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普通という幻想

おはようございます。
昨日はマスメディアや情報化社会に対して批判的な意見を書きましたが、
今日は学校教育、家庭での情操教育に対して批判的な意見を書きます。

・「普通」でありたいという欲求と幻想

まず、昨日の記事でも挙げた通り、世の中のルールや常識などからはみ出した人間が、叩かれるということが当たり前になっている事が分かりました。
これはなぜかというと、皆さんもそうだと思いますが、教育を受けたことによる意図せぬ洗脳によるものだと、僕は考えます。
学校で集団生活を受けていく中で、同じクラス内でもグループや上下関係などが生まれて、子供たちはどうしたら良いかを考えた結果、
「自分たちはおかしくない」という証明のために、いじめが生まれるのではないでしょうか?
例えば、オタクだったり、挙動不審だったり、身体的特徴や、嫉妬などから、いじめは始まって、それらに該当する人物を吊し上げて、「石」を投げる。
それらは、いじめをする側の子供たちにとって、自らの優越感、自尊心などを満たす行為となる。
いじめられる側(マイノリティ)は、いつ自分がいじめられてもおかしくないので、怯えながら過ごす。

しかしスマホが普及した今、SNSなどでは、こうしたいじめられっこ(マイノリティ)も、ルールを破った著名人の炎上などが起こると、
いじめる側(マジョリティ)と一緒になって「石」を投げる。
それはマイノリティにとっては傷つけられた自尊心を回復させるための、唯一の救いなのかもしれない。
マジョリティは、大義名分を盾にして、または面白半分で誹謗中傷をしているのかもしれない。

こうした環境で育った僕たちは、大人になってもマジョリティというか、「普通」でありたいという願望を刷り込まれている。
その証拠に、与えられた、又は自ら勝ち取った今の生活に満足し、「社会」に対して何の疑問も抱かない。
これがなぜ証拠になるのかというと、社会に疑問を抱かない、偉い人に反抗しないことや、政治や信仰に対して熱心にならないことが普通だと思われているからだ。
それが戦後教育の最大の狙いなのではないかと僕は思う。

大人になって社会に出てみれば、少しは分かってもらえるんじゃないかと思うが、この世の中には様々な人達がいる。
国籍、人種、信条、性別、性格、職業などなど、いろんな人がいる中で、「普通」っていうのは、自らが「主観」で決めることであって、
他人からの「客観」で決められることではない。

そういうことを、家庭でも子供たちに良く話し聞かせてあげなければならないのではないだろうか?
つまり、自らの自尊心や優越感の為に、「お前は普通じゃない」と差別することはいけないんだ!と教えなければならない。

現代社会の人間の心理の明らかな問題点としては、
「普通」であることを「他人からの評価に委ねている」ことが挙げられる。
「他人からの評価による普通」というものが、いかに不確かで意味のない幻想だということが、皆様にはお分かりになるだろうか?

これは、戦後教育によって教育者自身も気づかぬ間に生み出された洗脳であり、現代の学校教育の在り方を批判したい。

現代の教育に対する愚見としては、義務教育時点では、道徳と向き不向き、個性の判別に重きを置いて、
高等学校においては、普通科学校の廃止を行い、義務教育時点で判別された個性、才能を参考にして、
それぞれの子供たちが持つ才能を伸ばせるようなシステムにした方が良いのではないかと思う。
また、PCやスマホ、タブレットが普及した今、通信制の学校がもっと評価されるべきなのではないかとも思う。
それはなぜかというと、子供が上述したいじめなどにあうリスクが減らせると思うからだ。
また、「ギフテッド」というwikipediaのURLを意味深に貼って、今回の記事を締めくくらせていただきます。

以上、最後までお読み下さり、ありがとうございました。

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