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夏も涙もそっとおやすみ。

海砂糖を栞はからだの中に飼っている。

いつ頃からなのかわからないけれど。
あれはあの時かもしれない。

あの日、本を読んでいた。
真剣じゃなくぼんやりと。

小説の舞台とおなじ街に暮らしたことはないのに、
そこに登場するおばあさんやおじいさんは
まるで、栞のよく知っていたおばあちゃんや
おじいちゃんだった。

贈り物の包み紙の扱い方や、道具を大切に
磨いている時の祖父母のなにげない仕種が
瞬間に引き出されてきた。

あぁこんなところで彼らはいきいきと生きて
いたのかと見まがうような。

子供の頃の夏休み。

祖父の家の廊下や踊り場を通って、各部屋を弟と
探検してはしゃぎまわっていた頃が、ふいに思い
だされてきた。

たぶんじりじりと何処かの樹の中で蝉が鳴いて。
おとなたちは今年も暑いねなんて
口々に乗せてゆきながら。

団扇を扇いだりすいかを食べたりしていたかも
しれないずっとむかしの夏を小説の中の彼らに
横に座ってもらいながら、読みふけっていた。

物語のなかに棲んでいることばが
ひとつの絵になって動いては栞の
どこかをちくっと刺したり、掠めたり。
気がつくと、現実の世界にとけていくときの
至福感にとりかこまれている。

たしかにその何ページめかの辺りまで栞は
素面だった。

こんな感じで小説の中の時間は進んで
いくんだろうと、正気でたかをくくっていたら
とつぜん、通り過ぎようとしていた言葉に
ぜんぶもっていかれてしまった。

そこには理路整然とした文章が綴られていて
どこにも感傷の欠片もなかった。

少年だった主人公が8月の浜辺にいる、
家族みんなで。
彼はそこに砂山をつくって、
種を隠しておいたのだ。
水密桃の種を。

そんなエピソードがぽつんと綴られていた。
なにかを堪えたいような感情がとつぜんに
栞のなかに生まれた。

海で生まれたんだよって聞かされていた。

海で生まれた人は海に還ってゆくとも
聞いたことがある。

その言葉と物語の言葉がふれあって栞のなかで
ちょっとだけなみだっぽくなっていったのだ。

あぁ、なみだだと気づいた時はもう遅かった。

横たわっているときに流れ落ちるなみだは
どうしてこうとめどなく
滴りつづけるんだろうと思いつつ。

栞はあぁ、たったいま物語の外に放り
出されたところなんだなと思った。

目尻をその涙がつつつと通って頬を過ぎて
まっすぐ唇の端にたどり着いた。

その時しょっぱいはずの涙が甘かった。

甘いって思って、どうしてなんだろうって
側にいる本野君に聞いた。

涙が甘いんだけど。

知ってるって本野君は言う。

まるで今日は月曜日だよって言う時
みたいに。

知ってるの?

栞の涙甘いの知ってる。

その本を読む少し前のことだ。

その物語に出てくる舞台は波照間島だった。
同じ海の水を感じたくて栞は本野君に
頼んだ。

100ミリリットルぐらいでいいから海の水を
持って帰ってきてって。

本野君の持って帰ったペットボトルはなぜか
青かった。

海の青がそっくりそのままそこに映し出された
みたいに青かった。

そこのコンビニで一本だけ余ってたやつ。
店員もしらないやつだったよそれ。

やばいねって言いながら酔っていた栞は一口
なめた。

これが毒入りのミネラルウォーターなら
どうする?

栞は二日酔いも手伝ってけらけらしながら
ぜんぶ飲んだ。

本野君はありえねって言ったけど。

その時栞は幸せだったからもう明日死んでも
いいと思って飲んだのだ。

次の日の朝、泣いているじぶんの頬の冷たさ
で目が覚めた。

隣にいる本野君が、栞の頬を舐めて。

あめぇって呟いてまた眠った。

本野は猫かよって栞はつぶやいてもういちど
死んだように眠った。


🏖    🏖    🏖    🏖    🏖

今週も小牧幸助さんの企画に参加しております!
いつもすてきなお題をありがとうございます。





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