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まじめにふまじめ

学校とはどんな場所でしょうか。十中八九、皆「勉強をするための機関である」と答えるだろう。しかし、学校というのは勉強以外にもさまざまなことを教えてくれた機関だったと思う。

僕が中学3年のときの掃除の時間のことである。「今日も隅々まで掃除しましょう」とか言うやる気のない放送委員の声が廊下に響きわたる。人に掃除を指図するならお前が一番やれよと思いつつ、その日もおもむろに箒へと手を伸ばす。

ただ、その日はなぜか全くといっていいほど掃除へのやる気を喪失していた。中学生の心情というものは不安定であるから、そういう日もなきにしもあらず。友達と喧嘩をしたからなのか、給食が不味すぎたからなのか、受験が理由なのか、今では何も覚えていない。いずれにせよ、いやがおうでも掃除をしたくなかったのである。

だからその日、掃除をサボることにした。サボれば当然教師に口酸っぱい指導をされることになる。だから、教師にバレないようにサボるというのが一番なのだろうけれども、バレないようにサボることすら面倒くさかった。したがって、僕は堂々と教師の前でサボったのだ。廊下の地べたに座り、何もしないで終了時間まで待ち続けるというシンプルかつ大胆な行動に出た。

サボる僕を見た、廊下掃除の担当女性教師が僕に近づいて来て、「掃除の時間始まってるよ」と声をかけて来た。僕は、「知ってます」とそっけなく相槌を打つように答える。教師は呆れた表情をしながら言う。

サボるのって実はいいことなの。でもね、そんな堂々とサボっちゃだめよ。先生にサボってるのがバレないようにサボるの。学校ってそういう場所だから。

衝撃的な教師の発言に、僕は動揺した。サボるのは間違いなく善ではなく、その対極にある悪の行為だ。

皆嫌々雑巾を絞って地べたに這いつくばり、嫌々箒を手に取って汚い埃を払う。掃除を一生懸命に行う友人も、内申点を上げるためだと語っていた。皆仕方なく掃除の時間が終わる時間まで、暇つぶしみたいに掃除をするんだ。高校生になって一度アルバイトを経験すると、なぜこの掃除活動で給与が支払われないのか疑問に思ったりもする。

掃除なんか意味のないものだし、意味を見出すならボランティア精神的のような何かを育むためのものであると思っていた。

そんな僕は学校がサボり方を身につける場所だなんて思ってもいなかった。けれども今思うと先生の一声は一理あるかもしれない。

日本人は外国人と比較すると、まじめで勤勉な性格だと言われることが多い。過労死というのも日本人がまじめすぎる結果生まれた死に方だ。実際、海外で「karoshi」という単語が使われるように、日本の過労死は死活問題になっている。いくら労働基準法を定めたところで、日本人のまじめすぎる精神のせいで命を落とす人たちが後をたたない。

そういった意味において先生の言うように、まじめにふまじめに、一生懸命で、ときにサボる生き方が理想なのかもしれない(バレないようにね)。


【追記】

善悪で考えたらサボることは悪なのかもしれませんが、善悪で物事を常に二分する考え方をしていると疲労困憊状態になりうる。そのため常識的な倫理観はもちつつ、たまには善悪の枠組みの外で生きることも、立派な生きる力だと思います。常識の範囲内で。



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