第二話 鹿肉蔦木喰 ―もみじつたきばむ― (九)
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<九>
咲保が厨房の火を落としたのは、日付も変わった夜半過ぎだった。それから寝支度をして、布団に入ってからの意識がない。次に目が覚めた頃には、随分と賑やかな声が聞こえてきた。ということは、もう昼を過ぎているのだろう。文机の上に、昼食らしきお膳が置いてあった。
「いくらなんでも、寝すぎだわ……」
愚痴りながら顔を洗い、支度をして、食事を済ませた。それから離れから直接、外に出て蔵へと回る。
「まるお、いるなら手伝って」
「はい、こちらに」
影から出てきたまるおは、顔の色艶もよく、疲れなど微塵も見えない。モノも疲れることがあるのか咲保は知らないが、その頑丈さは羨ましい。それぞれの火鉢を蔵の外へ運び出し、順番に木灰を入れ、五徳を設置していく。
「よくお休みでしたね」
「起こしてくれればいいのに。寝過ぎで、かえって眠いわ」
「奥さまが、好きなだけ寝かせてやれ、と。あと半刻ほどしたら、お呼びしようと思っておりました」
「磐雄の火鉢は? もう届いたの?」
「はい、つい先ほど。玄関に置いてありますが、こちらにお持ちしましょうか」
「ええ、お願い。あ、ちょっと待って。代わりにこれを持っていってくれる? お客さま用に、玄関の隅にでも置いておいてちょうだい。あと、六蔵がいたら、呼んできてくれないかしら。お父さまのお部屋の長火鉢は、ふたりで運んだ方がいいから」
「畏まりました」
設置済みの、昨年、磐雄が使っていた火鉢をまるおに渡した。それからも、舞い上がる灰を手で払いながら、一人で作業を続ける。最後に咲保用の櫓炬燵用と火鉢の二つだ。炬燵用の火鉢は小ぶりで、五徳がない代わりに陶器の蓋つきになっている。蓋には小さな穴がいくつも空いていて、そこから熱が出てくる仕組みだ。木枠の櫓に入れ、上から布団を被せて使う。少々、手間だが、底冷えのする寒い冬には、足元が温まって離れがたくなる。もう、だいぶ古い物だが、手放す気にはなれなかった。
他の兄弟たちと違い、子どもの頃、部屋にいることの多い咲保のために、両親が用意してくれたものを、今も使っている。そういえば、だからなのか、瑞波の年のころには、既に火を扱わせてくれていたな、と思い出す。その代わり、口が酸っぱくなるほどに、火の扱いには注意しろと、注意を受けていた。竈を使わせてもらうのが早かったのも、そのせいかもしれない。今となっては、そのおかげでこうして役に立てているのだから、ありがたい話だ。
「雨が上がってよかったわ……」
空にはまだ薄く雲がかかっているが、雨が降る様子はない。だが、時折、吹き付ける風は冷たい。
六蔵を連れて戻ってきたまるおに、火鉢をそれぞれの部屋に持っていくようお願いをして、咲保は自分の分を離れに運んだ。えっちらと炭も運ぶ。七輪を出し、軒下で火を起こす。片手鍋のような火起こしに炭を入れ、少しずつ炭に火を移す。急に火が付くと炭が破裂することもあるので、まとめて多く出来ないのがもどかしいが、火事や火傷を負わないためには仕方がない。
七輪に火を入れると、ほっとする暖かさと、全身が冷えていたことに気づいた。
「みぃ、来たわね」
炬燵に火を入れると、見計らったかのように、みぃが離れにやってきた。そして櫓の上に飛び乗って丸まると、眠り始める。
「まったく、猫めときたら目ざとい」
まるおが見咎めて、文句がましく言った。
「みぃも、ずっと寒くて、今か今かと待ちかねていたんでしょう」
気持ちよさそうに寝ている猫の可愛らしさに、咲保は笑った。
「火付けを代りますので、お嬢さまは炭の設置をお願いします」
「わかったわ。お願いね」
それからも火のついた炭を各部屋に運び、一つずつ灰をならして見栄え良く炭を入れていく。灰ならしで灰の上に模様を描いていく作業が、咲保はいちばん好きだ。平にした白くて軽い灰が舞い上がらないよう、静かに灰ならしのギザギザで波のような模様を描いていると、童心に帰ったような気になる。全ての火鉢に火が入って咲保は、やっと安堵の息を吐き出した。気がつけば、賑やかに響いていた声もなくなっている。
「まるお、お疲れさま。あっちも終わったのかしら」
「そうですね。今は、作業も終えて、皆さまお喋りをされている頃かと。炭は片しておきます」
「ありがとう」
すると、咲保、と母の呼ぶ声がする。庭を伝って母が来るのが見えた。
「お母さま」
「亥の子餅、あんたの分、持ってきましたえ。こっちが熾盛さんに差し上げる分どす」
「ありがとうございます。数は足りましたか?」
「ああ、充分でした。皆さん喜んではりましたわ」
「そう、よかった」
「ほんに、今年はよおやってくれました。知流耶のことも炉開きの支度もおおきに、ありがとなぁ」
「お母さまもお疲れさまでした」
「なんも。今年は、あんたが頑張ってくれたお陰で、いつもより楽させてもらったぐらいですわ。皆さん、お帰りにならはったし、こっち来て、お茶でもどうどすか」
母の褒め言葉に、思わず口元をもぞもぞさせながら、咲保は頷いた。亥の子餅を自分の部屋の棚にしまい、隠しておいたおやつを出す。
「お父さまは?」
「火鉢に張り付いてますわ。冬んなると、みぃんな部屋から出てこんようになるし、静かやけど寂しいわ」
「家が広いから」
「そうどす……あら、それなに?」
「栗蒸し羊羹です。昨晩、栗が余ったから作ってみたんです。お茶請けにどうかと思って」
「まあ、なんて気の利く子やろ。誰に似たんかしらん、なあ?」
母は嬉しそうに咲保を揶揄うと、では、早速と一歩踏み出したところ、いきなり母の足元をすり抜けるようにして、みぃが走り去っていった。
「危ない!」
その勢いに驚きつまづきかけた母の身体を支えたが、次に、うわぁおう、と玄関の方から、抑揚のある大きな咆哮が聞こえてきた。みぃだ。
「どうしたのかしら……」
「なんですやろな?」
母と連れ立って玄関に向かうと、両手を伸ばし、荷を頭上に大きく掲げる浜路と浜路に向かって毛を逆立てるみぃがいた。
「これは、ダメです! いい子だから、今は離れなさいっ! 怪我をしますよ!」
浜路は懇願するが、みぃは一歩も引かず、フウフウと威嚇をし続けている。相手が猫神様だろうが、お構いなしだ。
「こら、みぃ、あかん! よしなはれっ!」
「ご家族を守りたい気持ちはわかりますっ! わかりますけれど、これはあなたのような幼子の手に負えるものではないのですっ! おねがいですからっ!」
母が手を鳴らし脅しても、いつものように気を取られることも、逃げる気配もない。浜路は半泣きになりながら、必死で荷を守っている。新聞紙に包まれた、一見、粗末に見えるそれこそが『ぼたん』なのだろう。しかし、これをどうしたものか、と咲保はおろおろするしかなかった。今のみぃは、野良猫並みに凶暴になっている。捕まえようとしても、捕まえられるものではなく、捕まえたとしても、引っ掻かれて怪我をするだけだろう。そうしている間に、騒ぎを聞きつけたらしい他の家族も、わらわらと玄関に集まってきた。
「うわ、みぃがすごく怒ってる! どうしたの!?」
「みぃ、みぃ、どうしたの?」
「ああ、こらあかん。桐眞、いらん布か網か、何か包めるもん持ってきなさい。なんか被せて捕まえんと、怪我をする」
父の指示に従い、兄が廊下を走って行った。程なく大きな埃よけの布だろうか、を抱えて持ってくると、足袋のまま上り框を飛び降りるようにしてみぃに駆け寄り、布を被せた。灰色の布の下で逃れようと動くみぃを、桐眞はすかさず上から押さえつけ、布をぐるぐる巻きつけて捕縛した。
「こらっ、大人しくしろ!」
布に包まれても尚、桐眞の腕の中でみぃは唸り声をあげ、もがいていた。
「怒らないであげて下さい。皆さまを守ろうとしていただけなのです。賢い子です」
浜路が面目なさそうな表情で言った。
「それが、例の悪変しかかっているモノですか」
草履に履き替えた父が、外に出てきて浜路に向かった。
「ご当主さまでらっしゃいますか。お初にお目もじ仕ります。徳島の国、阿波の王子神社を根城と致しますお玉より、こちらの分社を預かる猫神のひと柱、浜路と申します。こたびは願いをお聞き届けいただき、ありがとうございます」
「ご丁寧にありがとうございます。斯様な場所にてご挨拶させていただく無礼をお許し下さい。お初にお目にかかります。木栖家当主、木栖眞治と申します。こちらこそ、娘がお世話になっております」
「おっしゃる通り、こちらが先ほど、私の元へ届けられたモノにございます。すでに腑分けされ、もとの姿も偲べぬモノにございますが、よほど怨みを溜め込んでいるのか、もともと力の強きモノであったのか……なんとか持ち出せたこの状態であっても、私共では封じるのもやっとでございました。原因は違えど、私も同じ身なればこそ、この苦しみは存じております。お気の毒としか言いようもなく、できれば、これ以上、苦しまぬよう、重ねてお願いしたく存じます」
「承りました。すぐにでも始めましょう」
「ありがとうございます」
深々と頭を下げ、差し出す浜路から、父は包みを受け取った。
「咲保、みぃを頼む。俺はあっちの手伝いするから」
「あ、はい」
先ほどよりはだいぶ大人しくなったが、布の中で低い唸り声を上げ続けるみぃを兄から受け取ろうと、咲保が手を伸ばした時、なんと間の悪いことか、家の前に止まる一台の人力車があった。
「ごきげんよう……?」
車から降りた茉莉花が目を丸くしたのと、浜路が、ひぃ、と高い悲鳴を上げて父の背後に隠れたのとどちらが早かったのか、咲保にはわからない。そして、一瞬、皆が気を取られた隙に、逃れたみぃが父の手にした荷に勢いよく飛びついたのも。
「みぃっ!」
叫んだのは、瑞波か。父は『ぼたん』を取り落し損なうまではしなかったが、猫の爪に包みは大きく引き裂かれ、その下にあった封じの札も真っ二つにされてしまった。千切れた紙が風に舞う刹那、父の胸元から生じたかのように、包みの中から、ぽおん、と跳ねるように飛び出してきた大きなモノがあった。
「しもた!」