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軽やかに、たくましく。海外で学んだ「スラッシャー」という働き方ー長谷川桃子【文響者!#6】

明日すら見通せない変化の時代。必要なのは、不確実性への備えと環境を変える度胸だ。それらを併せ持つ次世代のロールモデルが、本日の主役・長谷川桃子。世界で培ったキャリア観には、これからを生きるヒントが満載。ー(編集・執筆 出版営業部 中西亮)

新規事業を創出し、出版に革命を起こしたい。

(長谷川)翻訳書籍編集部の長谷川桃子です。現在は、文響社が持つコンテンツをグローバルに展開していく新規事業に取り組んでいます。私はディレクターという立場で、プロジェクト全体の進行に責任を持っています。この事業で出版業界に革命を起こす意気込みです!

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長谷川桃子/ Momoko Hasegawa
兵庫県宝塚生まれ。日本とスイスで育った後、カナダの大学を卒業。インターネット勃興期にIT企業に就職。アメリカの駐在を経て、1年前に文響社に入社。現在はプロジェクトマネージャーとして新規事業開発をリードしている。

日本と海外で育った学生時代

ー海外経験豊富な長谷川さんですが、生まれはどちらですか。
(長谷川)宝塚歌劇団で有名な兵庫県の宝塚市で生まれました。幼少期はそこで過ごし、小学3年生のときにテレビ局の報道記者だった父の転勤によって家族でスイスに移住しました。中学1年生で帰国し、中高はインターナショナルスクールに通いました。その後、すぐには大学に進学せず、アルバイトをしながら自分の進路について1年間ほど考える時間を設けました。

ーそこからまた海外へ?
(長谷川)
はい。アルバイトでお金を貯めて、友人のいるカナダに旅行で行ったのですが、モントリオールのマギル(McGill)大学で聴講した講義がめちゃくちゃ面白くて!そこから猛勉強をして合格することができました。当時は父と同じ報道の道を目指していたので、専攻は政治学でした。

ーでは、新卒の就職も海外でされたのですか。
(長谷川)そのつもりだったのですが、就職活動がちょうどアメリカのサブプライムローンの時期と重なり、海外での就職がとても厳しい状況だったのです。その中でチャンスを求めて参加した「ボストンキャリアフォーラム」という留学生向けの採用イベントで出会った日本のIT企業に就職しました。フェイスブックが流行りはじめ、「これからはインターネットだ」だと盛り上がり始めていた時期でした。迷いもありましたが、父と同じ報道の道を歩むより、新しい産業に賭けてみたいと思ったのです。

アメリカの駐在経験が人生の転機に。

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(長谷川)入社当初は、まだまだインターネットの黎明期で、例えばWEB広告もテレビCMのおまけのような扱いでした。しかし2010年頃にスマホが急速に普及して一気に潮目が変わりました。当時の事業の成長は凄かったです。私はWEBディレクターとして案件を複数抱えていましたが、数か月先まで仕事が途切れない状況で。新しい部署も多く立ち上がり、とってもエキサイティングな日々だったことを覚えています。そうは言っても、5,6年経って飽きも出始めた頃に、海外事業部へ異動となり、アメリカのロサンゼルスへの赴任が決まりました。

ースイス、カナダに次いで、アメリカ!単身で行かれたのですか?
(長谷川)
いえ。当時はまだ結婚していませんでしたが、今の主人と一緒に移住しました。主人とは、中学生の頃からの趣味であるタッチラグビーを通じて出会いました。私の友人が「会社に桃子のタイプの男性がいるから!」と練習に連れてきたのですが、本当にタイプで(笑)。私の一目惚れでした。それから半年後に付き合い始め、そのまた半年後にアメリカ駐在が決まったのです。振り返れば、かなり思い切りましたが、私が「一緒に行かない?」と誘ったところ、彼も「行こうかな」と決めてくれたんです。

ーえっ、すごいですね!
(長谷川)そうなんですよー!今でも、あの時の彼の決断をリスペクトしています。当時彼は商社の営業として働いていて、新卒2年目の大事な時期でした。それでも、アメリカに行けるのは貴重な機会だからと会社を辞める決断をしてくれたんです。彼自身は、アメリカの短期大学で語学を学び、現地のベンチャー企業に入社しました。今は外資系企業の日本法人で働いています。結婚もロサンゼルで決めましたし、公私ともに激動の時期でした。

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(写真)所属するタッチラグビーチーム「LA ROYALS」

ーそこから、どういった経緯で文響社へ転職されたのですか。
(長谷川)赴任して3年が経過した頃、次のキャリアを考え始めていました。そんな時期に、高校1年生からの親友で翻訳編集部部長の平沢さんが、たまたま出張でロサンゼルに来たんです。一緒に海に行ったり、コーヒーを飲んだりしながら近況報告をし合う中で、彼の仕事のことを聞きました。当時は文響社も「うんこドリル」も知りませんでしたが、帰国したときに電車広告を見て、勢いがある会社だと実感したことをよく覚えています。タイミングよく「新規事業のために英語とITのできる人材を求めている」と誘ってもらったので、転職を決心しました。

海外で得た「スラッシャー」というキャリア観

ー職種や居住地を軽やかに変える柔軟さの秘訣はなんでしょうか。
(長谷川)ロサンゼルス駐在中に現地の社員が教えてくれた「Slasher(スラッシャー)」というキャリアの考え方を、20代後半から意識しています。この言葉は「肩書をたくさん持つ人」という意味を持っていて、「グローバル事業開発者/プロジェクトマネージャー/コンサルタント」というように「/(スラッシュ)」で並記することが語源です。自分がスラッシャーになれば、一つの柱がダメになっても他の強みで勝負することができます。特に、変化の激しいIT業界で働く人は強く意識している考え方だと思います。

ー海外では、日本以上に自分のスキルに関する意識が強いのでしょうか。
(長谷川)
そうですね。日本では自分の仕事を紹介するときに、企業名と役職を言うのが通例です。しかし欧米では、ほとんど聞かないように思います。それよりも、「~なプロダクトを広める仕事をしています」というように、社会や会社に対していかに貢献しているのかを具体的に説明することが多いです。

ーなるほど。転職が一般的であることの裏返しですね。
(長谷川)
そう言えると思います。例えばアメリカでは、3年程で会社を移るのが普通でした。年収を上げる一番のオプションが転職だからです。人が替わることを前提とするために業務内容は明確に定義されていて、「それはレジュメ(職務経歴書)に載っていないので、私の仕事ではありません」と社員も普通に言います。ロサンゼルスでEC事業部を統括していたときの業務の大半が、各人の役割やステークホルダーへの貢献度を明確に定義して機会を与えることでした。スラッシュの数を一緒に増やしてあげることも、マネジメントの大切な仕事だと思っています。

大丈夫。あなたにできることは、たくさんある。

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ーもうすぐ第二子の出産を予定されていますが、育児とキャリアについて思うところをお聞かせください。
(長谷川)
一人目が生まれたときは、社会から外れてキャリアが途絶えたような不安を感じました。でも今私が思うのは、出産はキャリアの終わりでも始まりでもないということです。決して忘れちゃいけないのは、それまでの人生があって、自分の周りには家族や友人や同僚がいるということ。自分を見失いそうになったら、「私ってまだ生きてる?私って何ができるかな?」と人に聞いてみてください。きっと周りの大事な人が教えてくれます。いつだって自分にできることは、たくさんあるものです。

そのうち、自然と仕事に戻る活力が湧いてくるときがきます。もし仕事より家庭を優先したいと思うのであれば、それも素晴らしいことです。いずれにせよ、色んなことに縛られて自分で自分の可能性を狭めない方がよいと私は思っています。今の自分を大切にして突き進んで行けば、絶対に道は拓けてきます。

ー最後に、長谷川さんにとって「文響社」とは何でしょうか。
(長谷川)一言でいえば、”momentum(モメンタム)”です。つまり「勢い」。どんなことでも、やろう!と決めたら皆が猛ダッシュする会社だと思います。中途入社の人がほとんどで、既にしっかりと自分を持っている印象があります。そんな人たちが集まっているから、毎日がイベントフル。あれもしたい!これもしたい!と妄想が止まらなくなります(笑)Go with the flow!いい波に乗っていきたいですね。

ー力強く温かいお話を、ありがとうございました!