見出し画像

アメリカ留学中に黒人夫婦と暮らした3カ月

タイトルに「黒人夫婦」と書いてみたものの、これに対して一切差別的な意味を含んでいないことを始めにお伝えしておきたい。「アフリカ系アメリカ人夫婦」と書いても良かったけれど、実際アメリカで黒人の方々に「アフリカ系アメリカ人」と呼んだとしても、「いや、私はアフリカ系ではない」と主張する方々も増えているらしいので、あえてここでは「黒人夫婦」と書かせてもらう。

私はアメリカに留学した際に語学学校からコミュニティーカレッジへ進学をしたのだが、学校があった場所は私が一度も訪れたことのない所だったので、まず日本から現地に到着するとボランティアの人が空港で私をピックアップし一緒に住む場所を探してくれた。もともとアパートで一人暮らしをする気がなく、どこかの家のひと部屋を借りる「ルームレント」をしようと決めていた。ルームレントは大概ベッドルームは一人で使うけれど、キッチンや洗濯機、乾燥機は共有で使わせてもらえる。家の中の一室を借りるわけなので、自分で家主と契約内容のすり合わせや交渉をし、条件が合えば晴れて契約となる。ボランティアのマダム(多分70代のお金持ちアメリカ人マダム)と数件の家を回り、私は最終的にこの黒人夫婦の一部屋を借りることに決めた。

画像1

黒人夫婦は多分60代くらいで、ママは小学校の先生、そしてパパは家具職人をしていた。私は当時、黒人だからとか白人だからと言った区別や差別の概念をあまり持ち得ていなかったので、とにかく部屋の広さやバス停への距離、家賃やその他諸々の条件でその部屋を借りることに決めたのだ。カレッジに通い始めてから同じ学校に通う日本人留学生に「え?黒人と暮らしているの?なんで?」と驚かれることが何度かあってから初めて「そうか、そんなに珍しいことなのか???」と気が付いたくらいだ。しかし私は彼らと暮らす中で黒人の文化を感じていくことになる。この時の経験は今でも本当に忘れがたいとても貴重なものだ。

私は語学学校に通っていた半年間は白人家族の家にホームステイしていた。ホームステイとルームレントは似て非なるものなのだが、言うなればルームレントはもっとビジネスライクでドライな感じで、ホームステイはステイ先の家族の一員のように過ごすイメージだ。白人家族との生活がどういったものかは既に経験済みだったが、黒人夫婦との生活の文化の違いに驚く日々が待っていた。まず最初に、彼らの話し声の大きさに驚かされた。夫婦には息子が3人くらいいて、近所に住んでいたのかよく彼らの幼い子供たちを連れて家にやってきていた。初めは彼らの会話がどうしてもケンカしている様にしか聞こえず、私は一人部屋の中でハラハラしていたものだ。しかしある日の夜9時ごろだっただろうか?突然一階のリビングからピアノの音と彼らの歌声が響きだしたのだ。私の部屋は2階の1番奥の部屋だったけれど、それはそれは楽しそうな歌声と笑い声に眠気も吹っ飛んでしまったほどだ。そう、彼らは楽しくなり出すと家族で歌い踊り出すことが日常だったのだ。例えそれが昼でも夜でも関係なしに。

画像3

またある日、私が学校から家に帰ると小さな子供たちが遊びに来ていた。私は部屋に鍵をかけることも無かったので、ちびっ子たちは私の部屋にも入ったらしくいくつかのおもちゃをベッドの上に置いていた。そして私は驚愕するのだ。今となれば特段驚くようなことではないけれど、無知だった私には本当にそれは驚くべきことだったのだ。そう、ベッドの上に置かれていた人形は全て黒人を模した人形だったのだ。ちびっ子に服を脱がされていた黒い肌の人形は髪の毛もクルクルとカールし、目の色も青くはなかった。「えぇええぇええ・・・・。初めて見たよぉ・・・・」と心の中で呟いた。そりゃそうだ、黒人なんだから黒人の人形で遊ぶだろう。私だって日本人のリカちゃん人形で遊んでいた。

画像2
当時は気が付かなかったけれど、夫婦は南部の出身だったのだろうか?と推測している。なぜならママはしょっちゅう「ガンボ」を作っては私にも振舞ってくれた。ガンボとはオクラや甲殻類が入ったちょっとスパイシーなスープで、ルイジアナ州の伝統料理と言っていた。そしてパパは毎日のようにケンタッキー・フライド・チキンを食べていた。家のテーブルには常にあのチキンがモリモリ入るケンタッキーの紙製バケツが置かれていて、デザートにはどこかのスーパーで買ってきたピーカンパイを食べ、私にも何度かおすそ分けをくれた。当時無知だった私はそんな彼らの様子を見ても何も思わなかったけれど、きっと今なら彼らの食生活をみるだけで、「うぉ~~!本当にフライドチキンが大好きなんだ!!」と感動したことだろう。今でも「黒人=フライドチキン好き」というのは様々な映画を観てもわかるような定説だが、実際目の前でその様子を見ていたのだ。今思い出しても、彼らの文化を間近で感じられたことは宝でしかない。(「黒人ステレオタイプ」だと批判を受けそうだけれどこれは私の25年以上前の話なので許してほしい)


画像4

そして彼らと暮らして1番後悔していること、それはママが教会に行く日にせっかく私も誘ってくれたのにも関わらず、宿題をやりたいからと無下に断ってしまった事だ。黒人だけが行く教会だったのかどうかは今でも分からないけれど、その時ママが着ていた服は本当にすごかった。それは映画「ゴースト」に出てくるウーピー・ゴールドバーグそのものだったのだ。ゴールドのピカピカ輝く衣装を身にまとい、頭には見たことも無い形の帽子を被り、いつもより5cmは高そうなヒールを履いていた。ママはニコニコと楽しそうに誘ってくれたのに、ジーンズしか持っていなかった私は何だかそこに行ってはいけない気がして断ってしまったのだ。あの時そんなこと気にせずにママと行っていれば、もしかしたら教会でゴスペルを歌う様子などを見ることができたかもしれなかったのに!と、今でも残念でならない。

画像5

そういえば、私が借りた部屋のベッドカバーはサテン生地で金色だった。きっと多くの白人やアジア人は選ばないであろう物だったけれど、私はここでの住み心地が悪くなくしばらくお世話になる予定だったのだが、仲の良かった日本人留学生が同じコミュニティーカレッジに進学することを決め、二人でアパートを借りルームシェアすることにしたため3か月ほどで家を出ることになってしまった。

私は当時よくサロペットを着ていた。パパも作業中はサロペットを着ていたので、二人でお揃いだねと微笑みあったことを憶えている。ママはレクサスに乗り毎朝職場に向かい、ある日はどこからか表彰されたと表彰状を見せてくれた。そして私に言った。「どこにいても必ず誰かが見てくれているわ。だから努力を惜しまないでね。」と。そしてその夜また息子たち家族がやってきて、ママはピアノの音と共に心行くまで歌い踊っていた。彼らの家を出てからはもう会う事は無くなってしまったれど、この3カ月は本当に忘れがたい毎日となった。会いたいな~。。。元気かな~・・・。夫婦が飼っていた犬の名前は憶えているのに、二人の名前は忘れてしまった。でもママが私に伝えてくれた言葉は忘れずに生きていこうと、今noteを書きながら思った。

画像6


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?