第二話 鹿肉蔦木喰 ―もみじつたきばむ― (五)
<全十三話> <一> <二> <三> <四> <五> <六> <七> <八> <九> <十> <十一> <十二> <十三>
<五>
咲保たちの祖父母は、今も皇の屋敷の傍近くにある輝陽の都の屋敷に暮らし、密かにお護りする役目を負っている。皇は、表立っては『親王』であり、殿下と呼ばれる身分であるが、木栖家や熾盛家、いずれ熾盛家と姻戚関係となる杜種家など、古くから仕えている公家の家々は、『皇』とお呼びしている。皇は、政から離れたところで、正式な神事を司る。しかし、その務めが公になることはない。表立っては、登宇京におられる『帝』が行なっていることになるからだ。
歴史上、政局の乱れた動乱の時代に、密かに二極化することで国難を逃れたことから続く。神事を怠れば天災が続き、政も乱れる。ところが、困ったことに、武家が政に携わるようになってから、殆どの者がそれを知らず、金や時間の無駄遣いと、神事を損なおうとばかりするのが実情だ。表立って口にはしないが、歴代の皇族の中には、『ろくでなし』や『穀潰し』もいた。その周囲の者にも。しかし、それで儀式を疎かにすれば、いつしか神の怒りを買い、国がまるっと壊滅してもおかしくない。一部公家の者たちは、そうならないよう儀式を継続し、代を治める手伝いをする役目を負っていた。
信じる、信じないは関係ない。この国はそういう理でできている。実際に、そんな危機は過去に幾度となくあったらしい。小さな例祭をひとつすっ飛ばしたその年に、未曾有の災害――山の噴火――が起きたなど、公の記録には残されていないが、そういう話は口伝で関係者の間に伝わっている。
そんな経験の積み重ねがあって、帝は表向きの政に準じた形の神事を行い、政に関わるしがらみや煩わしさと共に、付随する尊敬や権力を得る。皇は古式に則った正式な神事を行う役目を負う代わりに、世俗から離れた心安らかに過ごせる静かな環境を得るが、公の権力をもたず、生活は帝よりも格段に劣るものとなる――という仕組みが出来上がった。
木栖家について言えば、代々、帝よりも皇寄りの家だ。それあって、両親からはっきりと聞いたわけではないが、咲保のことを抜いても、桐眞と知流耶の稽古通いは、それにも関係していたと思われる。知流耶の嫁入り先が輝陽であったことからも、それが窺える。今のところは桐眞が跡取りとされているが、磐雄の出来次第では、次の当主を磐雄に変えて、桐眞を輝陽に戻す可能性も考えられていると、ちらりと聞いたこともあった。父はいずれは爵位を返し、輝陽に戻ることも視野に入れているようだ。
「ごちそうさま。お母さま、磐雄におにぎりにして持っていきますね」
「おおきに。頼みます」
咲保は、会話にまじることなく席を立ち、厨房へと向かった。
その後、握り飯を作り、襖越しに磐雄に声をかけたものの、返事はなかった。まだ、拗ねたままらしい。咲保はどうするか少し迷ったが、弟を、そっとしておくことにした。咲保にも人を羨む気持ちはあり、妬む気持ちもわかる。ただ、桐眞の言う通り、僻んだところでかえって周囲を巻き込んで悪くなると知っているから、しないだけだ。そうやって望みを叶えたところで、すぐに価値を失う泡沫の物でしかない――磐雄も早くそこに気づけばいいと思う。
「ここに置いておくわね」
盆を部屋の前の廊下に置くと、静かにその場を立ち去った。
夕餉の片付けも終わり、一人になった厨房で、咲保は襷で袂をからげると、よし、と気合を入れた。事前にたてた計画では、今晩の内に栗の皮を剥いて、下茹でまでを終えて、できれば、一部をみんなのおやつ用に甘露煮を作る。明日は本格的に全部の栗を甘露煮にして、小豆餡を作る。残りの作業は、当日の朝だ。その後、炉開きの作業を行う――それで、大丈夫のはずだ。
と、まるおが出てきた。
「お手伝いします」
栗の皮剥きは、亥の子餅作りの最大の難関だ。手伝ってもらえるのはありがたい。
「ありがとう。じゃあ、剥いた実はこっちの桶ね」
「わかりました」
椅子に座り、配膳台を挟んでまるおと二人、包丁を片手に剥き始める。硬い鬼皮の下の方の色の変わる境目付近に、力をこめて包丁の角を突き立て、剥ぐようにして剥いていく。丸い実は持つ指先にも力を入れていないと、すぐにするりと逃げてしまいそうになる。包丁も滑りそうで、怪我をしないよう慎重に作業を進めていく。
目の端に、するりと入り込んでくる気配に気づいた。
「あら、みぃもお手伝いに来たの?」
みぃは物言いたげに咲保を見上げると、お尻を左右に動かして、ぴょんと膝の上にあがった。もぞもぞと身体を動かして居場所を定めると、そのまま丸くなった。
軽くもない柔らかい重みを膝の上に感じる。少し動きづらいが、すぐに移動させるのも可哀想なので、そのまま置いてやることにした。しばらくすると、じんわりとした温もりが伝わってきた。ごろごろと喉を鳴らす声も聞こえる。
「寒くなったわねぇ……」
咲保は、空いている手でみぃの背を撫でると、膝を動かさないように作業を続けた。
鬼皮を剥くと、次に薄い渋皮がある。ボソボソとした薄い皮を筋に沿って、残さず丁寧に剥いていく。そうして、やっと、薄い黄色の実のお目見えだ。出来た一つを水の張った桶に割らないように放り込む。そして、また次の栗に取り掛かる。
そうやって黙々と作業をして、全体の四分の一ほど剥けた頃だろうか。一人、厨房を覗く者がいた。
「あら、磐雄。どうしたの?」
「……ごちそうさま」
おずおずと、綺麗に空になったおにぎりの皿を差し出してきた。拗ねた詫びに来たのだろう。だが、どう言えばいいのかわからず、迷っているようだ。意地っ張りな弟の様子に、知らず咲保の口角も上がった。
「お皿は水場の桶に浸けておいてくれる? あとでまとめて洗うから」
「わかった……栗を作ってるの?」
「そうよ。明日のおやつに少しだけど出せるわよ」
「……手伝おうか?」
「あら、包丁は使える? 栗の皮は硬いわよ」
「そのくらい出来る」
「じゃあ、椅子を持ってきて、包丁はそこ。渋皮も筋も残さず綺麗に剥いてね。剥き終わったものは、こっちの水の張った桶に入れてね。そのままにしておくと、色が変わっちゃうから」
「わかった」
「怪我しないように気をつけてね」
「うん……」
出来ると言ったわりに、隣に座った弟のおぼつかない包丁さばきにハラハラしながら、口を出すことなく横目で観察をする。時々、悪態まじりの短い声をあげながら栗を剥く様子は、誉められたものではないが、微笑ましさが勝る。
「わっ! 逃げた!」
「落ちたものは捨てずに洗ってよ。もったいないから」
「汚くない?」
「平気よ。火を通すもの」
「いてっ!」
「切ったの? 大丈夫? まるお救急箱を」
「平気。舐めておけば治る」
手伝うどころではなく、咲保にしょっちゅう手を止めさせる事になるが、それでも、磐雄が加わって、単調な作業が少しだけ楽しくなった。それに、誰でも最初はこんなものだ。咲保が手伝いを始めた時もひどい有様だった。怪我の痛さにべそをかきながら作業をしたことを思い出し、自然と笑みが浮かんだ。
「なに笑ってんのさ」
見咎めた弟に、笑っていた理由を聞かれる。
「私も包丁を持ち始めて最初の頃は、ずいぶんと怪我をしたなあって」
「そうなんだ」
「もともと不器用なのよ。その頃に比べてだいぶ上達したなって自画自賛してたの」
「ふうん」
その頃を知っているまるおは黙っているが、口元が笑っている。そこへ、またひとりやって来た。
「まだ起きていたのか。お、栗か?」
「お父さま、お帰りなさい。遅かったですね」
「お帰りなさい」
「ああ、ただいま……ここは暖かいな」
「まだ、火を落としていませんから。お茶を淹れましょうか?」
「いや、水でいい。少し飲みすぎた」
すかさず立ち上がり、湯呑みに湯冷しをつぐまるおの空いた席に、入ってきた父は、仕立ての良いスーツ姿のまま腰掛けた。
「磐雄は手伝いか。えらいな。まるお、茶漬けかなにか軽いものはないか。小腹が空いた」
「栗ご飯の残りならございます。あと、漬物と佃煮ならお出しできます」
「そうか。栗ご飯はすこし重いな。軽くでいい」
「はい、ただいま」
父からは、少し離れていてもタバコと酒の匂いがした。咲保の父は酒があまり得意ではないらしいのだが、仕事上の付き合いでは断れないのだろう。ネクタイを緩める手も、どこか億劫そうだ。
「ああ、久しぶりに食べると美味いなぁ」
そう言いながら、自分の作った栗ごはんを頬張る父に、咲保は嬉しくなる。
「あら、どこ行ったかと思えば、着替えもせんとこんなところで。お部屋でいただいたらよろしいんに」
母もやって来て、父の姿に声をあげた。
「どうせ洗濯に出すんや。かまわんやろ」
「ほやかて、よけい汚れますがな。あら、磐雄。なんやあんた、咲保の手伝いしてますの。珍しいこと。この子、今日は半日、お冠でしたんえ。桐眞の新しい火鉢を欲しがって、駄々こねて。あなたからも一言、言うてやってくださいな」
厨房が一気に賑やかになった。
「そんなええ火鉢やったんか」
「そんなん、普通の角火鉢ですわ」
「せやったら、磐雄はそっちの方が自分には合うてる思ったんやろ。自分の持つもんにこだわりが出てきたんは、それだけ大人になったいうことや。なあ、磐雄」
「桐眞兄さまの方がかっこ良かったんです」
「そうか。なら、好きなもん選んで買うたらええわ」
鷹揚な父の言葉に、咲保も目を丸くする。案の定、母が声をあげた。
「そんなん勿体ないですわ。まだ使えるんに」
「火鉢やったら、他に使い道もあるやろ。めだかでも飼うたらどうや」
「めだかなんて、今の時期におりますかいな。それに、飼うたかて、すぐにみぃに食べられてしまいます」
「ああ、みぃがおったな……けど、磐雄の使うてんのは、どうせ知流耶のお下がりか、なんかやろ」
「そうどすけれど」
「磐雄かて、お下がりばかりで嫌になる時もあるわ。節約するんも大事やけれど、たまには新しいもんも買うてやれ。必要なもんなんやし。余ったんは、他に使い道もあるやろ」
磐雄は強力な味方を得て、一気に表情を明るくしていた。どうやら、ひとつ余った分をどうするか、咲保は考えなければいけないようだ。
「物を大事にせんと、付喪神に祟られても知りまへんえ……」
尚も母は口のなかでもごもごと文句がましく言っているが、これは父の勝ちだろう。
そうこうしている間に、栗も剥き終わり、咲保は次の作業に移ることにした。
「ごめんね。どいてくれる? みぃをお願い」
膝の上の猫を抱き上げて、磐雄に渡す。と、みぃは不満げに鳴いてもがくが、磐雄に力づくで押さえ込まれて撫でられていた。