それはすべての人・場面に言えることであって、そこにあるのは違いだけで決して優劣ではない。すべての存在が必要なのだ。ビンセントが宇宙へと旅立つことができたのも、もちろん彼の努力があればこそだが、それは彼を取り巻く様々な人の生き方やその人生のドラマがつながって叶えられた夢でもある。だから安直な結論になってしまうけれど、やっぱりすべての存在が必要であり、優劣はないはずなのだ。

でも、こんなことはビンセントやジェロームたちのように本気で自分の存在に悩み苦しむ人たちからすれば身も蓋もない結論とも言える。誰もが平等である、そんなことはほとんどの人間がわかっているからだ。でも、人は傷つく。どれだけ時代が変わっても、限界を知り、運命に打ちのめされるたびに、人は折に触れて自分という存在の価値の不確かさに傷つくのだ。

そうした人間たちが葛藤を抱えながらも必死に生きる姿そのものを、この映画は命は平等だ不平等だという話の前にまず、肯定してくれたように思う。まるで宇宙そのものみたいに大きなスケールで。そして生という海の中で泳ぎ続ける悲しくも美しい人間の姿を、神の視点からそっと優しく見つめてくれる。



なんていろいろ書きましたが意味不明だったらごめんなさい。頭の中の回路がちゃんとつながっていないので…。


監督・脚本はアンドリュー・ニコル。「トゥルーマン・ショー」の脚本も手がけている方。作中にくりかえし流れるマイケル・ナイマンの「The Departure」は本当に美しい曲なので、よかったら聴いてみてください。

(それにしても覚醒時に「ガタカ」と囁いてくれた自分の脳には感謝しなければ…。)




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