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公教育と社会

公教育と社会の関係

私たち教員は、どれくらいこの関係を意識して教育に携わっているのだろう。改めて、教育は次の社会を創る人を育てるものであるという視点でみると、私たち教員の仕事はとても魅力的な筈である。

発達段階というミクロな視点

まず、子供の世界を知るために、子どもの発達を理解することはとても大切である。特に幼稚園や小学校の先生は顕著であると思う。ヴィゴツキーの発達の最近接領域理論からもわかるように、子どもが感じている世界を理解しようとしなければ、適切な教材を用いたり、課題を出したりして子どもの身になるような学習を促すことができないからだ。多くの場合、私たち教師はこのミクロな視点について語ることが多い。

マクロな視点から見た教育

一方で、教育をマクロな視点(あるいはメタな視点)を持つことは必要不可欠だ。その子の学びはその子の生涯の中でどこに位置し、将来生きていく上でどのような価値があるか、私たちは考えなければならない。さらに、その子たちが生きる社会についても考えなければならない。これこそが、本来の教員としての職務の目標であるのだが、多くの場合、意識されていない。

私たちが共に生き抜くために


私たちはこの一つしかない地球で共に暮らしている。その運命から逃れることはできない。そんな私たちが共に生きていくために、教育はあるのだ。しかし残念ながら、この視点を持ち合わせている教師はほとんどいない。一方でこれらの原因を教員だけに押し付けるつもりは毛頭ない。教師たちもまた、その時代の大人によって育てられた子どもたちであったからだ。かつての社会が今の教師を育てたのだ。しかし、手をこまねいて見過ごすわけにはいかない。私たち人間が、地球上で生き続けるために残された時間は決して長くはないかもしれないからだ。

今、必要なのは倫理である

今、私たちは倫理が求められている。倫理とは、私たちが共に生きる方法を共に考える行為である。そしてそれこそが教育の目標である。だから今すぐ倫理について考えよう。そしてこれからの社会を生きる子どもたちのために、手を尽くそう。それが私たちの世代のやるべきことだ。

生きるための対話の場としての教育のための対話

こう考えると、私たち教師の役割はとても難しく感じる反面、とてつもなく価値のある仕事のはずだ。確かに私たちの環境は過酷で、トイレに行く暇すらなく、給食を5分で掻き込み、残業して休日も出勤する。もし、この環境のせいで価値を感じられなくなるのだとしたら、今すぐ何とかしなければならない。公教育が滅びてしまうこと、それは社会自体の死を意味する。そうならないために、私たちは対話しなければならない。今すぐにだ。子どもも、親も地域も、みんな語り合おう。それは、教育のための対話であり、私たちが生き抜くための対話である。






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