やっと声をかけられた

 思ったことを、感じたことを、その子はいつだって、まっすぐ伝えようとしていました。

 そこには当然、相手にとって不愉快なこと、聞きたくないこと、嫌なことも含まれていました。だけどその子は、決して言葉を濁さなかったし、弄さなかった。この世でたったひとつの、伝達手段としては不良品の言語を、ただただ差し出し続けていたんです。

 他者と言葉を重ねていけばいくほど、その子は嫌われていきました。孤立していきました。はいはいと、軽くあしらわれるようになっていきました。あんな面倒なやつの言うことなんて、と。それでもその子は、声で体で、胸のうちをさらし続けたんです。

 その子の表現方法を、コミュニケーションを、人は失敗という漢字二文字で、ひょうひょうと裁きました。あれじゃあ駄目だと。その子の言葉を、人は未熟だと言ってあざ笑いました。やかましいだけの子どもみたいと。

 人はその子の声を、決して聞こうとはしませんでした。もっと言葉を考えろ。言い方を直せ。伝えることの難しさを理解しろよ。あいつみたいなやつが本当のコミュ障だな。何言ってるか分かんない。しゃべるの下手くそかよ。空気読めよ。いちいち言わなくてもいいじゃん。いい加減大人になれよ。そんな態度で。表情で。

 その子が唇を噛んでいることを、ひとりで泣いていることを、私は見かけたことがあって、知っていました。知っていました。

 その子に近づけば自分が傷つくことも分かっていました。だってその子は、あまりにも激しく、言葉を尽くそうとする人でしたから。反対に、その子が傷つくであろうことも、また。

 それでも私は、その子が必死に言葉を並べようとしているのを見て、どれだけ踏みにじられても、突き放されようとも、他者に対して声を出そうとしているその姿を見て、少しずつ、けれども確かに、話がしてみたくなったんです。日々の会話に、私は虚しさを覚えていましたから。定型文と同調と共感と肯定だけがすべてのおしゃべりに。中身のない、情報伝達としての機能すらあいまいな、表面上の凪が王様の、お話に。

 やり方が悪い、言い方がよくない、伝え方が未熟だと言って、人はその子の言葉に、表現に、失敗や間違いといった烙印を、平気で押していく。私はそれも許せなかった。伝わらなければその言葉は、表現は、無意味で無価値。そんな色合いの込められた発言が。態度が。けれど一番許せなかったのは、その子の発言を平然と切り捨てて、しかも自分が正しいことを言っていると思い込んでいる人間に、自分が何も、ひとつとして言えないことでした。

 うらやましかった。本当に、本当に毎日苦しそうだけれど、それでもあの子は、自分の言葉で話そうとしている。どれだけ嫌われようとも、憎まれようとも、唾棄されようとも、ひとりでも、声を並べ続けようとしている。暗黙のルールとか空気とか言葉の裏側とか、そういったものはぜんぶ無視して、自分の感じたことを、考えていることを、想いを、ただただ伝えようとすることに、必死になっている。正しいコミュニケーションとか表現方法とか技術とか、そんなことばかり言って何も言おうとしない人よりも、そういうものをこねくり回してばかりの人よりも、その子が言葉を尽くそうとする態度それ自体を、たとえば「生きるの下手だな」なんて言って小馬鹿にしたり、あるいは「コミュニケーションっていうのはぁ」などと語りながら否定したりする人よりも、私は、その子が。その子の声のほうが。

 もっと聞いてみたいなって、そう思ったんです。その子の言葉。そうして、その子に聞いてもらいたいなっていう気持ちも。

 気づいてしまったんです。ある言葉がどれほど清く、綺麗に、やわらかく、整って見えたとしても、不器用で、下手くそで、いびつで、棘だらけであったとしても、何も隠さずにぶつかろうとしている言葉のほうが、取り繕い、着飾るということを放棄した声のほうが、ずっとずっと、美しいってこと。あったかいってこと。

 一歩踏み出すのに、いったいどれほどかかったでしょう。怖かった。関わって、傷つくことが。周囲の視線が。でも、だけどやっぱり、どうしても私は、話がしてみたくって。だから。

「こんにちは」

 そう、声をかけたんです。昨日。やっと。

                               (了)

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