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わたしのケンブリッジ・サーカス


何か恥ずかしい思いをしたり、うまくできないことがあって自分を情けないなあと思うとき、いつも心に浮かぶ風景がある。それは幼い頃にわたしが実際に行き、この目で見た思い出の場所でもあるし、それと同時に、わたしの心のなかだけに存在する心象風景であるとも言える。


先日、職場で交通安全講習会があり、30人くらいの従業員が集まって警察職員の指導を受けた。横断歩道や自転車のシミュレーターを使って実際に道路の危険性を体験したり、体験しながらクイズに答えたりと、これって本来は小中学生を対象とした講習なのだろうなあと思うような、とても易しく楽しい内容の指導だった。

しかし!終盤で自転車のシミュレーターのお役目を頂いたわたしは、そこで地味だけれどもとっても恥ずかしい思いをするのである。

ほかの人たちが難なく運転しスムーズに右左折するその自転車で、わたしだけがまっすぐ走ることもままならず、何度も転倒してやり直し、画面に映った街並みを逆走し、焦りと羞恥心から常識クイズにも敗れ、周りの人が笑ってくれるならまだいいものの、みんな優しいので、わたしのような大人しい人間の必死な姿を、決して指差して笑い飛ばしたりはしなかった。黙ったままじっとその醜態を見つめるだけである。わたしのあまりのへっぽこ具合に、警察の方も明らかに困り果てていた。本当に申し訳なくて、情けないったらなかった。

そしてしょんぼりしながら帰路についているとき、またあの風景が心のなかに浮かび上がってきたのである。


だだっ広い雪原のなだらかな丘を、スキーウェアを着込んだ幼い子供が、無言で登り続けている。足にはスキー板、両手にはポール。雪は降っていない。風も吹いていない。丘の向こうの景色は見えず、あたりには雪とオフホワイトの空が広がるのみ。そんななか、その子はうつむき、自分の足元だけを見つめて、ざくざくと雪を踏みしめながらひとりきりで歩いている。


それは小学生の頃に授業の一環で訪れたスキー場の風景にちがいない。幼い子供は過去のわたしなのであり、記憶が正しければ通っていた小学校では4年生あたりから例年スキー授業が行われていたはずだが、わたしはそこでも毎年へっぽこだったのだ。

というのも、滑ることはみんなと同じようにできるのだけれど、わたしは滑り落ちたらそれっきり、一向に登ることができなかった。スキー板を横にしてカニ歩きをするように登るのがよいと先生にアドバイスをもらい、一所懸命に真似をしたのを覚えている。でも踏みしめたぶんだけ雪がずり落ちてしまい、少しも前に進めなかった。普通に登ろうとしても、するすると滑り落ちてしまう。


そのときの風景が雪と空のほかには何も見えないだだっ広い雪原だなんて、ちょっと大袈裟な気もするが、前述のとおり半分はわたしの心象風景なので、これは当時のわたしがそれくらい自分の力の及ばなさを痛感していたということなのだろう。


やがてクラスのみんなが、そしてついには寄り添ってくれていた先生までもが、丘の向こうに消えていく。取り残されたわたしはひたすら足を前に動かし、まったく歯が立たないその状況をどうにかしようと頑張っている。

講習会の帰り道に限らず、自分を情けないなあ、なにをやっているんだろなあ…と思うときには、やはりどうしてもそのときの風景が浮かんでくる。


たとえば、誰にでもあることだと思うけれど、こういうことを頑張ってみたけどだめだった、頑張っただけ余計につらい、というとき。ほんの些細な不和から、ああ自分はこの人に嫌われているんだな、それはきっとわたしのこういうところが原因なんだな、とはっきり察してしまうとき。そしてそんな悩みが、ただのひとりよがりなひとり芝居だと自覚するとき。また、ひどく落ち込んで、この世界に存在する悪しきものや悲しみが全部ひとつにつながって、ここは地獄か!生きていけない!とすっかり力をなくしてしまうとき。自分の欠点なら全部わかっている気になって、全部わかっていると思うことの欠点すらも、合わせ鏡みたいに増幅して止まらないとき。


人生が終わるほどではないけれど、そんな確かで小さなダメージを受けたとき、なんて無力、なんて不甲斐ない!という思いに打ちのめされて、しょっちゅう割れた風船みたいに心がしぼんでしまい、あの雪原を思い出したりする。でも、雪原にいた頃のわたしは、自分が情けないことをわかっていながらも、それに苦しんではいなかった気がする。


当時のわたしに何かしら良いところがあるとすれば、それは黙々と生きていたことだと思う。つらいことは人並みに、それなりにあったはずだった。手の届かないものばかり、やってやれないことばかり、為しても成らぬことばかり。だけどそんな現実に対して、ちっとも抵抗していなかった。といって周囲に流されたり日々をなんとなく惰性で生きるというのでもなく、ただ黙々とやることをやって生きていた。

ある程度年を重ね、自分のつらさを自覚することで成長できた部分もたくさんある。それでも現実を受け入れて生きるという点では、あの頃が一番大人だった。

それに今ふり返って思えば、そんな幼い頃の無力な自分の姿が、ちょっとだけ愛しく感じられたりもする。だから先日、30人が注目するなかで顔を真っ赤にしながらちゃこちゃこと必死に自転車を漕ぎ続けていたあのときのわたしのことも、いつかは愛しく思えるときが来るはずなのだ。というか、そうじゃないと困る。


ところで、スイッチ・パブリッシングから出ている柴田元幸さんの「ケンブリッジ・サーカス」という本がある。エッセイ集なのだけれど、どの話や出来事にもどこか現実感がなく、空想なのか、作り話なのか、作者にとってはこれもひとつの現実なのか、わかるようでわからないものばかりでとてもおもしろい。

表題の「ケンブリッジ・サーカス」では、ロンドンのケンブリッジ・サーカスでバスから降りる際にバランスを崩し、石畳の上をゴロゴロと三回転した若かりし柴田さんの姿が描かれている。そして30年後、彼は同じ広場に立ち、かつて地面を三回転した自分自身と再び出会う。「おぉい待てよシバタ、そんなにあわてるなよ」柴田さんはかつての自分にそう声をかける想像をする。


柴田さんのように、わたしも雪原にいた頃の自分に「おぉい待てよシズマ、そんなにあわてるなよ」と声をかけたい。いや、むしろ現在のわたしが心のなかでこうして声をかけているからこそ、あのときのわたしは下手に足掻いたりせずに黙々と生きていられたのかもしれない。そしてそんなわたしが過去にいたから現在のわたしがあり、「おぉい待てよシズマ」と呑気に声を送っている。するとあの風景のなかの自分が、「なんだろう?」と、不思議そうな顔でふり返る。たぶん、あそこがわたしのケンブリッジ・サーカスだ。

そういう過去と現実がつながるポイントとなる場面が、時々前触れもなく訪れる。未来の記憶を思い出したり、過去の自分と感覚がぴったり重なったり。そういうポイントのことを、今度からケンブリッジ・サーカスと呼ぶことにしよう。(今決めた)

いつも今がその瞬間であるといいなと思う。そのために、過去の自分に声をかけ続けよう。自転車に乗れないでいるわたしにかける言葉はまだ見つからないけれど、それもいずれ然るべきときに、慰めの言葉を見つけることでしょう…🙈


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