見出し画像

Cadd9 #28 「泣きながら探したもの」


翌朝、直は大きな物音で目を覚ました。とても嫌な予感がした。目を覚ます前から、不穏な空気が耳元に起きろと囁きかけていたみたいだった。朝の光の眩しさが、妙に白々しく感じられる。何か不吉なことが起こっているのだ。この家のどこかで。

直は部屋を飛び出し、音が聞こえたほうへ向かった。そしてすぐに、階段の下でうつ伏せになって倒れている裕二の姿を見つけた。

「父さん」

階段を駆け下り、裕二の肩に手をかけた。息がつまりそうになるほどの酒くさい体臭が、湿った体温とともにあたりに漂っている。裕二の身体は全身が脱力していた。足を滑らせたのだろう。こんな状態ではまともに階段を降りれるはずがない。怪我をしているようには見えなかったが、裕二は歯を食いしばってかたく目を閉じていた。


「父さん、大丈夫?」

裕二はうめきながら薄目を開け、右肩を押さえながら立ち上がろうとした。直は手を貸したが、支えきれずによろけてしまい、膝をついた。つられて裕二の体勢も崩れ落ちる。


「痛い」

と、裕二は叫んだ。

「ごめん。本当にごめん」


裕二は再び立ち上がろうとし、直は手を貸さずに見守った。ぶるぶると手足を震わせながら、裕二はどうにか二本足で立った。しばらくその場で直立し、ゆらゆらと揺れる。そして夢遊病者のように数歩、台所のほうへ歩いた。その動作に目的や意思は感じられず、次の瞬間、裕二は突然意識を失ったように力なく倒れ、机に思いきり頭を打ちつけた。


「父さん!」


裕二はそれきり動かなくなった。


直は救急車を呼んだが、電話口で自分が何を言ったのかわからないくらい動揺していた。応対した職員から、すぐに向かうということと、落ち着いてその場を離れずに待つようにとの指示があり、直は倒れている裕二の隣で膝を抱えてじっと救急車の到着を待った。

恐ろしく長い五分が過ぎたとき、裕二はふいに目を覚ました。目だけをきょろきょろと動かし、周囲を見まわす。何が起こっているのか、状況を呑み込めていない様子だった。


「父さん。今、救急車を呼んだから。動かなくていい」

「痛い」

裕二は歯をむきだしにしながらそう言った。

「どこが痛むの?」

裕二はそれにこたえず、「ちくしょう」とつぶやいた。そして再び、意味もなく起き上がろうとする。

「そんな身体で動いたらだめだ。じっとしていないと」

裕二を止めようと、両肩に手をかけたその時だった。肌に触れた瞬間に、裕二は唸り声を上げるように大声で怒鳴った。


「痛いって言ってるだろうが!」


裕二は椅子に置かれていた酒瓶を手に取ると、怒りに任せて力いっぱい床に投げつけた。直は咄嗟に顔をかばったが、遅かった。左目に今まで経験したことのない激痛が走った。


直はうめき、両手で左目を押さえた。右目を開くと、指の隙間からどろどろした赤黒い血液が流れ出て、床にたまっていくのが見えた。同時に涙と鼻水がとめどなく流れはじめ、頭の芯に硬く冷たい金属で何度も殴られているかのような衝撃が走った。左目に感じる痛みはそれの何倍も鋭く、細長い針を眼球から頭の後ろまでまっすぐに突き刺されたみたいだった。自分の身に何が起こったのか、直はすぐさま理解した。そして理解した途端、耐えがたい恐怖におそわれた。


「直」

息をのむような声で裕二は言い、直の身体に触れた。

「やめろ」

わけもわからないままに直はそう叫び、その腕をふりはらった。


「もうやめてくれ」


直は、両手で左目を押さえたまま裸足で家を飛び出した。これ以上、ここにいたくない。


左目からあらゆる体液が流れ出ていく恐ろしい感覚に、直は悲鳴が混ざったような浅い呼吸をくり返しながら速足で行く宛てもなく進み続けた。そして必死にあたりを見渡した。右を向き、左を向き、前と後ろを何度もふり返り、それでも何も見つからなかった。何を探しているのかさえわからなかった。もとから涙は流れていたが、そのとき直は泣いていた。やがて右目に映る景色すら端から黒く翳っていき、かろうじて見える視界の中心も所々が紫色に染まっていった。何も考えることができなかった。ただそのとき頭上に広がっていた、お前とはまったく無関係だとでも言いたげに青く透き通った秋空だけが、妙に深く心に残った。近くで救急車のサイレンが聞こえていたが、直は通りかかった見知らぬ大人に引き留められるまで、何かを見つけようと四方をふり返りながら歩き続けていた。

しばらくして、自分が数人の男たちに囲まれていることがわかった。あらゆる方向から声が聞こえる。彼らは緊迫した様子で何かを問いかけてきたが、何を言っているのかわからなかった。やがてそのうちのひとりに抱きかかえられ、直は救急車に乗せられた。車内に裕二がいることもわかった。でもその時には、もう何も見えなくなっていた。左目には布のようなものが当てがわれていたが、なぜ右目も見えなくなったのだろうと思うと不安でたまらなかった。両目とも視力を失うのではないかと思うと、恐ろしくて仕方がなかった。右目を開いているのか閉じているのかもわからない。真っ暗闇の中にいるみたいだった。病院へ着くまでの間に一度、「目が見えない」と直は叫んだ。そのあとのことは、はっきりと思い出すことができない。冷たく平たい場所に寝かせられたのを最後に、直の記憶は途切れている。





固定電話のけたたましい音が鳴り響いている。直は仰向けになって天井を見上げたまま、無心で電話が切れるのを待った。

学校に行かなくなって一週間が経ち、その間、朝と夜に必ず一度ずつ電話がかかってきた。相手はわかっていたが、直は電話にでなかった。裕二も部屋にこもったままで、受話器を取る気配はない。彼が電話に出ないのはいつものことだが、今は鎖骨が折れているのだ。起き上がるだけでも一苦労だろう。

直と裕二は、あれから一言も口をきいていない。裕二は病院で手当てを受け、その日のうちに帰宅したが、直は三日間入院した。家に帰ったとき、すまなかったと裕二は言った。しかし直は、もう何も許さないと心に決めていた。眼球から取り除かれた酒瓶の破片を見たときに、そう決めたのだ。その小さな破片は直の左目を貫いたが、直はその痛み以上に、自分が今まで負ってきた痛苦の重みを感じたのだった。


直はいつも裕二を憐れんできた。彼が抱く怒りや憎しみを間近で感じながら、それでも彼の弱さと自分を重ねて憐れんできた。どんな状況であっても、父親ではなく、自分を責め続けて忍耐してきた。それは、俺よりも父さんのほうが弱い人間なんだと、直は心のどこかで感じていたからだった。しかし、俺はもっと早くに、父さんを恨むべきだったのではないだろうか? そのことに気づいた途端、信じられないほど簡単に心が憎しみで満ちていった。生まれてはじめて、激しい恨みと怒りを覚えた。裕二に「すまなかった」と言われたとき、直は必死の思いで怒りを手放そうとした。それでも、今まで数々の犠牲を強いておきながら、このうえさらに許すことまで求められているのだと思うと、もう我慢できなかった。

許してほしかったのはこっちだ。今までずっと、許されたかったのはこっちだ。なぜ今まで同情しなければならなかったのだろう。俺は父さんを恨む権利があるのだ。直は本気でそう思った。鎖骨と膝を折った裕二は、食事をとるのも風呂に入るのも困難していた。しかし直はそれを無視した。



真夜中に、直は電話台の前にじっと佇んでいた。留守電のメッセージが三件入っている。直は一番新しい録音を再生した。

「直。俺だけど。学校で先生に聞いたよ。怪我したんだって? 詳しいことは、あまり教えてもらえなかった。どこを怪我したんだ? そんなにひどい怪我なのか? 昨日、ミナミとお前の家まで行ったんだぜ。でも、いくら声をかけても、誰も出てこないし……。ミナミもテルジも心配してる。何があったか話してくれよ。友達だろ。もし動いても平気なら、今晩でも俺の家に来いよ。待ってるから。いつでも」

樹の声は、少しだけ震えていた。本気で心配してくれている。そう思った。樹がナスノさんの家を「俺の家」と言っているのを聞いたのは、それがはじめてだった。


直はその夜、鞄に着替えだけをつめてそっと部屋を抜け出し、樹の家に向かった。



この記事が参加している募集

眠れない夜に

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?