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生きることに興味がなかった頃のこと。

微かにそこにあるようなものがすきで。
そこはかとないと形容されるものすべては
じぶんの味方だと思っていたことがある。

そこはかとないもの、透きとおった姿を
見せながら、水にでも触れてしまったら
溶けてなくなってしまうもの。

たとえば、綿菓子のようなものにさえ
愛着をもっていた。

あれは舌の上に乗っけたそばからとけてゆく、
そんな命のはかなさだからすきだと心のなかで
思っていた。

自意識過剰な季節を生きていた。
ヘタしたらいまも続いてるのかもしれない。

そんなはかなさを愛しているのだから、
じぶんのことについても、ぼんやりとした
輪郭でしか自分が捉えられなかったし。

人とのかかわり方もわからなかったし。
ひとりがすきだった。

なにがしたいのか、とか。
なにになりたいのかとか。

なにをしている時に楽しいのかとか。
花はきれいだとか。

感情や情緒がバグっていた。

ウケ狙いじゃない。ほんとうにわからなくて。
色々なものの愛で方がわからなかった。

もっと子供らしく無邪気にしろって
言われるたびに、つまらなさそうな
顔がわたしのデフォルトみたいになって
いった。

そしていつしか希死念慮みたいな考えが
ちらつくようになって。

じぶんは長生きしたくないみたいな思いに
日々駆られている時期があった。

20代から30代の頃はそれがひどくて。
仕事してる時は冗談を言っておわると
ぐったりとしていた。

そして平気でそれを口にしていた。

ぜったい口にしちゃいけないその人の前で
平気で声にしていた。

その人は母だった。

母はわたしが甘えてそう口にするたびに
怒ることもなく不機嫌になることもなく
そうなの?そういう考えなの?
みたいな感じでするっとかわされた。

若いみそらでなにいってんのってスルーされた。

そして言うのだ。

わたしは長生きしたいよって。

母はわたしがたとえ死んでも長生きすると
宣言した。

死にたい病になって甘えてる娘の前で
心配そうな声をかけるでもなく
叱るでもなく、あなたがそれでもわたしは
生きるみたいなそういうリアクションを
いつもしていた。

そして取り残された。

わたしがそれを言う時はいつも、あえて言うと
人生の厄介な案件を抱えている時で、
すべてがゼロになればいいのにと面倒になって
逃げたくなってる時だった。

シニタイということで、母に甘え。
その甘えは、風の中にまぎれ結果母がどういう
ふうな人生観を持っているかの話へとスライド
してゆく。

楽しいことをしていたい。
美しいものをみていたい。
美味しいものを食べていたい。
自由で居たい。

それが母の望みであることは若い頃から
わたしは聞かされていた。

11月からわたしの日々にちょっとスラッシュが
入って、日常が変化した。

母の長期入院が決まって、ひとりになった。
部屋の右横の母のすわっていたオレンジ色の
椅子の背もたれをみていたら。

若かりし頃の一連の話を思い出していた。

ふいに、わたしは2人暮らしからひとり暮らしに
なったさして広くもない部屋にいて、この
部屋こんなに空間があったんだと我に返った。

そして20年暮らした部屋も歳をとっている
のかもしれないと夢想していたら。

あの日の、そんなに長く生きていたくない
って自分が口にしたことが思い起こされて
なんかわたしって相当ひどい嫌なやつだな
って思った。

産んでくれた母に、その誕生を父と共に喜んで
くれた母に、年頃になって長生きしたくないって
言われる身にもなってみなよって、ふいに
ひどいことを言ってしまったことを反省した。

今母は日々3時間のリハビリ生活をまじめに
受けながら病院で暮らしている。

リハビリの療法士さんにお疲れ様を言われると
「あなたもね、大変だったでしょう」って
会話しているのを聞いてちょっとじんとした。

母は病を得ても、あたりまえだけど、くさらずに
生きようと頑張っている。

もしかしたら健康な時よりも生きることに真剣だ。

母が倒れた時に思ったことは、どんな形でも
いいから生きていて欲しいという願いしか
なかった。

それは今もそうだ。

そして母に生きていて欲しいと願う以上
わたしもちゃんと生きようと思った。

そしてあの日、母はなんにも言わなかったけど。
中二病みたいなこといってごめんね。
コンビニ行ってくるわみたいに、しにたいとか
長生きしたくないとかいってごめんねって
そういう思いがわたしを包んでいた。

言っていいことと悪いことってあるというけれど。
「不肖の娘」はこの歳になって知りました。


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